四.
光がこそげ落ちた部屋の中にヤナギはいた。
格子から漏れ出す陽光だけがその部屋に明かりを灯す。通常ならば、燭台に火を明々と灯しているのだが、今のヤナギはそんな気分になれなかった。
じっと寝台の横で膝を抱え、小さく丸まったまま、彼女は何日も過ごしていた。喉が渇いたり腹が減った時だけ室を出て、白湯を口にする。げっそりとこけた頬と隈をこしらえた目が異様にぎらつく。
「サコ……チズコ……。……ムロっ」
ヤナギは今この国にいない者の名を連ね、目を瞑った。瞼の裏に焼きついて消えない三人の笑顔、泣き顔、最後に見た顔。
社殿はヤナギしかいないことによって、静寂の中にあった。世から切り取られた神杷山の頂で、ヤナギは独りだった。
砂利を踏みしめる小さな音がした。
まさか、とヤナギは全身を硬くする。結界を緩めた覚えはない。この山を守る主神が無条件に人を神杷山へ入れるとも考えがたい。
(きっと、主神が力比べに負けたのだ)
現実には有り得ないことだが、可能性としてはそれしかない。
ヤナギは立ち上がると、久しぶりに真象の力を揮った。
『この室の扉は強固な岩となり、決して人力では動かせぬ』
たちまち、室の出入り口が強固な岩と化す。侵入者がここへ来ても、人の力でその岩は動かせない。
床板が侵入者の足取りとともに鳴る。足音は社殿の最奥にあるヤナギの室前で止まった。
「ヤナギ様」
低い声がヤナギの名を呼んだ。
「…………ヤサカニ?」
「はい、ご無沙汰しております。……少し来ない間に、ヤナギ様の部屋の扉は岩戸となったのですね」
「違う、これは侵入者を追い返すために……」
「そうですか。ならば、これはすぐさま解いて頂きたい。俺はあなたを害する気は毛頭ございません。ただ、ヤナギ様に会いたかっただけです」
「でも……」
ヤナギは自らの力でできた岩戸に触れる。冷たい感触が脳髄まで駆け昇ってくる。
「どうかお願い致します。あなたに会いたいがために主神と対峙したのです。一目でもいい。お姿を見たい」
王子と都の様子を見に行かれた時、俺はヤナギ様に会えなかったですし、と溜め息まじりにヤサカニは呟いた。
やはり、ヤサカニは主神と戦ったのだ。そして、勝利した。
神と人。ヤサカニは果敢にも神に挑んだ。ヤナギに会いたい一心で彼は危うい橋を渡ったのだ。
ヤナギは岩をもとの観音扉に戻す。
扉はゆっくりと開き、黒髪の青年がヤナギの目前に佇んでいた。
彼の姿を見た瞬間、ヤナギは口を手で押さえた。どこもかしこもずぶ濡れの青年は、青白い顔をしている。せめてヤナギを安心させようと思ったのか、青年は、すっかり色をなくした唇で弧を描いた。どんな時でも決して外そうとしない眼帯はつけておらず、落ちくぼんだ左の眼孔が剥き出しとなってヤナギの目に飛び込んできた。髪がしたたか濡れているため、前髪で目を隠すこともできないのだ。
装束もひどかった。もとは萌黄色だったのがかろうじて見て取れるが、布地のほとんどが赤黒い血で埋まっている。
怖いとは感じなかった。ただ、何が何だかわからずヤナギは混乱して声を発することができなかった。
「――……すみません。せめて着替えて来れば良かったのでしょうが、今を逃すとまた結界が閉じてしまうと思ったので、このまま来てしまいました」
申し訳なさそうに手で左目を隠しながらヤサカニは微笑んだ。
「そんなことに驚いているわけではない。ヤサカニ……この、血は」
触ろうとするヤナギの手を鋭くヤサカニが掴んだ。彼はとても厳しい顔をしている。
「触れてはいけない。寄り代の血だと言っても、神が流したものに変わりないのですから」
「ああ、そなたという人は」
ヤナギは呆れた顔でヤサカニを見た。彼はそんな視線を軽く受け流して水がしたたる己の髪を腕で拭う。
ヤナギはヤサカニの手を振りほどくと、寝台の下にある木箱を開けた。その中から木綿の布地を乱雑に掴んで、ヤサカニに差し出した。
「拭いて」
「いえ、ヤナギ様の持ち物を汚すわけには参りません」
「いいから。そのままにしておいたら、風邪を引いてしまう。着替えがあれば良かったのだけれど、あいにくここには男物の装束がない」
拒むヤサカニを無視して、ヤナギは強引に彼の頭に木綿の布地をかぶせ、水に濡れた髪を拭う。
「わ、わかりました。自分でやりますから……。ヤナギ様はお座りになられていて下さい」
珍しく動揺を顔に出してヤサカニはヤナギの手を払いのけた。
ヤナギはヤサカニの言に従い、寝台へ腰を下ろした。室の入口で丹念に体を拭いているヤサカニを見つめる。細身な体つきではあるが、武の心得がある者らしい、しなやかな筋肉を持っているのは体の線から見て取れた。均整がとれた上体と下肢。ヤサカニは腰帯に携えた二つの剣を同時に扱うのだと、昔ムロがぼやいていた。双剣を扱うのには骨が折れる。二つの武器は剣と盾の役割を果たすが、それ故、甘い太刀筋になりやすい。決定打となる攻撃を放ちにくいのだ。よく見ると、ヤサカニの剣の柄にも返り血が付着していた。
「……その双剣で主神の寄り代を殺したの?」
「はい。随分と手間取りました。……途中、主神は雨をも降らせて見せた。そのおかげでずぶ濡れです。まあ、神杷山には降らせなかったと見受けましたが」
「そうなの。ここには全く雨が降ったりはしなかった」
ヤナギは驚いてそう口にした。
神杷山はあまり天気が変化しない。穏やかな春のような気候が四季を問わず流れている。
ヤナギは膝を立てて、膝小僧の上に顎を乗せた。
「主神が雨を……。この山の主神は、もともと水神なの。高天原国国つ神とはあまり仲が良くないらしいけれど」
「神も人間のように好き嫌いがあるのですね」
「好き嫌い、という生半可なものではない。いきなり稲光が落ちたり、天候が変化したりする時は、必ず神々のいざこざが関わっている」
ヤサカニは身繕いを終えて、一礼したあと部屋の中心部に置かれた祭壇に飾られたゆずりはで全身を軽く叩く。それは儀礼的なものであったが、姫巫と会う際に不浄な気を払う行為であった。
「そんなこと――私の御代となってから行なう者などいない」
ヤナギの呟きにヤサカニは無表情でゆずりはを祭壇に置く。
「俺は、あなたに仕えると決めましたから。儀礼に則って行動します」
不意打ちを食らったヤナギは口を開けてヤサカニを凝視した。彼は固い決意を孕んだ右目で射るようにヤナギを見つめ返す。その目は青茶色ではなく赤茶色。ヤサカニ本来の色をした瞳。それは真名の縛りが解けたのを証明している。
「……真名の縛りを解いたのは、一重にそなたを自由にしたかったから。そなたには感謝している。姫巫を憎んでいるにも関わらずに私に仕えてくれようとする心意気は嬉しい。けれど……カガミたちのもとに戻った方がそなたにとっては幸せだと思――」
「お傍にいます」
ヤナギの言葉を遮ってヤサカニは言った。
「……」
「ヤナギ様が真名の縛りを解こうが、関係ありません。俺は、俺の意思であなたに最期まで仕えたいと思う」
ヤサカニはヤナギの足許に跪き、ヤナギの右手を取って甲に自分の額を寄せる。
ヤナギは胸の奥に去来するものが抑えきれず、口許を押さえる。しだいにそれは喉元に、眼の裏側へ込み上げてきた。
言葉が出なかった。涙も出ない。ただ、うねりが体中を駆け巡り、温かくヤナギを包み込む。
気づけば、ヤナギはヤサカニの腕の中にいた。心音がする。ヤナギのものより少しだけゆっくりしたヤサカニの鼓動は、彼がここにあるのだと実感させてくれる。サコやチズコのように、動かないものでなく――生きている。
「孤独が支配するあなたと共にいたい」
ヤサカニの腕に力がこもる。それに応えてヤナギも彼の背中に回した腕に力をこめた。
「うん……うん……」
ヤナギはようやく一人ではなくなった。
ヤナギが神杷山を下りて最初に行なったことは、采女たちへの謝罪だった。ヤナギのわがままによって彼女たちは巫たちの住まう離れで肩身の狭い思いをしていたのだから。
「本当に、ごめんなさい。そなたたちが本当に心配してくれていたのはわかっていたの。けれど、私……本当にごめんなさい」
ヤナギの真剣な謝罪に、采女たちはさしも気に障った様子もなく笑顔を見せた。
「ふふ、いいんです。わたくしたちだって一人になりたいこともありますし。それに、こうして姫巫様がお姿を見せてくれただけで十分です」
「そうですよ。私たちだって姫巫様の御心に気がつけなかったのだもの。こちらこそ、申し訳ございません」
ヤナギは采女たちの度量の大きさに感服せざるを得なかった。
そして、采女たちにまた自分の世話を頼んだあとにヤナギが向かった先は、台王のところだった。遅れて謁見の間に姿を現した台王は、黄味がかった白目をしており、顔も黄土色をしていた。
ヤナギはヤサカニを連れて台王、並びに側近や近衛兵たちに謝罪と、今後の動向を伝えた。今後のことを考えたのは実質ヤサカニだったのだが、自分はまだ信を得られていないと彼は言い張り、今回ヤナギが台王たちに代弁することにした。
「今後の動きとして、今この都を私が空けるわけにはいかないと思われます。武官長であったムロもいないこの状況下、むやみやたらに地下の国へ出向いたとして、兵たちの統率が計れず敗走する可能性が非常に高い」
不穏なことを断言したヤナギに、側近たちは飛び上がって今の言葉を取り消すよう求めてきた。
ヤナギはそんな彼らに向かって侮蔑の眼差しを送った。
「〝真象の力〟は使っておりません。どうぞご安心を」
ヤナギの冷やかな視線に、台王とクルヌイ王子以外は若干たじろぎながら――時折目を剥きながら話を聞いていた。
全てを話し終え、謁見の間から出て行こうとするヤナギとヤサカニをクルヌイが止めた。
「その動向を考えたのは、姫巫? それとも、そこにいる従者?」
ヤナギは王子に見つからないようにヤサカニへ目を配った。ヤサカニは小さく頷く。
「私にございますが、何か問題でも」
「いいや、ただ気になっただけ。そこにいるヤサカニは黄昏国では相当名の通った軍師だったらしいから」
ざわめきが大きくなった。ヤナギは舌打ちし、逃げるように謁見の間を去った。
クルヌイは静かな眼差しで、ヤナギたちを見送っていた。
ヤサカニは驚くべき迅速さで、ムロがいなくなった西門軍をまとめ上げた。それと同時に、何と彼は南門軍と東門軍までも手懐けてしまったのだ。これにはヤナギも驚いた。今まで西門軍と他の軍が合同で稽古や作戦、また言葉を交わすことなど皆無だったのに、ほんの十日前後で高天原国軍は一丸となって鍛錬を行なっていた。
「こんなこと造作もない」
ヤサカニは、ただ驚くばかりのヤナギに向かって不敵に笑った。
「司官長をほんのちょっと懐柔してしまえば、後は簡単でした。『今は国の一大事。どうか、貴殿のお力添えが欲しいのです。きっと、今回都を守れた暁には台王よりたんと褒美がもらえるはずでございます。わたくしがきっと、貴殿の軍を最も強い軍に育ててお見せします』。そう言ったら、奴ら目の色を変えました。クルヌイ王子が謁見の間で俺が軍師をしていたと吹聴してくれたことも追い風となった。ああ、ヤナギ様にも見せてやりたかった。本当に、地位と保身しか脳にない者たちを転がすのは容易いことです」
「ヤサカニ……そなたは本当に……」
思わずヤナギも笑みを洩らす。
ヤサカニは長い前髪を掻き上げた。右側にいたヤナギには見えないが、彼は左目に眼帯をつけていない。眼帯をなくしたと言ったヤサカニにヤナギは新しい眼帯を用意したが、もういいのだと彼はそれを受け取ろうとしなかった。
『醜い、と嘲笑されてもいい。全てを喪ったわけでないのに、悲嘆に暮れて欠けたものを隠すことはもうやめることにしました』
随分思い切ったことをしたヤサカニに対して、御殿内の人々の反応は総じて好ましいものが多かった。
それには様々な理由があった。
美意識の高い者たちは、ヤサカニの顔貌がずば抜けて優れていることもあって、彼の欠けた部分を、完璧でないからこその美しさだと熱狂し、神も彼の美しさに嫉妬したのだと愛でた。
武に秀でた者たちは、ヤサカニの剣の腕や弓の腕に心底感服し、心酔している者が多かった。頭の切れる者たちも彼の導き出す軍略の数々に舌を巻き、師事を仰いでいた。
カガミがいる時は、影のように息をひそめることを第一にしていたのだろう。ヤサカニは、思う存分自らの存在を解き放っていた。
彼は闇を壊す太陽でなく、闇に添う優しき太陰。高天原国を守ろうとしてくれる、全ての罪を赦そうとしてくれる、優しき光。
ヤサカニは軍を整えながら日に日に国軍全体の統率をはかっていた。兵たちがヤサカニを見る目は、ムロを見ていた西門軍に酷似している。誰しも、ヤサカニが指揮官となることを望んでいた。
やがて、間者たちが黄昏国に決起の動きありとの情報を仕入れて来た。もう、ヤナギたちに残されている時間は少なかった。
「ヤナギ様には最後の最後で動いて頂きます。あなたはこの国の懐刀。先陣を切る必要はございません」
「でも、地下の国々はきっと、〝神の腕〟とムロを指揮官とする。あの人たちの相手は生半可な兵では務まらない」
「信じて下さい」
多くを語らないヤサカニは、ヤナギをひたと見据えた。その視線があまりに痛くて、ヤナギは押し黙った。