一.
高天原国には異様な暗雲が垂れ込めていた。
ヤナギとヤサカニが秘密裏に黄昏国の善灯村より帰還してしばらくののち、ヤナギは神杷山にある社殿へ人が立ち入るのを禁じた。
采女たちでさえもヤナギの傍に寄ることを禁じられ、北門前にある巫たちの寝所で寝起きしている。
ヤナギとヤサカニが修行のために二ヶ月間都を空けていた際に何かあったに違いないと大巫や台王は、ヤサカニより事情を聞き出そうとしたが、彼は終始沈黙を守った。
皆、ヤナギたちが修行していたと疑いもしていない。
彼らは滅多に巫の修行場である梔子斎森へ入らない。死の臭いに満ちている森が恐ろしいのだ。
姫巫は大巫や巫も知らない森の奥部に通じる道を知っている。なので、大巫たちも修行していたというヤナギの言葉を信じているようだった。
もし、ヤナギたちがいない間に高天原国に変事があっていたら、修行をするというのは嘘だと判明しただろう。何か異変があれば、大巫や巫はヤナギに念を飛ばす。しかし、高天原国にヤナギがいない場合、彼女たちの念は届かない。
ヤナギは社殿の廊へ出て、欄干にしなだれかかった。
神杷山の風景はいつもと変わらない。
狂い咲きする四季を無視した木々に花。血色をした紅葉が天弓の橋の下にある池へ舞い散る。
一枚の葉は、鏡のように平らだった池の面に漣を立てる。
都中、地下の国々の動きが急に活発化しているとの噂で持ち切りで、人々には不安が蔓延している。
高天原国の結束は薄い。打倒高天原国という一つの目標を見据えて迫る地下の国々に比べて、この国の人々が見ている先はばらばらである。
「――――っ」
突然、ぴんと張り詰めた空気がヤナギを包んだ。ヤナギは耳をそばだてて隙なく辺りを見渡す。
神杷山に続く楠の木を誰かが触ったのだ。
ヤナギは意識を集中させて楠の木に目を向ける。神木に触れたのが誰かは、その者がまとう気ですぐわかった。クルヌイ王子だ。
「何故、クルヌイ王子が…………」
訝しく思いながらも、神杷山へと続く道を閉じる結界を緩めた。仮にも一国の王子がわざわざ出向いてくれたのだ。おいそれと追い返すことはできない。
少しして、クルヌイは斎庭に姿を見せた。ヤナギは庭にある朱塗り橋の脇にある長椅子へ王子を案内する。
彼は乱れた息を落ちつけると、神杷山の美しさや庭の造形を褒め千切った。
「久方ぶりに来たけれど、やはり神の遊山場と言われるだけある。この世の至高と呼ぶに相応しい」
「ありがとうございます。して、クルヌイ王子。何故ここへ?」
「うん。君を誘いに来たんだ。姫巫、用事がないなら一緒に都を回ろう」
「私は……」
クルヌイはヤナギの戸惑いに気づいているのかいないのか、淡い微笑を浮かべる。
「大丈夫、君が来てくれるなら供はつけない」
暗に王子がヤサカニをつけないと言っているのを察したヤナギは、目を見開いた。
クルヌイは何も知らないように見えて、案外鋭い。人の機微をよく読む。ヤナギはそんなクルヌイが苦手だった。
「何せ、姫巫はこの国きっての軍神だからね」
クルヌイは片目を瞑っておどけて見せる。場の空気を和ませようと心を砕いてくれているのは一目瞭然である。
「ですが……」
「――どうしても、君に今の都を見てほしいんだ」
有無を言わせないクルヌイの瞳にヤナギは折れた。
「わかりました」
都には、かつてほどの活気がなかった。
貧困地区からはもちろん、裕福な者たちが住まう地区でも笑い声が聞こえない。不穏な空気が人々の明るさを奪い去ってしまったようだ。
「人の声がしないね」
「はい。自然の音も、おかしい」
「この兆候は、宮殿に火の手が上がる少し前からあった。でも、ここまで早く軋みが来るとは思わなかったよ」
「………………」
唄いながら流れていた川の水は澱んだ声で泣いている。
今の季節には黄金色した瑞々しい葉をつけるはずの木々はくすんだ葉をつけている。
鳥たちは無言のまま空を舞う。
ヤナギとクルヌイは貧困街の角にある見張り台にかけられた縄梯子をよじ上った。見張り台は老朽化しており、今は別の場所に新たな見張り台が建設されている。なので、その上には兵の姿はなかった。
見晴らしの良い見張り台からは、都の様子がよく見える。
遠目からでも人々の眼に光がないのが見て取れる。皆、前かがみで歩いている。いつもなら大勢の人でにぎわって砂埃が立つ市も閑散としていた。
気の持ちようかもしれないが、景色も若干くすんで見える。
「ひどい有り様だ。こうならぬよう前々から視察していたのに、僕ではどうにも役不足だったらしい」
クルヌイは独白のように呟き、眉をひそめた。
「……最近、父上は部屋にこもってるんだ。何かに怯えているように寝台の上で丸まっていると父上の護衛兵から伝え聞いた。時々、狂ったように祈ってもいるらしい」
「台王が……」
クルヌイは悲しげにヤナギを見た。
「君も台王も、何か啓示を受けたんだろう。そうでないと、二人がほぼ同時に表舞台から姿をくらます理由が見つからない」
渇いた喉が潤いを欲す。ヤナギは唾を呑み込んだ。
「――僕は、知ってるよ」
木枯らしが吹き荒ぶ。乾いた風は舞い上がり、高い蒼穹へと掻き消える。
「ごめんね、ヤナギ。辛かったろう。こんな、死国の守り神に祀り上げられて」
「王子……何故……」
血の気が引いた。
代々、姫巫と台王にしか聞かされない話。それをどうやらクルヌイは知っているようだった。彼の瞳が全て知っているのだとヤナギに訴えかけてくる。
「僕は都から離れた山奥で育った。そこに住まう人々は、昔からの古き言い伝えや教えをたくさん持っていたんだ。彼らは僕に様々なことを教えてくれた。この国――高天原国は……」
「もうそれ以上言わないで!」
皆まで云おうとするクルヌイの声を遮り、ヤナギは後ずさった。力なく首を横に振る。
「それを知っているところで、何になるというの。万策はもう尽き果てている。もう、何もかも手遅れ」
「姫巫」
心配そうに呼びかけるクルヌイの声に惑わされないようにヤナギは耳を塞いだ。
「そなたは全てを呪う声を聞いたことがないでしょう。死を、滅亡を渇望する声を聞いたことがないでしょう。私は、姫巫になってから、それらをずっと聞き続けてきた。でも、それと同等に生を望む声も聞こえてくる。〝姫巫〟に縋る人々の声も聞こえてくる。…………伝承は、私たちを救ってくれない」
クルヌイは何も言い返してこなかった。ヤナギは棒立ちのままのクルヌイを置き去りにして一気に縄梯子を下ると、社殿へと逃げ帰った。