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五.


 ヤサカニの機転により若者の家に泊めてもらえることになったヤナギは、明朝まだ暗い中散策に出かけた。前もってヤサカニには散策へ行くことを告げた。ヤサカニはカガミたちに鉢合わせることを危惧して、一人で行きたいと言うヤナギに、サブライの家の付近には近づかないことと村の中心地には出向かないことを条件に散策を許可してくれた。

 ヤナギは若者の家を出ると、真っすぐに水辺のほとりにある社殿へ向かう。サブライの家に行く途中にある場所ではあるが、総じて社殿というのは清浄な空気で満ちている。その中で清めを行なえば、ヤナギの巫力も満ち満ちるだろう。

 巫力には限界がある。ヤサカニには言っていなかったが、ヤナギはここに来るまでに力をほとんど使い切っていた。

 帰り道を拓くため真象の力をふるうには、いささか巫力が不足していた。

 社殿の周囲には拯溟しょうみょうの花が咲き誇っていた。それを数本手折ると、ヤナギは社殿内へと足を踏み入れた。

 しんと静まり返った社殿の中は、あまり手入れをされていないのかほこりをかぶっている。それでも儀式の間には瑞々しいゆずりはが飾られており、燭台もあった。

 ヤナギは火打ち石で火を起こすと燭台へ炎を灯した。

 しばらくゆずりはを片手に祈祷をしていた。清浄な空気はヤナギの体内を駆け巡り、けがれを取り去る。

 大きく息を吸い込み、吐き出した。

 ヤナギは自分の掌を見つめた。確かな手ごたえを感じる。無事に力は満ちたと安堵の溜め息を洩らす。

 ふと、脇に置いていた拯溟の花の香りが鼻孔をくすぐった。拯溟の花には強い鎮静効果がある。

 瞼が次第に重くなる。懐かしく、温かな香りに包まれて、ヤナギは眠ってしまった。



 せ返るほどの拯溟の花の香り。その香りは村全体を覆っていた。

 黄昏国の中でも、ここまで拯溟が咲いている場所も珍しい。

 あまり人の手が介入していない水辺や野などに集団で咲く美しい花。花の由来に似つかわしい気高く凛と咲く薄灰色の花の香りは、カガミの心を安らかにしてくれる。

 カガミはまだ目覚める気配のないサブライを尻目に家を出た。外はまだ薄っすらと太陽が照らすばかりで誰も起床している気配はなかった。彼はゆっくりと朝靄あさもやの中、足を踏み出した。

 散策したかったというよりは、拯溟の花の香りに誘われたと言った方がいいだろう。

 サブライの家を出て右手にある水辺沿いに拯溟の花がまばらに咲いている。それを見てカガミはようやく、自分が何故昨夜ぐっすり眠ることができるのか理解できた。不眠に悩む兵たちは拯溟の花を乾燥させたものを香袋に入れて持ち歩いている。それは拯溟の香りが安眠効果を持つからに他ならない。カガミの眠りは常に浅い。しかし、昨夜は夢を見ないくらい深く眠っていた。

(……俺も、拯溟の花を香袋に入れてみようか)

 そう思いめぐらせながら、水辺を歩く。しばらく行くと、小さな社殿があった。拯溟の花々はそれを覆い隠すように密集している。

 社殿を見た瞬間にカガミの脳裏に浮かんだのは、神杷山しんはやまいただきにある社殿にいるだろうヤナギのことだった。

 気を引かれて社殿の戸に手をかけた。あまり出入りされていないのか、立てつけの悪い戸はにぶい音を立てる。

 内部は外に比べて格段ひんやりとしていた。少しだけ汗ばんでいたカガミの肌もその冷気に乾く。

 奥へと進む。途中、何度か蜘蛛の巣が髪に絡まってしまい、それを取り払うのに随分時間を食った。

 最奥には観音扉があった。儀式を執り行う間だとすぐにわかる。カガミは躊躇いもなくそれを開け放った。

 カガミは我が目を疑った。

 祈祷によく使われるゆずりはが床に置かれている。その横にはまだ芳醇ほうじゅんな香りを漂わせる拯溟の花が散らばっていた。そして、間の中央には長い黒髪をした乙女が寝そべっていた。

 乙女は入り口の方に顔を向けているため、カガミはその顔をよくよく見ることができる。

 抜けるような白さを持つ肌、長い睫毛に薄紅色の唇。世の美しいものを集めて造ったような乙女は、カガミのよく知る者だった。

 カガミは思わず後ずさる。その際、床が大きく軋んだ。

 まずい、と思ってカガミは踵を返す。

「……カガミ……?」

 ああ、とカガミはその場に縫いつけられてしまったように動くことをやめる。 

 何年も離れていたわけではない。だが、もう二度とこうして会うことはないと思っていた。

 高天原国で会い見え、言葉を交わす間柄になったことさえ、カガミにとっては誤算だったのだ。彼女が泣きながら台王の御殿から逃げようとしたあの夜に出会ったことから間違いだった。絶対に、近づいてはならなかったのに。

 カガミは少女に向き直る。

 少女は上体を起こし、しどろもどろで慌てている。どうやら起きがけで頭がまだ働いていないようだった。

 カガミは彼女に手を伸ばし、そっと頭を撫でてやった。

「これは悪い夢だ。拯溟の花が見せた幻に過ぎない」

 自らにも言い聞かせる。これは夢なのだ、と。まさか、善灯村ぜんとうむらにヤナギがいるはずがない。

 ヤナギの手がカガミの腕を掴んだ。彼女はすっくと立ち上がる。

「……離せ」

 少しだけ拒絶の言葉を吐くが、ヤナギは頑なに首を横に振る。

「嫌」

 まるで幼子のように駄々をこねるヤナギにカガミは内心驚いた。いつも年齢以上の落ち着きと思慮深さを保っていたヤナギが、今はただの少女になっている。

 ヤナギは、おずおずとカガミに抱きついた。

 天地がひっくり返ったかとカガミは動揺した。まさか、ヤナギがこのような行動に出るなどカガミも予測できなかった。

 無碍むげに突き放すこともできず、かと言って抱きしめ返すわけにもいかず、カガミの両腕は宙をさ迷う。

「お願い、今だけでいいから」

 いつか、遠い昔に聞いたことのある言葉。か細いそれは、カガミが必死で守ろうとしている決意を弱くする。

 ヤナギの口より嗚咽が漏れ出る。

 カガミはたまらず目を閉じてヤナギの背に腕を回すと、きつく抱きしめた。



 落ち着きを取り戻したヤナギは慌ててカガミから距離をとった。

 寝起きで思考が朦朧としていたとはいえ、とんでもないことをしでかした自分に顔が火照る。

「ごめんなさい。その、動揺してしまって」

「いや、気にするな」

 気まずい沈黙が流れる。

 カガミは所在なさげに腕を組んで格子近くにある柱に寄りかかっている。

 ヤナギは床に散らばっていた拯溟の花とゆずりはを丁寧に束ね合わせて部屋の中央にある台の上に置いた。燭台に灯した炎は少し力を弱めている。ヤナギは近くにあった細枝を火にくべる。すると、炎は再び煌々とぜ出した。

「どうして、この村に?」

「……サコの墓参りに来ました」

 ヤナギは少し声を詰まらせながら答えた。

 ヤナギがこの村に来た本当の理由はヤサカニにも明かしていない。サコの墓参りに行きたかったのは少なからず理由の一つだったが、真の目的は違った。

 その目的はもうすぐ、遂行すいこうする。

「お前だけで?」

「いいえ、ヤサカニも一緒に」

 カガミが目を丸くする。

「そうか。ヤサカニは、息災にしているか?」

「ええ。そなたは、ムロと一緒でしょう?」

 逆に問えば、カガミは「なんだ、知っていたのか」と苦笑して頷いた。

 ヤナギはカガミたちが来る直前までサブライのところにいたことを明かす。それにはカガミも感心した様子だった。微塵も気がつかなったらしい。

「ムロの容態はどうなの」

「一進一退といったところだな。サブライも手をこまねいている」

「そう……。カガミ、ムロはあの時、深手を負ったの? それで、重体に……」

 ヤナギは、ぎゅっと拳を握りしめる。ムロは手放しでヤナギに全幅の信頼を寄せてくれていた。そんな彼の笑顔を思い出して哀しみを覚えた。

 カガミは首を横に振った。

「違う。あの時に深手を負ったわけじゃない。……極度の精神損傷、と言ったところだな。悪い、何と表現すればちゃんと伝えられるかわからない」

 カガミは親指の爪を強く噛みしめた。ヤナギに上手く伝えることのできない歯痒さをもどかしく思っているに違いない。

 ヤナギはそんなカガミを見つめると、視線を下に落とした。

 こうして普通に会話できていること自体が不思議だった。ヤナギとカガミは敵同士なのだ。

 カガミは地下の国々を指揮する者。

 ――今この場で無防備な彼を真象の力を使って殺してしまえばいい。

 なのに、できない。

 思考の渦はヤナギを呑み込み、呼吸を苦しくさせる。

 カガミはヤナギを横目見ると、溜め息を吐いた。

「お前はいつも悩んでばかりだ」

 カガミはそう呟いて腰に手を当てた。堂々としたその姿からは、一片の迷いさえ垣間見ることができない。

「俺は高天原国へ攻め込む。そして、黄昏国に安寧あんねいを取り戻す」

 きっぱりとカガミは言い切った。彼はヤナギに厳しい表情を見せる。

「ヤナギ、悩むなとは言わない。だが、意思を持て。激動の世、確固たる意思のない者はそのうねりに飲み込まれてしまうぞ。お前は人形じゃない、ただそこにあるだけの飾りじゃないのだから」

「何故……」

 自分でも気づかないうちに声が洩れていた。

「何故、そなたはそんなにも強い。巨大な力を前にして、恐れることもなく挑もうとできるの」

 知れたことを、とカガミは口角を上げた。

「恐れもこの身のうちに宿っている。だが、それを上回るほどに守りたいものがあるだけ」

 音を立ててヤナギの中の何かが決壊していく。

「私には、そんなもの……ない」

 ヤナギは自分が酷く頼りなく曖昧な者だとあらためてわかった。

 サコやチズコを守りたいと思っていた気持ちも嘘ではない。だが、カガミのその強い意思の前にヤナギの脆弱ぜいじゃくな意思は霞んでしまう。

 心のどこかが凍りついていた。そこにヤナギにとって何か大切なものが隠されている。

 昔から、それは感じていた。ヤナギ自身が本当に大切なものは、自分にさえわからないよう巧妙に隠されている気がしていた。

 カガミといると心が揺さぶられる。その揺さぶりは次第に振り幅を大きくして、いつもヤナギを困惑させるのだ。

「お前は俺と似ている」

 はっとしてヤナギはカガミを見つめる。優しい朽葉色をした瞳は憐憫れんびんを含んでいた。

「昔、俺も今のお前と同じように何もなかった。けれど――」

 カガミは一旦言葉を切った。カガミは苦渋に満ちた表情をして続きを口にした。

「俺の前に妹姫が現れた。妹は天真爛漫そのもので、俺の凝り固まった心を温めてくれた。妹姫がいたから、俺は……」

「妹姫が、そなたの守りたいものなの?」

 カガミは笑って頷いた。

「俺にとって妹は唯一大切な者だから。妹との約束――黄昏国の復興は果たさなければならない」

 カガミはヤナギが束ねた拯溟の花を一本手に取り、慈しむような顔でそれを見る。

「姫はこの花が一番好きだったんだ」

「そう」

 ヤナギは鋭いとげが胸に突き刺さるのを感じた。カガミのこんなにも愛しげな顔は見たことがなかった。

 カガミの妹。どんな人物なのだろうかと興味を持った。

「妹姫はどんな方なの」

 その瞬間、カガミの形相が変わった。

「もう、いない」

 ヤナギは、しまったと青ざめた。

 しかし、カガミは「気にするな」と優しく微笑んだ。そして、ヤナギの手に拯溟の花を握らせた。彼の手は温かい。

「その花はきっと、お前を導いてくれるしるべとなる。きっとお前なら最良の道を選べる。だから、逃げるな」

 カガミはヤナギの両頬に手を添えた。自然、背丈のあるカガミをヤナギが見上げる形となる。

「死ぬな」

 ヤナギは目を丸くした。カガミはヤナギが自害しようと思っていることを当てた。

「サコの墓参りをし、ヤサカニへ先に帰るよう告げて自害する。それくらいお前のその思い詰めた顔を見ればすぐわかった」

「だって……私のせいでサコも、チズコも……」

 鮮烈な二人の最期の光景を思い出してヤナギは双眸を潤ませた。

「私が死ねば、高天原国は守り神を喪う。そうすれば黄昏国だって復興できるでしょう。何故、止めるの?」

「……俺は、お前に死んでほしくはない」

 カガミはヤナギの両頬を包んだまま言葉を発した。彼はそっとヤナギの額に口づけを落とし、そのまま力強く抱きしめた。

「せめて、お前が生きていてくれれば、それだけでいい」

 懇願にも似た呟きはヤナギを混乱させる。脳内は痺れる。それは呪縛よりも、深く強いカガミの言葉と鼓動。

 ヤナギはおずおずとカガミの装束を握った。



 ヤサカニは散策から戻ってきたヤナギの表情が晴れ晴れとしているのに気がつき、幾分か安心した。

 この善灯村へ行くと言った時、彼女は胡乱うろんな目をしていた。なので、そんなヤナギを一人で行かせられないと判断したヤサカニは自身もこの村まで着いてきたのだ。

「ヤサカニ、遅くなってごめんなさい。私は高天原国へ帰る」

「はい、かしこまりました」

 二人は泊めてくれた若者とその妻に礼を言うと、昼前に村を出た。

 善灯村を出て蜘蛛の廻廊の入り口付近まで来た時にヤナギが告白した内容にヤサカニは目をくこととなった。

「村の社殿で、カガミにあった」

「カガミ様と会ったのですかっ?」

 あれほど注意しろと言ったのに、ヤナギはカガミと出会ってしまったという。しかも、ヤサカニも同行していることを教えたとヤナギは言った。

 ヤサカニは頭痛を覚える。

 ヤナギはカガミが自分自身を害すると思っていない。だが、ヤサカニは彼の性格をよく知っている。目的に辿り着くためならば、彼はどんなに非道なことでもやってみせる。今回、カガミがヤナギを殺さなかったのは奇跡にも似た事象だった。

「私ね、本当はここへ自害しに来たの」

 ぽつりとヤナギはとんでもないことを呟いた。ヤサカニはぎょっとしてヤナギの手を取る。ヤナギはそんなヤサカニには目もくれず、黄昏国の上に広がる空を仰ぐ。

「ヤナギ様、それは……」

「でも、やめた」

 ヤナギは笑った。空に向かって笑う彼女が、手に持った拯溟の花とあいまって花の化身の如く見える。

 彼女は空からヤサカニへと視線を移す。ヤサカニの青茶色をした瞳を真っすぐに見据え、「シュマ」と口に出す。

 途端、ヤサカニの肩が一気に軽くなる。真名の縛りが解けたと気づくのに幾ばくも時間はかからなかった。

「本当は、心にあるしがらみをなくしてしまえば真名縛りなんて簡単に解放できる。そんなことにも私は気がつかなかった」

 ヤナギは何度もヤサカニに施した真名縛りを解こうとして失敗していた。なのに彼女は今、いとも容易くそれを解いた。

「カガミのもとへ帰りなさい。そなたがカガミたちを――黄昏国を案じていることに気がついていた。真名縛りも解けたから、これで何も心配することはない」

 ヤサカニはただ茫然と笑顔を絶やさないヤナギを凝視していた。

 ヤナギやクルヌイつきの護衛官であるヤサカニは高天原国内部の機密情報もたくさん掴んでいた。それを手土産にして母国へ帰ることは可能だ。いや、むしろ歓迎されるだろう。

「俺がいなければ、誰がヤナギ様をお守りするのですか」

 洩れ出た本音。儚げに微笑んだヤナギの表情がヤサカニの後ろ髪を引く。彼女は何も言わずに蜘蛛の廻廊の前に立ち、高天原国への道を拓く。そして、廻廊内へと滑り込む。その肩の線は、消えそうなくらい細かった。

 ヤサカニは唇を一文字に引き結んでその後に続いた。



 波のおと 嵐のおとも

 しずまりて

 日かげ のどけき

 大海の原



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