五.
突然、戦の狼煙は上がった。
地上へ続く蜘蛛の廻廊全てを一気に叩いた地下の国々は、驚くべき速さで都へ上がって来た。
「怯むことはない。お前たちはこうなることを前提として、訓練を重ねたのだ。俺の指示に従えっ」
揺れる兵たちをヤサカニは大音声で以って落ち着かせた。
「まず、必ず地下の者たちは都へ真正面から攻め込んでくる。だから、第一の守りは駛嵋門前に布く。そして、そこが突破されたら迷いなく御殿の南門を守れ」
「しかし、ヤサカニ殿。もしかすると、奴らは西門から攻めてくるかもしれません」
「それは万が一にも有り得ない。ムロが、自ら指揮下に置いていた軍がいる門から攻略しようと考えるとは思えない。彼らがこの国を去った時、西門兵たちと他の門兵の武力の差は歴然としていた。だが、今は違う。ここにいるのは高天原国軍だ。宮内で変に指揮系統を分けられた階級制の軍ではない。お前たちは、力ある守り手だ」
兵たちはおのおの顔を見合わせ、唇を一文字に引き結ぶ。その顔は決意を持って凛としている。
「都が落ちたとて、宮殿が落ちなければなんとかなる。いや、なんとかしてみせる。あちらは遠路遥々来ているんだ。兵糧も少ないはず。長期戦に持ち込めば、こちら側の勝算が上がる。持ちこたえろ。お前たちなら、絶対に成し遂げられると信じている」
ヤサカニの鼓舞は兵たちの心を見事に捕らえていた。彼らは大きく拳を振り上げて勝利を誓う。それを見て、ヤサカニはほっとしたように口許を緩めた。
「では、皆自分の定位置についてくれ」
武具の擦り合う音を立て、意気揚々と兵たちは持ち場に散って行く。
ヤサカニは切り傷にまみれた自らの掌を空へとかざす。皮膚の薄い部分が、夕陽に照らし出されて赤く透けている。命の赤は、確実にヤサカニの体内を巡っている。
(勝つ)
その意志を心に浮かべる。
何のために勝利を掴みたいのだと問われれば、ヤサカニは迷いなく答えられる。
――ヤナギ様の居場所を守るため。
それだけがヤサカニを突き動かしていた。まだ、ヤナギは幸せを知らない。彼女が心の底から幸せを感じられるようになるまで、絶対に守ってみせる、とヤサカニは自らに誓う。自分自身、〝幸せ〟とは何かわかっていないが、この戦に敗れれば考えることさえできなくなる。ヤナギもヤサカニも、まだ何も掴めていない。
(……絶対に、勝つ)
夕陽を掴むように拳を握った。
王宮内で巫たちと共に後方から援護をしていたヤナギの耳に飛び込んできた戦の趨勢は、非常に厳しいものだった。大きく穴の開いたゆがけをつけた兵は、転がり込むように巫たちがいる離れに駆けてきた。
「駛嵋門が突破された。地下の蛮族どもが王宮目がけて来ている。俺たちも南門まで後退してきたから、巫殿たちもより一層、強固な術を練ってくれ!」
「状況は思わしくないの? ヤサカニは?」
ヤナギの問いに兵は、「はっ」と頭を下げて答えた。蒼の腰帯を巻いているところを見ると、彼は西門兵に違いなかった。
「ヤサカニ様はただ今最前線におられます。あのお方は敵方の動きを全て読んで的確に攻撃の指示を出しておいでですが、敵方へ攻撃を仕掛ける度に何か奇妙な壁に弾き返されてしまうのです」
「奇妙な壁?」
「はい。どう表現したらいいか、某にはわかりかねますが。何か……圧倒的な気を感じます。敵方の主軸はムロ武――いえ、裏切り者です。〝神の腕〟は我々の前に姿を見せておりません。前線は混戦しております。正直に申し上げますと、苦戦を強いられております。それでは、某も戦場に戻ります」
兵は口早に言うと、来た道を引き返した。
開け放たれた戸の外からは絶えず轟音や剣の音がしており、激しい攻防が繰り広げられていることがわかる。
巫たちは王宮へ敵を入れないよう、必死に巫力を練り、精度を上げて戦場へと飛ばす。それは見えぬ糸となり敵を縛るが、何故かその効力が格段に弱い。
額に玉のような汗を浮かべた大巫は手に持っていた橘の枝を床に叩きつける。大巫の乱暴な行ないにヤナギや巫は、ぎょっとして巫力を練るのをやめた。
「……わたくしたちの術は効かない」
きっぱりと大巫は言い切った。そして、一つの部屋にすし詰め状態でいた巫たちを見渡す。
「敵方には神がついております。それも、辺境の地にいる小さき神々でない、大きな力を持った神が味方している。神力を前にして、わたくしたちが心血を削って術を放ったところで跳ね返されてしまいます」
「ならば大巫様、私たちはどうすればよろしいのでしょう。剣を持って戦おうにも、私たちは護身程度しか剣術を習っておりません」
真っ青な顔で巫の一人が言った。それに呼応して他の者たちも騒ぎ出す。
「……そうよ、わたしたちにも神がついているではないですか」
はた、と巫がヤナギを見た。その目は血走っている。
巫たちはヤナギの装束の裾に縋りつく。
「姫巫様、あんな敵など貴女のお力で薙いで下さい」
「戦場では常に圧倒的な力を揮っていらっしゃったではありませぬか。どうか――」
「私の力も効かない」
巫たちの言葉をヤナギは皆まで聞かずに振り払った。ヤナギの表情は強張っていた。
先ほどから何度も真象の力を揮っているのに、一向に戦の流れが変わらない。何か、姫巫の力を越えた何かがヤナギを阻んでいるのだ。
(まさか……神降ろし?)
ヤナギは奥歯を噛みしめる。黄昏国を守護する神――地祗。地祗を何者かが身に宿しているのかもしれないと思い至る。
ヤナギの中に受け継がれている姫巫の記憶の中に、神降ろしの記憶がある。神降ろしは人でなくなってしまう代わりに、神を身に降ろすことを赦される。ヤナギのように神に力を借りて力を揮うのでなく、自ら神の力を揮うのだ。行使する方法によって、力には雲泥の差が生まれる。
巫たちのヤナギに対する罵声も、叩く行為も、ヤナギには止められなかった。国を守る姫巫が無力と知った巫たちの絶望は深い。それを退けることはできなかった。
巫たちを止めたのは大巫だった。彼女はヤナギを連れて、室内より出る。
「そなたはクルヌイ王子と台王のもとへお行きなさい。そして、いざとなったらお二人を敵へ差し出すのです」
「大巫様……そのようなことをおっしゃられるなんて!」
ヤナギは目に驚きの色を宿して大巫を非難した。
大巫は勾玉の連なる首飾りを外し、ヤナギの手にしっかと握らせる。
「そなたが生き残れば、この国はいつか再興できる。神の加護はひそかに受け継がれて行くでしょう。わたくしは、そう思っています」
「ち……違う。私が生き残ったところで、この国は再興などできません。大巫様、この国は――」
言おうとしていたことは喉もとから掻き消えた。ヤナギは自分の喉を押さえて表情を歪めた。姫巫には守らなければならない秘密がある。秘密を言おうとすれば、呼吸することが難しくなる。
それがわかっていても、ヤナギは大巫に真実を伝えたかった。ヤナギに多くのことを教えてくれた偉大なる巫は、ヤナギに全てを託して死する覚悟だと感じ取ったからだ。
「わたくしの力など、微々たるものかもしれないけれど。わたくしは最期の刻限まで戦います。ヤナギ様、さあ、行きなさい」
大巫の目には涙が光っていた。彼女は突き放すようにヤナギの肩を押す。
ヤナギはその場から離れることができなかった。
「大……みこ……様。貴女ほどの力を持った巫を、敵もみすみす殺しはしない。約束して下さい。敵が離れに攻め込んできた際には敵方にくだってでも生き延びると」
ヤナギの言葉に大巫は、ただ微笑を見せるだけだった。
「台王や王子は寝所の奥の間におります。早く行きなさい」
ヤナギは大巫を降り返りつつも、台王やクルヌイ王子がいるもとへ走った。
履物を脱ぎ、謁見の間を横切って小走りに寝所へ急ぐ。
すれ違う宮人たちは慌てふためいており、ヤナギに気を止める者は誰一人いなかった。
「どいてくれ! わしゃまだ死にとうない!」
「あたしだってそうだわっ」
「こんな国、もっと早く捨てれば良かった」
我先にと荷物をまとめた者たちが御殿から出て行こうと押し合っている。
ヤナギは悔しかった。
大巫たちへ兵たちが命を賭けて国を守ろうとしているというのに、今まで台王の傍で蝶よ花よと何も考えず、扇で隠した口許に笑みを浮かべていた者たちが逃げ出そうとしている。その様はとても無様だった。
「……姫巫?」
寝所に続く廊の途中でヤナギはクルヌイと鉢合わせた。
「クルヌイ王子、ちょうどそなたたちのいる間へ行こうとしていたのです。台王は……」
クルヌイは首を振る。
「台王は床から動こうとしない。奥間にも行ってくれなくて、困っていたところだ」
「すぐそこまで敵が迫っております。お逃げになって下さい」
「この事態を招いたのは、高天原国を守るべき立場にある台王や僕のせい。今更逃げることなどできないよ。……よしんば逃げたとして、どこに僕たちを匿ってくれるところがあるだろうか」
王子は落ち着いた様子で腕を組んだ。少々苛立っているようにも見える。
「それは……っ」
返答に窮するヤナギの耳に人々の悲鳴が聞こえた。
「敵が入り込んだぞーっ」
「都全域に火が放たれた! もうおしまいだ……っ」
クルヌイはヤナギの手を取り、素早く駆け出した。溢れ返っている宮人の合間を縫うようにして彼は寝所の奥間へと続く扉を開いた。クルヌイは間の飾り棚を押した。棚があった部分には観音扉があった。彼はそれ開け放った。そこは隠し部屋のようで広さがあり、最奥には御簾が垂らしてある上座が存在した。部屋の四隅には燈台があり、真っ暗な室を儚く照らしている。
「クルヌイ王子……ここにお隠れになるのですね」
「いいや、ここに隠れるのはヤナギ、君だよ」
驚愕がヤナギの顔に走る。ヤナギは自分の手を掴んだままでいるクルヌイの手を振りほどいた。
クルヌイは俗世から切り離されたように清い微笑みを浮かべた。
「君は、死ななくていい。贖うのは、わたしや父上だけでいい」
彼はそう言い残し、隠し部屋から出て行った。すぐに扉を飾り棚で塞ぐ音がした。ヤナギは力任せに観音扉の取っ手を引いたが、扉は微動だにしなかった。
『扉は御簾になり、私を通す』
真象の力を使ってみたが、戸には何の反応もない。清浄な気が薄い本殿内では、力も発揮できないのだ。
ヤナギは無駄だとわかっていてもなお、戸を叩き続けた。
「クルヌイ王子……どうか、戸を開けて下さい。私は護ってもらう価値などない。それは、貴方にもわかっているはずです」
ヤナギの目頭に涙が滲んだ。扉を叩き続けるヤナギの拳が痺れてくる。
どれほどの時間が経っただろうか。外界と部屋の内部は完璧に隔てられている。何の音もしない。
ヤナギは扉の前に座り込んでいた。
ことり、と北側にある燈台が揺れた。ヤナギは双眸をそちらへ向ける。
燈台の揺れは静まらない。
ヤナギは暗がりの中、燈台の下をじっと見据えた。影に隠れていた部分がぼんやりと浮かび上がってくる。
「隠し通路……?」
ヤナギは一人呟き、懐に忍ばせた小刀の柄を握りしめる。
この室は、何か変事があった際に台王が身を隠す場所。だが、もしもこの部屋が見つかった時のために、宮殿を造った者は隠し通路も一緒に造ったのだろう。北側にある燈台の下には小さな木戸がある。それが不自然に振動しているのだ。立てつけが悪いのか、長く使われていなかったためかはわかり兼ねる。
何者かは木戸を強引に外して中へ入ってきた。
燈台の微かな灯かりは侵入者の顔をヤナギに教えてくれない。その者は体全てを室へ引き入れると、立ち上がった。倒れそうになる燈台をその者が支えた時、ようやく姿形が露わとなる。
肩で息をし、こめかみより伝う血を手の甲で拭う男は、高天原国軍の証である蓮と海原を描いた額当てをしていた。
「ヤサカニ!」
ヤナギは勢いよく立ち上がり、ヤサカニのもとへと駆け寄った。ヤサカニは、胸に手を当てて息を吐いた。彼の鎧には血が飛び散っている。鏝にも膝当てにも、余すところなく深い傷が刻まれており、蒼の外套はところどころ焼けている。
ヤサカニは壁に身を委ね、ずるずると腰を落とした。彼は苦しげに浅い呼吸を繰り返し、瞑目する。
「良かった……間に合った」
「どうしてここが……」
「ここへ来る前、巫たちの部屋に行ったのです。そこで……大巫より、この部屋のことを聞きました。安全に行く抜け道まで教えてくれました」
「……無理をしてこんなところまで……。無謀にもほどがある」
ヤナギの声が震える。長い黒髪が顔にかかった。
ヤサカニは低くくぐもった声で笑った。
「必死にここまで後退してきたんだ。少しくらい、褒めて下さい」
言いつつ、ヤサカニは腕に刺さった太い針を抜き取る。血飛沫が上がった。
「ヤサカニ、無理やり引き抜いては駄目! 手当を……」
「……しっ。こちらへ」
ヤサカニは重傷の身で立ち上がり、ヤナギを抱き込むようにして御簾の裏側へ移動した。
扉の外から大きな音がする。
ヤナギは息を止める。
「――…………隠し通路に逃げたとしても、追手は必ず来る。俺が敵を斬ります。その間にヤナギ様は脱出を」
「その怪我では無理よ」
「無理と言われようと何だろうと、やって見せる。……来ます」
ヤナギとヤサカニは御簾の後ろでじっと扉の方を注視していた。やがて、扉が開く。
扉の向こうから光が射す。外界から遮断されていた部屋の中に現の音が流れ込んでくる。
御簾を何者かが足蹴にして揺らす。
ヤサカニはヤナギをきつく抱きしめて息を殺し、逆光を受けて佇む人物を睨み据えた。
男は非常に鷹揚な仕草で動く。ようやく露となったその人物の顔を把握した瞬間、ヤサカニは愕然とした。
「カガミ様……」
二人の前に佇んでいたのは、カガミであった。ヤナギの喉が引き攣る。
カガミは何事か口にしようとしたが、背後から奇声を上げた人物の登場により押し黙った。
カガミの後ろから現れたのは、台王だった。手にはムロが高天原国を出る際に置いていった国の秘宝、八雲大蛇大剣を握っている。〝神の腕〟は台王の後ろを冷めた目で見やる。そこにはたくさんの屍があった。地下の国々の兵たちも、高天原国の兵たちも、どちらのものともわからない屍の山。
ヤナギは屍の発する嘆きに吐き気を覚える。
台王は血走った目でカガミを見る。病的な黄土色の肌に飛び出た目。台王は狂っていた。
己を守ろうとしない刃は、理性ある者よりも強い。剣の腕はそれほど高くない台王が地下の国々の兵を倒せた勝因はそこだ。
台王はカガミの前に立ちはだかった。
「姫巫は渡さぬ。この国神は渡さぬぞっ」
台王の叫びにカガミは怒鳴り返した。
「そいつは高天原国のものではない!」
激情を表に出し、周囲の空気を一瞬で冷やすほどの威圧感を醸し出してカガミは台王へ刃を向けた。
台王はがむしゃらに剣を振るう。カガミは台王を段々と壁際に押しやって行く。最初から勝負はついていた。カガミの剣は人を斬るためのもの。対する台王の剣は儀式のためのもの。
カガミの猛烈な一撃に台王は剣を取り落とす。躊躇することなく、カガミは台王の首を刎ねた。
それは同じように首切りで死んだサコの死に様とは似ても似つかないほど、醜い死に様だった。
「…………」
カガミは無言で刃を己の外套で拭うと、ヤナギとヤサカニへ目を向ける。
台王とカガミが戦っている隙に脱出しようとしていたヤナギたちだったが、抜け目なくこちらに気を配っていたカガミのおかげで逃げられなかった。
カガミは情け容赦なく、月水鏡剣をひたとヤナギへ向ける。
「憶えているか、ヤナギ――――いや、キョウカ。昔、同じように俺がお前に剣を向けた日のことを」
ヤナギは嘔吐感を覚えて、口を押さえる。
何かが体の中を蠢いているのがわかる。
何故、ヤナギの真名をカガミが知り得るのかがわからない。
しかし、心の奥ではその答えを知っている自分がいる。
己の記憶のあやふやな部分が振動し、嘔吐感は募る。
そんなヤナギに、カガミは優しく微笑んだ。彼が楊に見せた表情の中で最も、安らかなるものだった。
「……響くは始まりと終わりを告げる、宿運が鬨の声」
瞬間、怒涛の如く抜け落ちた記憶はヤナギを襲った。