二.
ヤナギは、無言で己の過去を眺め見ていた。
拯溟の花は、たおやかに舞う。
ヤナギの目から一筋の涙が流れる。
少女が目を開いた時、目の前にいたのは一人の男だった。精悍な顔つきをした三十過ぎの男は、少女の目覚めに酷く狼狽したようで、周囲の者たちに少女が目覚めたことを告げ、何を言えばいいのか、としきりに訊いている。
周囲の者たちは笑いさざめき合い、
「?激昂の大蛇?ともあろう者がそんなに慌ててどうするのですか」
「サブライ殿、取り敢えず、姫巫様のもとへお連れした方がよろしいのでは?」
と、言葉を返す。
サブライという名の男は、少女にぎこちなく笑顔を見せた。深い傷をこしらえた男の面に、少女は俯く。
自分が誰なのか、思い出せない。
「では、今からお前を姫巫様のところへお連れする。立てるか?」
気遣わしげにサブライは少女に手を差し伸べる。少女は、自分に差し伸べられた手をじっと見ていたが、そっと小さな手を重ねた。
サブライと少女は、黙したまま渡り廊を歩いた。サブライは、何度か少女の方を向いて、何事か喋ろうとしていたが、少女は頑なに男を見ようとしなかった。
(私は、誰。ここは、どこ。怖い、怖い)
少女は、下唇を噛みしめて溢れおちそうになる涙を必死に堪える。
男と少女は、大きな一室に入った。繋いでいた手をサブライは解き、片膝をついて頭を垂れる。
少女は笑いもせずに棒のように立っていた。
隣にいたサブライが頭を垂れろと怒鳴って初めて、呼吸することを思い出した。
上座にいる美しい女は、優雅な動作で立ち上がる。白粉を叩いた顔は、一片の曇りもなく、唇に引かれた紅は、彼女の真っ黒な長い御髪と対比している。
息を呑む美しさは、少女の胸に宿っていた恐怖を煽った。
「ようやく来てくれた。わたくしはそなたを待っていた」
女は言い、少女の前に腰を落とした。
「わたくしは、姫巫と呼ばれる者。そなたは――」
「私は、私は……わかりません。何も、わからない」
少女の目に涙が浮かび、それは頬を伝った。思い出せない、自らの名。そして、過去。
姫巫は、口を弓形に歪めて笑った。真白い歯が垣間見える。
「ああ、可哀想に。何も覚えていないのだね。……そなたは、ヤナギ。ヤナギという」
「私の名は、ヤナギ?」
「ヤナギ……良い名です」
呟く姫巫が、ヤナギには恐ろしくてたまらない。早く場を立ち去りたかった。
「戦場で倒れているところを、サブライが見つけたのです。そなたは、これからこの高天原国の宮殿で、巫となるために修行を積み、拾ってやった恩を返しなさい」
ヤナギは、ただ俯いた。
姫巫は、装束を少しだけ持ち上げ、その場を離れる。彼女はヤナギの右側へ歩を進めた。
「して、サブライ。この娘は?」
姫巫に問われ、ヤナギの左にいたサブライは、床に額を擦り付けそうな勢いで頭を低くする。
「はっ。先の戦で親を亡くした子らでございます」
「…………そうか。名は?」
「はい、サコと申します。こちらの男児は、ムロと」
ヤナギとは違う、はきはきした声でサコという娘は姫巫に答える。
ヤナギは、サコたちが右隣にいることに気がつかなかった。それくらい、彼女たちが気配を消していたのか、ヤナギが混乱し過ぎて気づかなかったかは、定かでない。
サコは雀斑の浮いた浅黒い肌をしており、挑むような眼差しを姫巫に向けている。サコの横にいるムロは、首を縮ませて事の成り行きを見守っていた。
姫巫は口の端を上げると、腰に手を当てて身を屈めた。サコと姫巫が顔を突き合わす。
「年は?」
「六つにございます」
「よろしい」
姫巫は身を翻して、座椅子に戻った。彼女は扇を開き、緩慢な動作でそれをサブライに向ける。
「中々どうして、肝の据わった娘じゃないか。ヤナギとちょうど同じ年なことだし……お前、ヤナギの付き童となるが良い」
たいそう満足げに姫巫は笑んだ。
サブライは、
「ありがたいお言葉、もったいのうございます」
と幾分ほっとした声色で言った。
ヤナギとサコの視線が交錯する。
サコは、慎ましく微笑んだ。その微笑は、恐怖が大半を占めていたヤナギの心に、温かな風を起こしてくれた。
高天原国の巫として離れに暮らし出して数ヶ月過ぎても、失った記憶は、ヤナギを苛み続けた。
毎夜、知らない場所の夢を見る。夢の中で自分は、去って行く背中を泣き叫んで追いかけるのだ。
毎回、あと一歩のところで、花吹雪が巻き起こり、背中の主に手が届かない。
涙を流して跳ね起きることは、日常茶飯事だった。
ヤナギは、下級巫達が使う共同部屋で寝食しているのだが、他の巫達はヤナギが毎晩うなされているため、『ヤナギが五月蝿くてかないませぬ。部屋を別にして下さいまし』と大巫に嘆願していた。
彼女たちが怒るのも無理もない、とヤナギは思う。
巫修行は骨の折れるものだ。疲れて床に就き、泥のように眠りたい時に、他の者がうなされているがために眠れないのでは、苛立ちもするだろう。
ヤナギは布団の中で丸くなって、睫毛についた滴を弾く。
「ヤナギ様、ヤナギ様」
小さな声がヤナギを呼んだ。はっとして引き戸の方を見やると、そこには松明を手にしたサコが立っていた。
サコは、巫であるヤナギの付き童として身の回りの世話をしてくれている。明るく真面目な彼女とは、ヤナギは気兼ねなく話すことができた。他の者は、どうもヤナギに近付いてくる真意が掴めず、距離を置いてしまう。
ヤナギは、ひしめく巫たちを起こさぬよう注意を払いながら、彼女のもとへ向かった。
「サコ、そなたこんな夜深けに――」
「しっ」
サコは人差し指を唇に当て、ヤナギの手を引く。
「ちょっと、夜に抜け出したのが知れたら、大巫様からお叱りを受けるわよ。巫である私よりも、そなたの方が厳しい叱責を――」
「わかってます。でも、私……どうしてもヤナギ様に見せたいものがあるんです」
そう言って、サコはヤナギを先導する。いけない、と頭ではわかっているのに、強く拒否できなかった。サコの目は輝いている。ヤナギの失ってしまった感情が、彼女にはあった。
二人は履物をつっかけ、姫巫の社殿があるという神杷山に続く森――梔子斎森の入口まで辿り着く。
神聖な森への入口を示す、鳥居をくぐり抜け、サコは橘の木で囲まれた池のそばでようやく足を止めた。
汚れた身を浄化させる作用のある神の池、鏡月池からは薄く湯気が立っている。
「ほらほら、見て!」
肌寒さに身を縮めたヤナギに、サコは手招きする。
「私は見ない。早く離れに戻りましょう」
ヤナギは言ったが、それを無視してサコは池の中を覗き込んでいる。手にした松明が、彼女の嬉々とした表情を照らす。
気になった挙げ句、少しだけならと自分に言い聞かせて、ヤナギは橘の木を掻き分け、池を覗いた。
「わあ」
思わず感嘆の声が出た。
池の面に映っていたのは、満天の星を宿した空だった。真ん中には白く丸い月が浮かんでいる。
風が吹く度、漣立って空は揺れた。しかし、しばらくすると、また夜空を映し出す。
ヤナギは何も言わず、サコの隣にしゃがんで、それを見ていた。
「私、眠れない時これを見に来るんです」
ぽつりとサコが口にした。
「あなたが夢にうなされてるって噂に聞いて。いても立ってもいられなくて」
「それで、ここに連れて来てくれたの?」
「はい。寝所を覗いて見て、ぐっすりお休みになられていたら、そのまま失礼しようと思っていたのですが、ひどくうなされていたから。迷惑は承知でお誘い致しました」
照れたように、サコは頭を掻いた。
「気分転換も必要かな、と」
「サコ……」
自分のことなど、誰も気にかけていないと思っていた。何もわからず、寄る辺のなき場所に一人、放り込まれたと嘆いた。
しかし、それは違った。
少なくともサコは、ヤナギのことを案じてくれている。
ヤナギは泣きそうになりながら、微笑んで見せた。
「ありがとう」
サコがヤナギに顔を向け、笑った。飾り気のない、純粋な笑顔。八重歯の覗く彼女の口許は、みずみずしい生命の強さを感じさせる。
サコは立ち上がり、空を仰ぐと、両手を広げた。
「月も星も、ヤナギ様が笑ってくれるんなら何でもあげたくなるなぁ」
「まあ、サコったら……」
二人は、顔を見合わせて笑い合った。
『――が笑ってくれるなら、月も星も、花も。俺の与えられるものならば全て、与えたくなる』
心をざわめかせる、誰かの声がする。