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三.


 険しい皺を刻んだ顔で、大巫おおみこはヤサカニの前に現れた。

 クルヌイの護衛を務めていたヤサカニは彼女の登場に若干身構える。

 大巫は巫たちを育てる母のような役目を持つ者だ。彼女はとても位が高く、滅多なことでは表に出てこないことで有名である。

『わたくしの御心は高天原国が国つ神のもの。みだりやたらに殿方から姿を見られとうございませぬ』

 台王が宴に顔を見せよと言った時、大巫はその誘いを決然と断ったらしい。

 そんな大巫が庭に出ていたヤサカニたちのもとへ来たのだ。身構えるなと言う方が無理な話である。

「お久しぶりでございます、王子」

「久しぶりです、大巫。あなたがこうして顔を見せるなんて珍しいですね」

「……本日は、そこの護衛に用がありまして参りました。少しの間でよろしいので、彼をお借りしてもよろしいですか」

 有無を言わせぬ迫力で大巫はクルヌイを見る。

 大巫の後ろに控えていた数人の巫たちが前に進み出た。

「ヤサカニ様、ご安心を。クルヌイ王子の護衛はわたくしたちが責を負います」

「なので、どうか大巫様とお話を」

「私たちは巫の中でも特に巫力が高いのでございます。王子の身に何かあることはございません」

 矢継ぎ早に言い募る巫たちに、ヤサカニとクルヌイは顔を見合わせる。クルヌイは優しい眼差しを巫たちに向けて頷いた。

「君たちが優秀なのはよく知っている。わかりました。大巫、ヤサカニとゆっくりお話しされて下さい。僕は彼女たちと庭を回っていますから」

「ありがとうございます。それではヤサカニ。来るがいい」

 大巫は豪奢な装束を翻すと、見事な裾捌すそさばきで足早に庭を横切る。

 ヤサカニはクルヌイと巫に頭を下げると、急ぎ大巫を追った。

 大巫は北門にある鏡月池まで来て、

「ここら一帯の人払いは既に済ませております」

と足を止めた。

「大巫様が俺に何か御用でしょうか」

 大巫は何も読み取れない表情でヤサカニを上から下まで眺め見る。

「お前、まだ姫巫と接触できていないのですか」

「……はい」

 ヤサカニはヤナギが誰と会うのも拒否してからも、何度も神杷山しんはやまへ足を運んでいた。しかし、結界は緩まず、中に入ることも不可能な状態だった。この一月半、毎日のように通い詰めるヤサカニをヤナギが受け入れる気配は全くない。

「采女も内側へ入れずにいる故、結界を緩めることのできるのは姫巫か、もしくは山の主神おもさねのみ。わたくし自身、神杷山へ立ち入れぬ状態。ですが、ついこの間、クルヌイ王子が姫巫を神杷山より連れ出して都を散策したとか。…………その際、王子は何事か姫巫に言ったようです。姫巫の気が下位の巫さえも気がつくほどに乱れている。お前、王子より何か聞き及んだことは――」

「ないです」

 大巫は盛大に嘆息した。

「……ヤサカニ、わたくしはお前とカガミがここへ来た当初より常に見張り続けてきた」

 大巫の告白にヤサカニは顔を引きしめる。

「そして、最近になってもお前の行動をつぶさに観察しておりました。結論として、お前は信用するに足る男だと私は判断した。だから、教えておこうと思います」

 眉根を寄せるヤサカニに対し、大巫は遠い目をして神杷山がある方角を向いた。

「――あの子は六歳の時、自分が何者かも覚えていない状態でこの都へ連行されて来た。当初、何も喋らず口にしない彼女を先代姫巫はたいそう満足げに傍に置いていた。先代以外は、果たしてヤナギ様がどこから来たのか知らない。得体がしれないと思ったわたくしは何度も先代に、ヤナギ様が巫となることへの異議を申し立てたものです。……彼女は孤独です。自分の出自も、信頼する者も、全て高天原国に奪われている。ヤサカニ、お前も感じていたはずでしょう。ヤナギ様の脆さと自我のなさ。それらは全て、確固たる記憶を持っていないことを起因としています」

「記憶を持っていない?」

「そう。わたくしたちがこうして自分の感情で物を言えるのは、過去の記憶や経験をもとにしているから。ですが、それらをあの子は喪失している。だから、あんなにも高天原国に縛りつけられている。撥ね退ける意志さえあやふや。拠り所だったサコもチズコも奪われ、手足をもがれた悲しき小鳥」

 ――孤独。

 それは唯一、ヤサカニとヤナギを繋いでいる共通の想い。

 ヤサカニは確かにヤナギの孤独を感じていた。〝姫巫〟と〝神の耳目を喪った者〟という理解されないものを抱えているからだとヤサカニは思っていた。しかし、ヤナギの本当の孤独は、記憶を持ち得ない苦しみだったのかもしれない。ヤナギ本人はその事実に気がついてもないだろう。喪っている状態から始まっているのだから。

 ヤサカニは眼帯をつけた左目を強く押した。闇の空洞が熱い。黒髪で覆っている左耳があった部分が、ざわめく。

 記憶がある。自分には記憶があった。その記憶のおかげで今日こんにちまで這うように生きて来られた。憎悪でも悲哀でも、記憶があるからこそ胸にたぎらせることのできる強い想い。

「…………ヤナギ様のところへ行ってきます」

「姫巫は誰も神杷山へ人を入れない。先ほどお前も接触できていないと言っていたではないですか」

「何としてでも会います」

 ヤサカニの涼しい面差しの下に隠した激しい感情を見透かした大巫は、自らの懐に手を入れて小刀を取り出した。

「姫巫に頼らず山の入り口を開ける方法はただ一つ。主神の許可を得ること。主神は何よりも姫巫の意志を大切にしている故、簡単に結界を解いてはくれないでしょう。……この小刀には、わたくしの巫力が込めてある。何かあったらそれを使いなさい」

 しっかとヤサカニの手に小刀を握らせる大巫は少しだけ笑っていた。

「お前にたくします」

 大巫がヤナギを心から案じているのを感じ取ったヤサカニは、大きく頷いて見せた。



 鏡月池にて手と口内を洗ったヤサカニは、梔子斎森くちなしさいのもりへ足を向けた。

 いつも立ち入っているはずの森であるのに、常時とは違う気配がする。風がざわめいている。絡み合う密な木々の隙間より射す太陽の光がヤサカニの足許をちらちらと照らした。

 森のところどころに垂れ込める深い闇の合間から鬼火が見え隠れする。

 ヤサカニはたゆむことなく神杷山の入り口部分に当たる楠の木まで歩き続けた。毎日のように来ているのだ。迷うことはなかった。

 太いしめ縄が巻かれた神木は、悠然とヤサカニを見下ろしている。ヤサカニはそれに手を触れた。結界が緩んだ時特有の、自分の体が空気に溶け込むような感じはない。

「………………」

 おめおめと引き下がるわけにはいかなかった。ヤサカニは自らの意識を集中させてなおも楠の木に触れ続ける。自分がいかにヤナギに会いたいと思っているか、この結界が緩むまで絶対に諦めないと思っているかを強く心に描く。

 自分の思いがヤナギに伝わっても構わなかった。

 がさり、とやぶを掻き分ける音がした。

 ヤサカニは右に広がる藪を見やる。

 白い蛇がいた。ちろちろと真っ赤な舌を出し、その蛇はヤサカニを見ていた。

 両者一歩もその場から動こうとしなかった。

なんじ、はよう立ち去れ。今なら見逃してやろう』

 ヤサカニの脳に直接声が届く。

「…………主神か」

 白き体を持つ動物へ、山の神は気まぐれに降りることがある。実体を持たない神は動物に乗り移って神域に侵入した人間を怖がらせ、時には殺して自身の域一帯を守る。

 白い蛇は湿った落ち葉の上を這い、ヤサカニの足許でとぐろを巻いた。

『さよう。姫巫が眠りについていた間は、汝のことを通してやっていたが……姫巫が意識を取り戻したならば話は別。我は姫巫の心を優先させる』

「恐れながら主神よ。私は、どうしてもヤナギ様に会いたいのだ」

 ヤサカニの強い口調を受けて、蛇は声を上げてヤサカニへ飛びかかった。間一髪、白蛇の攻撃をかわしたヤサカニはある程度の距離をとって身構える。

『汝も他の者と同じだ。姫巫に高天原国を救え、と。この死国を救えと言いに来たのだろう』

「死国……?」

 白蛇は空に向かって奇声を上げる。晴れ渡っていた空に、どこからともなく黒雲が立ち込め出した。雨雲だ。

 すぐに雨が降り始めた。その雨に当たると、白蛇は見る見るうちに体積を膨張させる。ぬめりがある白い鱗を持った小さき蛇は、今やヤサカニの数倍はあるであろう大きさになっていた。それはまさしく、大蛇おろちであった。

 赤い舌と赤い目はヤサカニを今にも殺さんばかりに波打っている。

『我は代々神杷山に住まう姫巫を愛し、守り続けるもの。姫巫がこの山にいる限り、高天原国国つ神にも手出しはさせぬぞ』

 ヤサカニの言葉が今の主神に届くとは思い難い。神は実に気まぐれで、一方的で荒々しい。一度、暴れ出したら手がつけられないものだ。

(覚悟の上だ)

 ヤサカニは、腰帯に差していた双剣を構える。

 白い大蛇おろちはちろちろと舌を出す。すると、空からいかずちがヤサカニ目がけて牙を剥いた。ヤサカニは雷を後退することで避け、とぐろを巻く大蛇に向かって走り出した。

 桶をひっくり返したように激しい横なぶりの雨に、眼帯が外れる。しかし、頓着している暇はなかった。右目に入って来る雨粒を払うために瞬きすれば、その隙を突いて主神は攻撃してくるに違いないと判断したヤサカニは、刹那でも目を閉じなかった。

『汝……天神あまつかみの……』

 ヤサカニの空虚な眼孔がんこうを見た主神が気を削いだ。

 ヤサカニは、なりふり構わず剣を振り上げて大蛇の懐に飛び込んだ。硬質な大蛇の鱗は剣を通さない。

「くそっ」

 すぐにヤサカニは大巫よりもらった小刀を抜くと、深々と大蛇の腹へと突き刺した。醜い音と共に大蛇の腹の中に抉り込まれていく小刀を手放し、素早くその傷口から一気に剣で薙ぎ払う。渾身の力を込めたその一閃は、大蛇を真っ二つに切り裂いた。

 絶叫がとどろいた。

 ヤサカニの体に生温かい肉片が落ちてくる。血と雨に濡れた黒髪を掻き上げ、ヤサカニは大蛇の屍を踏み越えて楠の木へ近寄った。

 神聖な梔子斎森に血の穢れが充満する。しかし、それは降りしきる雨が流してくれる。

 白い大蛇の鱗は見事なまでに赤く染まっており、上等の反物のようだった。

 大蛇の血が木々の根元にある川より森を抜けて遠くへ運ばれたと思われる頃、ようやく雨は小降りとなった。すぐに雲は引いて行く。その様を見守っていたヤサカニは、己が手を下した神の亡殻へ黙祷を捧げる。大蛇はやがて収縮していき、小さな白蛇に戻った。その屍は湿った土に還って行く。

 ヤサカニは目を開けると、眼帯が落ちていないか辺りを見回す。しかし、眼帯らしきものはなかった。激しい雨によって流れてしまったに違いない。

 嘆息する。

 あの眼帯は、黄昏国から高天原国へ来る際にヤサカニたちの無事を祈って幼子たちが贈ってくれたものだった。

 黄昏国とヤサカニを繋ぐただ一つの装飾品。それは予期せぬ形でこの手を離れた。

何故なにゆえ、姫巫に謁見したいのだ』

 この世に存在するためのより寄りしろを喪った主神は、大気に混ざり合っている。その姿を見ることは不可能だ。

「……あの方を一人きりにしないため」

 ヤサカニは血濡れた手で、少し躊躇いがちに楠の木へ触れた。

『我の寄り代を汝は殺した。そうまでして姫巫に会いたいか』

「はい」

『――よかろう』

 楠の木に触れていた掌が熱を持つ。結界が緩む気配がする。

 ヤサカニは目を瞑った。

 次に目を開けた先に広がっていたのは、豪奢に山の頂への小路を彩る花々だった。




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