三.
少女は、すいと瞳を開いた。視界一面に薄墨色の花弁が舞っている。碧い空にそれはよく映えた。
「…………」
何も言わずに頬を濡らす涙を拭う。
少女は秋風によってかじかんだ両手を双眸にあてがった。過去の鈍き記憶が、彼女の最奥から溢れ出てくる。
金に色付く稲穂の波の中、少女はひと時の休息を取っていた。遮るものが何もないこの地は空高く飛ぶ鳥たちの鳴き声と、風の匂い、稲穂が揺れる音しかしない。
戦も、天災も、飢餓もないような錯覚をもたらす、この豊穣の大地。
澄んだ風を胸いっぱいに吸い込み、背を預けていた穂波の中央にただ一本佇んでいる落葉樹に向き直る。
そして、木に手を触れて額をつけた。
微かな水の音は、その木が生きている証拠だ。
少女は瞑目し、薄く笑んだ。
「そなたも私と同じ。ただ独り、皆のことを見守る役目を担いしモノ」
その大人びた言い方は、どう見ても十五の少女のものではなかった。
「姫巫様っ」
「姫巫」
「どこにおられるのですかっ」
遠く、風が運んできた幾つもの声は、どれも“姫巫”を案じる声だった。
少女はゆっくりと黒曜石色の瞳を開いて木から体を離すと、立ち上がる。
目には幾千もの願いを宿し、風にひるがえるぬばたまの長き髪には底知れぬ決意を秘めて、彼女は唇を動かした。
「姫巫ならばここに、ここにいるっ」
高天の原国が懐刀と謳われる戦神――姫巫は、声高に叫んだ。
◆ ◆ ◆
しばらくすると、一人の少年が駆けて来た。
海松色をした髪を頭の天辺で一つにまとめ上げている彼は、涼しげな表情をしている少女と対照的に肩で息をしている。
少女はそれに驚いて、片眉を上げる。
「ムロ、そんなに急がなくても私は逃げない」
ムロは、苦しげな息と共に言葉を発した。
「……違います、そのような……心配ではありません。ヤナギ様の御身に何かあったらと……」
少女――ヤナギは戸惑うように目を丸くし、視線を伏せる。
彼女は小さな声で「ごめんなさい」と呟いた。
ムロは屈託なく笑い、大丈夫ですと返す。まだ幼いながら、端整な顔立ちをしたムロは深呼吸をし、息を整える。
彼もヤナギと同じように、薄い生地の着物の上から簡素な布製の鎧とゆがけを身に着けている。その小さな体躯には不釣合いな二本の太刀を腰帯に、背中には長物を背負っていた。
長い前髪を払い、ムロはヤナギの両手首を掴んだ。芥子の実色をした切れ長の瞳がヤナギを映し出す。
「ヤナギ様、休息を取られたいのならば、皆に一声かけて下さい。あなた様が高天の原国のために尽力しているのは我々も存じ上げております故」
高天原国の王――台王が「あな、瑠璃や瑪瑙などの宝石も霞むほどの美しさ」と賞賛したヤナギの顔が歪む。
一点の曇りなき純粋さは、時として毒となる。
ヤナギはムロの手を振り払った。
「放っておいて」
拒絶の言葉を受けて、ムロは傷付いた表情を象った。
ヤナギは緩く首を振った。
「姫巫になど、触らぬ方がいい。この身には幾重もの憎悪と死しか詰まっていないのだから」
そう言うと、ヤナギは皆の待つ陣へ駆け出した。慌ててムロも後を追う。
稲穂は二人の姿が見えなくなっても、秋風に吹かれて揺れていた。
◆ ◆ ◆
ヤナギとムロが陣へ帰ると、既に軍議は始まっていた。
国に忠誠を示した兵の中でも、選りすぐりの戦士たちが顔をつき合わせて地図を見ている様は、何とも異様であった。
「皆の者、ヤナギ様がお戻りになられたぞ」
ムロの声に皆が振り返り、安堵の顔を覗かせた。
「ああ、姫巫様。お帰りなさいませ」
「戦局は変わらず?」
ヤナギの問い掛けに雄々しい髭を生やした大男は神妙な顔をして頷く。
「はい、高天原国にまつろわぬ者たちはどうやら、今回の蜂起を綿密に計画していた様子でございまして……。森の様々なところに呪術が施されております。迂闊に動けば、森の中で惑うことに」
「なるほど」
ヤナギは地図を眺めた。
ヤナギたちは、高天原国にまつろわぬ者たちの蜂起を平定せよという台王の命によって、都から西へ下ったところにある第二の都、沢良宜に来ていた。
敵は何も地下の国々だけにいるわけではない。この国の中にも多くいる。
沢良宜の最南端の邑に敵は潜伏していた。
その邑に行くためには榊森という霊験高き森を抜けなければならないのだが、森に精通しているまつろわぬ者たちはそこら中に呪いを施し、ヤナギたちの行く手を阻んでいた。
「この森を抜けることさえ出来れば、平定など造作ないものを」
苛立ちを募らせた武官の一人が歯軋りした。
それは誰もが胸中で思っていることであった。
「…………わかった」
ヤナギはこうなることを予期していたような眼差しで軍議に参加している者たちの相貌を見回した。
彼らは固唾を呑んで彼女の言を待っている。
「榊森を焼く」
「お言葉ですが、ヤナギ様」
明朗な声がヤナギを制す。
ムロは厳しい顔をして言った。
「榊森は小さき神々の宿りし森です。その森を焼くのは……っ」
「若造が尻込みか。姫巫様のお力があれば、神々も畏るるに足らず」
「違う! 決して臆病風に吹かれたわけでは――」
「これだから、まだ十二のムロを軍に入れるのは反対だったんだ。腕が立つとは言ってもまだ討伐軍の指揮官としては甘いと見える。安心しろ、姫巫様の出向かれた戦で負け戦など一つもない」
矢継ぎ張りに勇猛果敢な兵共は年少のムロを茶化す。
ムロは怒りに顔を紅潮させて強く地面を踏みしめた。
「ヤナギ様の身を案じる者は誰もいないのか! 神を殺めれば、殺めし者に呪いがかかる。それをあなた方は……っ」
「ムロ」
ムロを咎めたのは、ヤナギだった。
いたって冷静な目でムロを見やる。
「軍に入りたてのそなたは知らなくて当然のこと。大丈夫、私は神殺しの業などで命を落としたりしない。姫巫は高天原国つ神の口より生まれし者」
「え……?」
「“神の口”を――真象の力を有する者。私が巫力を込めて発した言葉には神が宿り、それは現実のものとなる。地方の小さき神がいくら呪おうと、この身に張った結界が弾き返す」
静謐なるヤナギの瞳は真摯な色合いを以ってムロの反論を押し留めた。
しかし、軍議が終わる直前まで彼はヤナギの身を案じていた。
それは若さ故の素直さか、それとも無知なのか、誰も推し量れる者はいない。
捉え方一つで物事は形を変えるものだ。
「では、これにて軍議は終わる。そなたらの部下にもよく伝えておけ」
鶴の一声。
ヤナギが軍扇を目前に広がる森へと向ける。
銀の鳥羽で作られた軍扇は力強く行く末を指し示す。
「森が燃上したが合図。混戦は覚悟の上、私たちは一刻も早く戦果を上げて凱旋せねばならない。迷いは捨て、前へ進め」
兵たちは一斉に声を上げる。
それを見てヤナギは淡く笑み、踵を返した。
◆ ◆ ◆
艶のある黒髪は空高くに昇りつめた陽光を浴びていっそう輝きを増す。
肌寒い風が一陣吹き抜けていく。
崖の上より見る景色は、とても美しい。
海の漣は光を反射して虹色に煌めき、すぐ傍にある神が遊ぶ森は深き緑が密集しており何とも形容しがたい。
古より伝わる多くの伝承が詰まっているだろう榊森をじっと凝視していたヤナギだったが、やがて溜め息を吐き、空を仰いだ。
「このようなところに居られたのですか」
後ろに立つ者の気配に、ヤナギは柔らかく笑んだ。
「そなたは随分と私に懐いたね、ムロ」
ヤナギの横にムロは並んだ。
同じように眼下に広がる大地を眺め、彼は目を細めた。
「……ヤナギ様。戦の焔は、いつになれば鎮火するのでしょう」
ムロの問いに、ヤナギは口を噤んだ。
途方もない問いかけ。
だが、同時に誰もが尋ねたい問いかけでもある。
ヤナギはゆっくりと吟味するように顎を引き、彼女なりの答えを提示する。
「姫巫を継ぐ者がこの世から消えた時」
ムロがゆっくりとヤナギの方を見る。
ヤナギの顔は西日によって隠されている。
「己の生に悲観しているわけではないけれど、姫巫のような戦女神がいる限り、戦は続く。ねえ、ムロ。人は欲するのよ、全てを……神をも」
ムロは言葉を捜して視線を彷徨わせていたが、やがて肩を落として俯き呟いた。
「――ムロはまだ、“姫巫”というのが、どういうお役目を担っているのか半分も知りません」
「戦を勝利に導くため……高天原国がために存在し、巫たちを統括する者。……言うより生むが易し。今から私がどうやって敵を滅ぼすか、見ているといい」
ヤナギは憂いを含んだ顔を、すっと変化させる。
何も感じない、無の状態へと自らを持っていき、玲瓏なる声を響かせた。
『榊森の西端にある一本の木に火がともる』
彼女が口にした途端、紅紅とした炎が森の西側から上がった。
『それは秋の乾いた風に乗って次第に他の木へ、他の木へと燃え移り、煉獄の焔となり威力を増して邑を取り囲む』
『そして、我が軍の行く手にありし炎は神風によって左右に拓け、軍を傷付けぬ』
ムロが生唾を嚥下する音がした。
四方八方に潜んでいたのだろう伏兵たちの大音声はここまで聞こえてくる。
彼らが進む道は、ヤナギが口にしたとおり炎が道を開ける。
ヤナギは大きく袖を広げる火を確認すると、唇を弓形に曲げた。
「さあ、ムロ。戦の始まりだ」
◆ ◆ ◆
地獄絵図を描く戦場は、ヤナギの目を潰しそうな勢いで目前に迫った。
(これは、一体)
動揺して周囲を見回すが、誰しも我を忘れて逃げ回っている。
狂気を孕んだ目で人を斬る兵たちは、殺戮人形としか見えなかった。
ここにいては殺されてしまうと思ったヤナギは、やっとの思いで走り出した。
怒号が止む気配はない。
木々や家屋は炎上し、人々は逃げ回る。
しかし、背の低い叢の影に身を潜めたヤナギはようやく場の異常さに気が付いた。
兵たちは逃げ惑う人々をなぶり殺している。しかし、兵はヤナギを殺そうとしない。
昔、大巫から教わったことがあった。
強い巫力を持つ者は、現実のものと取り違えるくらいに鮮明な夢を見ると。
「……これは、夢……?」
口に出した途端、風景は薄く揺らいだ。
次に目にした光景は、先代の姿だった。
声高に軍兵に指示を出すその様は、男顔負けの存在感を放っている。
美貌の姫巫は、妖艶に微笑み、敵の兵に軍扇を向ける。
先代が何事かを呟いたと思った矢先、雷が空から降り注いだ。敵の悲鳴が木霊す。
畳みかけるように地面も裂け、敵の軍兵を呑み込んだ。
これが、世の誰もが恐怖する先代姫巫の力なのだと、ヤナギは改めて実感し、腕を抱えて身震いした。
姫巫の援護を行っている巫たちも容赦なく敵を殺す。
『助けてくれ!』
敵の兵が武器を放り出して姫巫の前で額を地面へ擦りつけた。
先代は無情な瞳でそれを見やり、水面のように刃の部分が波打つ剣を彼に落とした。
血は水しぶきの如く舞い、そこら中に飛び散った。
「もうやめて!」
姫巫の両腕を押さえつけようとしたが、するりと彼女の体を通り抜けてしまう。
この夢の中で、ヤナギは何にも触れられなかった。
死んでゆく人々を助けることも出来ず、指を咥えて見ていることしかできない。
せめて、夢では傷付く人を見たくはなかった。
毎夜毎夜、悪夢にうなされ続けてきたヤナギだが、こんなにも鮮明な夢は初めてだった。
妙に現実味がある。
景色は次々と変わるが、その全てが戦であった。
熾烈な戦いは目を焼いてしまいたい程に惨く、一方的であった。
姫巫の力は戦に重宝される。姫巫の“真象の力”は戦の趨勢を一瞬で決めることが可能な力だ。
姫巫が一言呟けば、敵は手も足も出なくなる。
ヤナギは他の巫たちと違って、先代の出向いた戦に連れて行ってもらったことが一度しかなかった。
王宮へ入ってすぐの頃だ。
その貴重な一戦の記憶はとても曖昧模湖としており、よく憶えていない。もったいないことだと他の巫たちはヤナギのことをいつも憐れんでいた。巫たちにとって、姫巫の力を見るのはとても誇れることだったから。ヤナギは憐れまれる度に、疎外感を感じたものだ。
と、一閃の光がヤナギの後ろで轟いた。
慌てて振り向くと、目に入るもの全てが炎上していた。
先代が怒りと戸惑いの入り混じった表情で何者かの肩を揺さ振っているのが垣間見えた。
それはすぐに猛る炎で遮られ、見えなくなる。
「……夢路に迷っておおせか」
低くくぐもった声がヤナギのすぐ傍で囁いた。
気配がなかったので、全く気が付かなかったヤナギは身構えてその場を飛び退く。
いつの間にか立ち込めていた霧によって男の顔は定かではない。
この霧がヤナギと男の夢を区切る境なのだろうと、ヤナギには即座にわかった。
夢を見ていると、ふとした拍子に誰かの夢の琴線と触れてしまう時がある。
それは同じ過去を共有する者だったり、同じ景色、想いを持つ者であったりする。
「ああ、もう思い出したくもない景色だ」
男はぶつかり合う軍兵の方を向いて言った。
顔が見えないのに、声だけで彼の大きな悲愴は伝わってきた。
「戦は…………何も産まない。緑も、人も、食物も。ただ削っていくだけ」
「そう言えるのは、あなたが恵まれているからだろう。私からすれば、削れた土地を還してもらうために…………戦がある」
男の口ぶりで、彼が高天原国の者でないとすぐに判断出来た。
取り戻すための戦――――高天の原国が奪い取ったものを取り返すために戦っていると男は言っている。
「無謀だと年老いた者は言う。だが、全てを諦めて儚く消えるくらいなら、いっそ雄々しく最期の一瞬まで戦う」
揺るぎない意志は、移ろうヤナギの心によく染み渡った。
景色が滲んだ。
明るさが増していき、戦の光景も、男も泡沫のように消える。
夢の終わりが近付いているのだ。
いつか見た、薄墨色の花弁が視界一面を遮る。
向こう側に人影があった。
その人物はこちらに向かって手を伸ばしている。
花弁の合間より、その人物の唇が動くのを見た。
驚いて目を見開いたと同時に、花弁が一気に吹き荒んだ。
あまりの激しさにヤナギは目を瞑ってしまった。
急いで再び目を開けたら、見知った天幕が見えた。
ヤナギはしばらくぼんやりとしていた。
姫巫の受け継ぐ数多の歴史と業。
それが先ほどの夢を見せたとしか思えなかった。
目が覚めた今でもしっかりと内容を覚えているのは、あまり喜ばしくないことである。
朝から重苦しい気持ちになってしまう。
胸の鼓動も収まらず、ヤナギは一人途方に暮れた。
昨日の戦は圧勝であった。
敵味方問わず一人の負傷者もなく、乱を鎮圧することができた。
だが、その土地に住む者たちは、自分たちを加護してくれていた榊森の消失に嘆き悲しみ、拳で地面を叩いていた。その様子を見たヤナギは、やり切れぬ思いですぐに陣へ舞い戻ったのだった。
高天原国の大軍は、ひとまず勝利に杯を交し合い、昨晩は盛大な宴を催した。
ヤナギはあまり酒が進まず、すぐに寝床に向かったのだが、それが悪かったようだ。
このところ深く眠っていなかったため、悪夢に対する耐性が落ちていた。
(なんとも情けない)
ヤナギは自嘲の笑みを浮かべ、額に貼りついた髪を払う。
しずしずと入り口に張ったムシロが開いた。
そちらを見やれば、青白い顔をしたチズコが佇んでいた。
彼女は姫巫の采女筆頭として、常時ヤナギの傍に仕えている。
弱々しく微笑めば、チズコも困ったように微笑み返そしてくれた。
珍しいこともあるものだとヤナギは失礼ながら思った。
チズコがヤナギに向かって素直な笑顔を見せることなど滅多にない。
「随分とうなされていたので」
そう言いながらチズコはヤナギに餅を手渡す。
ヤナギの顔が華やいだ。
「気遣ってくれてありがとう」
餅を口にした途端、芳醇な花の匂いが胸に満ちた。
丁寧に練り込まれた薬草はしっとりとした食感をしており、これまでヤナギが作ってきたどの餅よりも美味しかった。
「おいしい」
本心をありのままに言えば、チズコはほっとした表情を浮かべた。
「少し、顔色が戻りましたね。良かった」
「……私、それほどうなされていた?」
チズコはヤナギの質問に頷く。
「はい、とても。『やめて』と叫ばれていたので飛んで来てみれば、お姿が消えそうになっておりました」
ヤナギは呆気にとられてチズコを見た。彼女が嘘を言っているようには見えない。
しかし、消えそうになっていたというのは、にわかに信じがたい。
「強い巫力を持つ者は、時に時限さえ越えると言います」
チズコは虚ろな瞳でヤナギを見つめた。
その双眸にはヤナギではなく、他の誰かが映っているように思えた。
気のせいか、鋼色のはずの瞳が波打って見える。
「あなたは――――ともすれば、先代をも超える巫力を保有している」
「馬鹿なことを。先代は史上最高を誇る姫巫よ」
「……もしや、先代はこうなることを予想していたのでしょうか……?」
ヤナギの言葉など、チズコに届いていなかった。
何をチズコが言いたいのかさっぱりわからない。
「ねえ、どうしたの。そなたの方が、顔色が悪い」
チズコの細い手がヤナギの髪に伸びる。
思わず目を瞑った。
姫巫となる儀の時に刻まれた、他人が自分を傷付けるという恐怖が拭える日は来ないだろう。
反射的に身構えてしまう。
「拯溟の花弁がついております」
ヤナギの髪についていた花弁が、チズコによって取り除かれる。
言われて初めて気がついたが、ヤナギの体のそこかしこに薄灰色をした無数の花弁がついていた。
それは、夢の終わりに一面広がった花弁であった。
寝台中に散らばる花弁を掻き集め、チズコはそれに顔を埋めて目を瞑った。
「この花は現世と常世を繋ぐ花。死者を導く標。とても不思議な花で、黄昏国にしか咲かないのです。高天原国では、すぐに枯れてしまう儚い花」
チズコの様子が常時と違うのは、一目瞭然だった。
何かに取り憑かれたような彼女が心配になったヤナギは立ち上がって、チズコを寝台へ座らせた。
チズコは仰天したのか目を大きく見開く。
「ヤナギ様……?」
「気分が落ち着くまで座っていていい。私は立っていた方が楽だから」
「はい」
チズコは嗚咽を洩らした。
必死に声を出さないようにしている姿は、見ているこちらが痛ましくなる程であった。
チズコの頬を伝う涙は悲しみに満ち満ちており、深い闇の匂いがした。
ヤナギは、冷たい床の上をゆっくりと歩く。鳥のさえずりが微かながら聴こえた。
「…………ヤナギ様」
小さな声に反応して振り向けば、チズコが寝台に横たわっていた。
本当に気分が悪そうでぐったりとしている。
彼女の傍へ近寄ると、チズコはヤナギの手を強く握った。
「ヤナギ様ご自身の未来はわたくしにもわからない。ただ、暗き道と明るき道が見えるだけ。暗き道には一閃の光もない。明るき道はまぶしすぎて前が見えない。あなたは、どちらの道を辿るのだろう」
はらはらとチズコはまた涙を零し始めた。
「わたくしの父と母は占師の一族の出でした。その父が、近々邑に姫巫がやって来ると言った時、邑の誰もが国の守り神である姫巫と会えると喜んでいた。でも、わたくしには視えていたのです。姫巫が邑を殲滅させる様が」
ヤナギはただ黙って聞いていた。
チズコは必死で何かを伝えようとしている。
それを横から口出しして、止めたくなかった。
「わたくしは懸命に言った。姫巫を邑へ迎え入れてはならない、かの人は禍を持ってくると。だが、誰も五つの子供の言うことに耳を傾けなかった。結果、邑は滅んだ。黄昏国の残党を匿っているという名目のもと、大人たちは全員処刑された。そして、ちょうど邑の子供たちと野で遊んでいたわたくしの視界を真白き光が奪ったと思ったら、目に見える全てが燃え盛っていたのです」
その話はどこかで聞いたことのある話であった。
とても昔、いや、とても最近。
そう、先の夢で見たような光景である。
一閃の光と、猛る炎。
確かその場に姫巫もいた。
「姫巫は全て奪った。あまつ、わたくしに占師の血が流れているのを知るや否や、ここへ強引に連れて来た。憎い、憎い、憎くて仕方がない。あなたも…………彼女と同じ道を行くのですか?」
胸に突き刺さる問いだった。
ヤナギが心に負った傷を誰も癒せないのと同じで、チズコが心に負った傷もヤナギが癒すことなどできはしない。
無言のヤナギにチズコは更に噛みついた。
「姫巫は…………高天原国は、いずれ現世も常世も常闇に還してしまう定め」
「だから、大人しく地下の国に滅ぼされろと言いたいの」
「違う。わたくしが言いたいのは、ヤナギ様がこれ以上、修羅の道を歩む必要などないということ」
ヤナギは眦を吊り上げた。ふつふつと熱いものが喉元に込み上げてくる。
「私が姫巫になるのが定めだと先代は言った。そして、そなたは姫巫が――高天原国が全てを無に還す定めだと言う。そこまで定めに拘るならば、少しは模索しなさい、違う道を。私を殺し、それに乗じて都を落とすように仕向ければいい。それで現世が救えるのならば、本望よ」
ヤナギが言ってのけると、チズコは怒りを露にしてヤナギを睨み付けてきた。
「わたくしがあなたを殺そうとしたことがないとお思いですか? 何度も何度も、殺そうとしましたとも。その度に、何も知らないあなたを殺すことに良心の呵責を覚えて思い留まった。今はもう……殺せないのではなく、殺したくない。わたくしはヤナギ様を殺したくない。大切な喧嘩相手なのですから」
真心さえ感じられるチズコの言葉に、ヤナギは二の句がつなげなかった。
「……そなたは、一体どうしたいの。その眼に未来が視えているのならば、どうすれば最善かわかるでしょう」
チズコは甘く誘う毒のように心酔わせる香りを放つ拯溟の花を抱きしめたまま答えた。
「知っていますか、占師は未来を予見出来ても物事を動かす力はないのです。それでも、ヤナギ様は助けたいと思った。高天原国より亡命するなりなんなりして戦から遠ざかりたいと言うならば、手を貸そうと思っていました。あまりに今朝視た未来は――――凄惨だった。わたくしはもう、嫌だ。この眼など、潰れてしまえばいいのに」
その眼は何を視たというのだろうか、とヤナギは華奢な体を震わせるチズコの脇で、彼女の手を優しく撫でながら考えていた。
自分に未来を視る能力があったならば、どのようなことを思っただろう。
もしかしたら、発狂していたかもしれないと思い至り、苦笑した。
自分が視たとおりに起こる出来事。
それは、とても辛いことなのかもしれない。
「…………もうすぐ、来ます。拯溟の花があれを連れてくる。大きな定めを担った者たちを」
チズコのうわ言に、ヤナギは何も言わなかった。
ヤナギ自身も感じていた。
今日見た夢は異様だった。
何かが変化する予兆にしか思えない。
ヤナギの巫力がそれを察知し、それを示したとしか言いようがなかった。
「“神の腕”」
チズコが呟くと同時に、遠く大地が揺れる音がした。