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一.


 ヤナギは白い空間にいた。何もない場所。

 ふと、花弁がヤナギの膝もとに落ちてきた。上を見上げると、辺りは全て灰色の花で覆われている。

「……拯溟しょうみょうの花……」

 花々は段々空間を占める密度を濃くしていき、ヤナギを圧迫する。芳醇な香りを胸いっぱい吸い込んだ刹那、息苦しさはなくなった。かわりに、ヤナギの前にはただ広い野原が広がっていた。



――兄上、兄上――。

 拯溟の花が吹雪く中、少女は慕うように兄を呼ぶ。

 少年は後ろ一つに束ねた髪を揺らして、少女の方を振り返った。少女は兄の懐に勢いよく飛び込んだ。

「おかえりなさい、兄上。今回の戦はどうだった? 怪我しなかった?」

「ああ、勝ったよ。姫巫の軍勢は一旦引いた。怪我もない」

「そう! 良かった」

 ほっとした少女は花が綻ぶように笑う。兄はそんな妹を見て優しげな眼差しを送った。

「キョウカ……必ず、この国を復古しよう。その時は」

 少年は言葉を切ってキョウカを抱き上げる。

「お前を、この世で一番幸せな姫にしてやるから」

 兄の瞳に映る柔らかい色が心地良くて、キョウカはにっこりと頷いた。

「キョウカは、兄上と一緒に入れるだけで幸せ」

「参ったな」

 兄ははにかんだ表情を見せる。

 キョウカは幸せだった。国の復興だとか王族の威信だとか、そんなもの幼いキョウカにとって見れば興味を持てないものであり、日々指南役から教わる黄昏国と高天原国の確執でさえどうでも良かった。ただ、兄とこうして共にいられるだけで、幸せだった。

 キョウカよりも七つ年上の兄は幾度も戦へ赴いている。毎回擦り傷や打ち身をこしらえて帰還するのだから、キョウカは気が気ではなかった。いや、生きて帰ってくるだけでもいい。敵国との戦いは熾烈を極めている。荷車で物言わぬ死人となった兵たちを囲い、その家族や友人が泣いているのをキョウカは何度も見たことがある。

(兄上は戦が怖くないのかしら)

 キョウカは幼いながら、懸命に思いを巡らせた。

 敵国には神の加護を受けた術者がいると指南役は言っていた。

 姫巫――。かの国の術者の名。女の身でありながら戦場を駆ける彼女は、戦女神そのものだと指南役は苦虫を潰したような顔をして呟いていた。 

 その姫巫と兄は戦っている。兄だけではない。地上の国々は皆、断固として敵国へ下ろうとしなかった。

 姫巫は奇怪な術を操るらしい。その術のせいで黄昏国の優秀な兵たちが散った。

「ほら、ぼうっとするな。もうすぐ夕餉ゆうげの時間だろう」

 兄に手を引かれ、キョウカは足取り軽く王宮へ歩き出した。

 拯溟の花がいっせいに風に吹かれて花弁を舞い散らす。二人の姿が掻き消えた。



 再び、拯溟の花が視界一面に広がり、新たな記憶をヤナギの前に示す。



 キョウカは目いっぱい開いた瞳に零れんばかりの涙を湛えて母を見た。

 母は沈痛な面持ちでキョウカから視線を外す。父もまた、項垂れている。 

 救いを求めて謁見の間にいる者たちを見回すが、誰もキョウカと目を合わせようとしない。あれほど毎日軽口を叩き合っていた指南役も、いつもキョウカを可愛がってくれていた目付役も。側近も、身の周りを世話してくれる女官も。誰もキョウカを助けない。

「嫌……」

 涙を零さないよう口をへの字に曲げてキョウカは父母に反抗した。

「キョウカ、赦して頂戴」

 母がか細い手でキョウカの頬に触れようとする。それをキョウカは撥ね退けた。

「嫌と言ったら嫌! 絶対に嫌!」

「キョウカ……っ」

「母上は勝手だわ。私を犠牲にして自分たちだけ助かろうとしている!」

「おお、何ということを……」

 おいおいと母は泣き出した。気丈な母が泣いているところを見たことがなかったキョウカは驚きに言葉を忘れる。

 父は泣き崩れる母の肩を優しく叩き、キョウカを見据えた。

「高天原国の姫巫が、お前と引き換えに黄昏国を滅ぼさないでおいてやると言った。この提案を呑まねば、この国は滅亡してしまう。これは国を賭けた取り引きなんだ」

「いいえ、父上。姫巫は私を手に入れたところで引き下がるような者ではないわ。姫巫が関わる戦に赴いた兵たちが言っていた。命乞いしても姫巫は躊躇いなく殺すのだと。そんな非情な人が、父上との約束を守るわけがない。きっと、また攻めてくる」

「……聡いだ。まだ六つだということが信じられん。だから、本当のことを教えよう」

 キョウカは父を強い力で睨み上げる。周囲にいた人々は固唾を呑んで王の言葉を待っている。

「…………お前は、姫巫の孫に当たる」

「え?」

 全く考えていなかった言葉にキョウカは呆然とした。

「我の后は――お前の母は、高天原国が姫巫の娘。その母の子であるお前は、姫巫の孫に当たる。姫巫は代々その血脈しむに連なる娘が継承するのがならわしだという。だから、お前を引き換えに――――」

「なりません! ここをお通しするわけには……」

「黙れ」

 扉の向こうから押し問答が聞こえてきた。扉はすぐに開け放たれた。

「……父上、何をなさっているのですか」

 いっせいに皆の視線が謁見の間の入り口に向く。言葉を紡げないでいるキョウカもまた、声の主を見やった。

 兄は朽葉色の双眸を部屋全体に素早く走らせる。彼の後ろには幾人もの護衛兵がおり、必死に兄を中へ入れまいと外套や肩を引っ張っている。

「ハルセ様、いけません。王にはハルセ様を入れるなときつく言われております故」

「どうか、お引き取りを」

 護衛の手を振り払い、ハルセはキョウカたちのいる中央部へ近づいてくる。

 父は母の肩から手を離し、キョウカの肩に手を乗せた。ぐっと力を込められ、骨が悲鳴を上げる。

「わかったか、キョウカ。これはお前に託された使命だ」

 険しい顔をして父はキョウカを覗き込んだ。今まで父の恐ろしい表情を見たことがなかったキョウカは縮こまる。

「その手を離せ」

 ぱんっと小気味いい音と共に父の手がキョウカから滑り落ちる。

 兄がはじいてくれたのだ。兄――ハルセはキョウカを守るように掻き抱き、父やその場にいる人々を睨みつける。

「先の姫巫からの提案の件ですか」

「そうだ」

「あれは、受けない方が良いと再三申し上げたではありませんかっ」

 ハルセは声を荒げた。

 父は壁際に控えていた兵たちに目を配る。兵たちはすぐにハルセとキョウカを取り囲んだ。嬉々としている者はいなかった。兵たちは俯き加減にキョウカたちの周りを固める。

 ハルセは舌打ちし、絶対に離さないというようにキョウカをより一層強く抱きしめる。

「――キョウカのことは、忘れろ」

「何を言っているのですか! 貴方はこの国の王だろうっ。姫巫には絶対に屈しないと息巻いていた気迫はどこへ行ったんだっ」

 ハルセの叫びは悲鳴に近かった。

「これより先、キョウカはこの国の者ではない。姫巫を継ぐ、我らの敵となる娘よ」

「馬鹿な……」

 掠れた声でハルセは父を見る。その目には父に対する失望があった。

 キョウカは身を硬くした。父に聞かされた真実がキョウカの頭の中で渦巻いている。

 父は、〝神のかいな〟と占者たちに運命づけられたハルセの身代わりとして、自分を差し出すのだとキョウカは気づいていた。

 今は姫巫の機嫌を取って滅亡を防ぐためにキョウカを差し出す。そして、ゆくゆく万が一キョウカが姫巫になったとしても、ハルセがいるならば勝利できる。そういう思惑なのだ。

 ――所詮、自分は捨て駒。

 キョウカの目から一粒の涙が落ちた。

「…………俺が行く」

 短く、ハルセは言った。

 父は怪訝げにハルセを見た。

「俺が、キョウカの代わりに高天原国へ行く。間者だって何でもやってのけるから……父上、どうかキョウカはここに。こいつはまだ小さい」

「許せ、ハルセ。黄昏国のため、必要な犠牲なのだ」

 ハルセは言葉を失った。

「……お前たち、キョウカを連れて行け」

 能面のように感情の見えない顔で父は兵たちに号令を飛ばした。兵たちは迅速にハルセとキョウカを引き離しにかかる。

 キョウカはハルセと離れたくなくて必死に兄の装束を握りしめていたが、大人の力に子供が勝てるわけもなく、兵に引きずられて謁見の間から遠ざかる。

「兄上! 兄上! 兄上――!」

 唯一の味方であるハルセを、キョウカは声が涸れるまで叫んだ。手を伸ばす。しかし、その手は届かない。キョウカは半狂乱で泣き叫んだ。

 謁見の間で、ハルセが兵たちに抑えつけられながらもキョウカに手を伸ばしているのが目に入る。

「キョウカ! くそっ、離せ……お願いだ、離してくれえっ」

 絶叫が宮内に木霊した。


 キョウカは一人、自室にこもっていた。入り口には兵が控えているため、外に出ることもできない。キョウカは赤く腫れた目をこすった。二日三晩、泣き通してわかったのは絶対に姫巫のもとへ行かなくてはならないこと。キョウカがこの役目を拒めば、間違えなく国は滅ぶかその寸前の状態まで陥る。

 キョウカは膝を立てて、顔をうずめた。

(兄上と敵同士になるなんて嫌だ)

 涸れることを知らない涙は再びキョウカの頬を濡らす。

 ふと、大きな物音がした。戸の向こうからだ。だが、開かない戸に興味はないとばかりにキョウカは泣き続ける。

「…………キョウカ」

 聞きなれた大好きな声色がキョウカの耳をくすぐった。キョウカは恐る恐る伏せていた顔を上げる。戸を開けたのは、ハルセだった。

「兄上、どうして? 兵がいたのに……」

 部屋の外を覗くと、二人の兵が血を流して倒れていた。きゃっとキョウカは悲鳴を上げる。鼓動が速まる。致死量の血液は絶え間なく兵たちから流れ出ていた。

 キョウカはその時初めて、今のハルセはいつものハルセと違うことに気がついた。穏やかさも、優しさも、いたわりもない。あるのは深い悲しみを宿した心。キョウカはハルセから後ずさった。

「もう、お前を守れない」

 ハルセは、凪いだ剣をひたとキョウカへ向ける。彼は夜空に孤独に咲く月の如く、儚い笑みを浮かべた。

「願わくば、もう二度と今生でまみえることがないように」

 兄の声が震えている。

「さよならだ、キョウカ」

 視界は朱色に転じ、体を生温い何かが伝う。生温いものに手を当ててみると、それはがキョウカの体より流れ出でた血だとわかった。すぐに睡魔がキョウカを襲った。

「…………響くは始まりと終わりを告げる、宿運が鬨の声……」

 古代史に残る有名な一節をそらんじるハルセを遠く感じる。ばたばたと大きな足音を立ててたくさんの人がキョウカの部屋へ入ってきた。

「ハルセ、何をしておる! 医者を……誰か、早く医者を連れてまいれ!」

 まどろみの中、キョウカはハルセに手を伸ばす。伸ばされた小さな手を、掴む手はなかった。




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