四.
藪の中をヤナギは進んだ。梔子斎森を抜けた竹林道。その脇道を行った先に、遥か昔使用されていた蜘蛛の廻廊が存在する。
前にカガミと話をした時から、そこにある廻廊がまだ息をしていることはわかっていた。
心身が回復するとすぐにヤナギはこっそり高天原国を抜け出す準備を始めた。采女や大巫に気取られないよう細心の注意を払い、しばらく巫修行のため神杷山にこもる。誰も入ってくるなと前もって念を押した。彼女たちもチズコを亡くした衝撃にヤナギが精神を負傷していることに気づいていたからか、反対されなかった。
大巫には「今は戦などしようと台王も思っていらっしゃらないはずです。どうぞ、ゆっくりお過ごし下さい」とまで言われた。
ヤナギの言葉の不審に気づいたのはヤサカニただ一人だった。彼は真正面からヤナギに問うた。どこへ行くつもりなのか、と。それに答えずはぐらかしながら、この場所までやって来た。ヤサカニは粘り強く、一向に諦める気配がない。彼に根負けしたヤナギはとうとう本来の目的を口にせざるを得なくなった。
「サコのところへ行くの」
ヤサカニは首を傾げた。
「サコ殿のところ……ですか」
こくりとヤナギは頷く。
「サコの遺体は黄昏国の最果てにある村にいるサブライのもとへ運ばれたとムロが言っていたから。一度行ってみたいと思っていた」
「しかし、何故この場所へ……」
ヤサカニは口ごもり、眉根を寄せた。彼の戸惑いはもっともだ。拯溟の花が咲き誇ってはいるものの、肝心の蜘蛛の廻廊は苔むした岩戸に覆われている。そこへ人が入れる隙間はなかった。
「ここはその昔、黄昏国の最果てに続く道だった」
ヤナギは岩戸を撫でながら、呟いた。
「そなたの言いたいことはよくわかる。たしかに、昔は廻廊であったこれも長い年月の間に虚ろな洞窟となり果てている。……でも、姫巫の力は真象の力。私が言の葉を紡げば、道が拓ける。もともとあった道を繋ぐだけ」
意識を集中させて、ヤナギは唇に真象の力を乗せる。清浄な空気が充満しているこの地区で力を放つのは容易い。
岩戸が轟音を上げて開く。蜘蛛の廻廊が啼く。廻廊の中に向かって風が吸い込まれて行く。無事に道が拓けたことに安堵し、ヤナギは廻廊へ一歩踏み出した。
「ヤナギ様、お待ち下さい」
「駄目っ。ヤサカニ、お願いだから触れないでっ」
ヤナギの制止は一歩遅かった。ヤサカニはヤナギの左手首を掴んでしまった。
しまった、とヤナギは反射的に首を竦ませる。チズコでさえ、真象の力を使った直後のヤナギに触れようとはしなかった。真象の力には念がこもっている。ヤサカニはヤナギに触れることで、ヤナギが真象の力を揮う度に感じている魂の叫びを、呪いを、恨みを聞いてしまった。
しかし、それでも彼はひるんだ表情を垣間見せることなく、ヤナギの手を引いた。
「洞窟内は暗い。俺が先導します」
ヤナギは胸が詰まる思いでヤサカニの背を見つめた。彼は何も言わない。今だって怨詛の声が聞こえているだろうに、ただ黙々とヤサカニは歩いている。生ぬるい慰めの言葉を吐かない彼の心遣いがヤナギには嬉しかった。
あまり口数の多くないヤサカニだったが、蜘蛛の廻廊の途中途中でヤナギの知らない国の話をしてくれたり、知識を分けてくれたりした。蜘蛛の廻廊に入ってしばらくしてから黄昏国の地理的記憶が戻ったようで、これから行く土地の話も教えてくれた。ヤナギが行こうとしていた村は善灯村と言う黄昏国と炎來国の狭間にある村で、そこは度々戦禍に巻き込まれるらしい。
「サブライ元武官長は、我々の中でも有名でした。とても腕の立つ方だった。俺の策も何度読まれたことか」
「ヤサカニはサブライと戦で会ったことがあるの?」
「ええ。彼は〝激昂の大蛇〟の名を冠すに相応しい武人でした。何故、武官長の座を下りて黄昏国にいるかは存じ上げませんが」
むしろ、サブライが黄昏国に身を寄せているなど初耳です、とヤサカニは不服そうに言った。
ヤナギは、戦から帰還する度に柔和な笑顔でヤナギを抱き上げてくれたサブライを脳裏に思い起こす。サブライは強く、そして優しかった。
「サブライは収賄の罪に問われたの」
ヤナギの言葉をヤサカニは一笑にふした。
「あの方に限ってそのような馬鹿な真似などされますまい」
「そう、誰も彼が収賄などするはずがないと信じなかったらしい。でも、彼はそれを認めて都を出て行った。その後いくつかの村を点々として、黄昏国へ腰を据えたとムロから聞いた」
意表を突く答えにヤサカニは振り向きざま、大きく肩を竦めて見せた。彼が手に持っている松明の炎がその動作によって大きく揺れた。
「とても信じられません。戦で見かけただけの俺にでも、彼が己を律して実直に生きていることがわかったのに」
「そう、ね。そうせざるを得ない、理由があった」
その理由が何かはヤナギもおぼろげにしか覚えていないが、幼心に痛みを感じたことは覚えている。
「――……そうせざるを得ない、理由」
復唱し、ヤナギの横を歩くヤサカニは物思いに耽っているのか一文字に口を引きしめる。
蜘蛛の廻廊は一本道だった。ヤナギもヤサカニも、ここまで入り組んでいない簡素な廻廊を通ったのは初めてで若干拍子抜けした。何かあった時のためにとヤナギは武装までしてきたのだ。
廻廊を抜けてすぐ目の前に善灯村は見えた。夕刻なので、夕餉の準備支度のために煙がそこかしこから上がっている。森の奥にひっそりと隠されていた蜘蛛の廻廊から村まではほんの数刻で辿り着けた。
村人は奇異な目でヤナギたちを見たが、彼らの視線はもっぱら隻眼のヤサカニに集まっていた。ヤサカニは慣れた様子でその視線を黙殺する。
ヤサカニはヤナギから離れて、きょとんとした顔で遠巻き彼を見ていた少年にサブライの居場所を訊いた。少年は目を丸くしたものの、親切にクルヌイの住処を教えてくれた。ヤサカニは微笑を湛え、厚く礼を言った。それを見た年頃の若い女たちは黄色い声を上げた。
たとえ片目がなくても彼の端麗さは比類なきものだ。彼の主であるカガミが華やかで涼やかな美麗さなら、ヤサカニはしっとりとしたほの暗い美麗さだった。黒に染め上げた髪がまた、彼の美しさを引き立てる。
神はこの麗しき容貌を目にして、神の力を注いだのではなかろうかと、ヤナギは真剣に考えた。
ヤサカニはヤナギのもとへ戻ってきて小さく溜め息を洩らす。
「――このような扱いには慣れています。何かが欠けた者に対する処遇は、高天原国の方が寛大です。……俺のこの左目左耳を初めて見た時、台王は『そちは神に愛でられたのだ』と言ってくれました。この黄昏国で〝神に見捨てられた〟と散々なじられてきた身としては、随分驚きました」
「…………」
押し黙るヤナギに顔を向け、ヤサカニは目を細めて笑った。彼の笑顔は冷たい雪がじわりと溶けた時の温かさを思い起こさせる。
「あなたがそんな顔しなくてもいい」
「そんな顔って……」
「眉根が寄っています」
知らず知らず、厳しい顔をしていた自分に動揺する。ヤサカニの思考はヤナギに似ているため、共鳴してしまう。
ヤナギたちはサブライの家へ到着した。クルヌイは軒先で薪割りをしていた。ヤナギとヤサカニが声をかける機会を窺っているいると、クルヌイは二人に向かって快活に笑った。武人の面影を色濃く残すクルヌイはヤナギの記憶よりも少しだけ痩せていた。
「お久しぶりです、クルヌイ。高天原国の巫だったヤナギです」
「ああ、久方ぶりだなヤナギ殿。随分大きくなった。……貴殿は……」
クルヌイはヤナギに向けていた優しい眼差しを一転させてヤサカニを見る。ヤサカニは緊迫した空気に臆することなく一礼した。
「戦場で何度か会い見えたことがあります。黄昏国の指揮官をしていたヤサカニです」
「〝眼帯の氷獅子〟か。貴殿も戦場で会った時にはまだほんの子供であったというのに、今や立派な大人だな」
「〝激昂の大蛇〟殿は、戦場でお会いした時より随分痩せておいでですね。もう武人を棄てたのですか?」
見えない火花が散っている気がしてヤナギは冷や汗をかく。鋭い大蛇の睨みに冷徹な視線で相対する獅子に挟まれたヤナギは所在なさげに二人を交互に見た。
軽く挨拶を交わし終えた三人は、家の中へと入った。クルヌイは蜘蛛の廻廊を歩き通したヤナギたちに夕餉をよそってくれる。雑談の中で、サブライが今薬師のようなことをしているとヤナギは知ることができた。薬の調合は昔から得意だったのだとサブライは得意げに言った。
「それにしても、よくわしがここにいるとおわかりになったな」
「ムロに……聞いていたので」
ほお、とサブライは嬉しそうに表情を崩した。
「ムロが武官長になったのは彼が便りをくれたので存じている。ムロは役立っているだろうか」
「は、はい」
ヤナギの声がうわずる。ヤナギとヤサカニの目が合った。
ムロが高天原国を出て行ったことをサブライは知らないのだ。
サブライは二人の様子に片眉を上げた。
「……ムロが、何かしたのか?」
どこまでも真っすぐなサブライの視線にヤサカニは、ぐっと顎を引いて答えた。
「ムロ武官長は、黄昏国の者とともに高天原国を出奔された。現在どこで何をしているのかは俺たちにもわかりかねます」
ヤサカニの言葉にサブライは声を詰まらせる。彼は難しい顔をして顎に手を当てた。
「まさか、あのムロに限ってヤナギ殿を裏切るはずが」
「私が、言ったんです。カガミたち黄昏国の人を助けたいと。だからムロは」
必死に自分を止めようとしたムロに対して浴びせた言葉を思い出し、ヤナギは俯く。あの時、ムロは鈍器で頭を殴られたような顔をしていた。あの時の言葉は、ヤナギを懸命に守ろうとしてくれていた彼に対して言っていいものではなかった。むしろ、絶対に秘めておかなくてはならない言葉だった。
「そうか。しかし、それもまたムロ自身が決めた道。わしがとやかく言うことでもない」
「自身が、決めた道。ですか」
ヤサカニは歯切れ悪く呟く。そんなヤサカニへ目をやってからサブライは瞑目した。
「どの未来を選び取ったとしても、後悔や苦悩は生じるもの。だが、自身が選んだ道ならば、最後まで進むことができるとわしは思っている」
サブライの厳かな言にヤサカニは何か考え込むように下を向いた。彼の瞳は憂いを帯びている。カガミを裏切ってしまった自分を責めているのだろうか、とヤナギは胸を痛めた。
サブライの家より北上し、小さな森を抜けたところには一面の葦原があった。そこにはいくつもの岩がある。一番手前の岩をよく見てみると、表面に何か文字が彫られているのがわかった。ヤサカニはその文字を指の腹でなぞる。そして、その横にあった岩に刻まれた文字もなぞった。
「この文字は黄昏国のものです。『エイコ、ここに眠る』『マカ、ここに安らかに眠る』。……どうやら、ここにある岩全て墓石ですね」
サブライにサコの墓参りに来たのだと告げたヤナギたちは、サコは葦原にて眠っていると教えられた。
実際、葦原に着いてみると、多くの岩がそこにはあった。
「たしか、サブライは黒い岩と言っていた」
ヤナギは一しきり周囲を見回した。背の高い葦の草原の中で、ただ一つの岩を探すのは容易でない。
二人は黒い岩を四方八方探し回り、ようやく目当ての岩を見つけた。岩に丹念に彫られた文字を見て、ヤサカニは額に滲んだ汗をぬぐう。
「『サコ、安らかな夢を』。これだ」
ヤナギは、そっとその岩に触れた。冷たいはずの岩がほのかに暖かく感じる。こみ上げてくる涙は歯止めが効かず、ヤナギの両目から流れ出た。
「サコ……そなたに会いたかった。遅くなってごめん」
かなり前に、ムロからサコの遺体がここに運ばれていることは聞いていた。むろん、首から上は梔子斎森に埋葬されているものの、せめて胴体は故郷である黄昏国に還してやろうと王宮にいる黄昏国出身者たちが働きかけた努力の賜物だった。その働きかけがなければ、胴体は無惨に焼かれていただろう。
サコの墓石は葦原の最果て――海の見渡せる崖上にあった。霞みがかった乳白色の空と紺碧の海。その二つの色合いはどこまでも混ざり合うことなく彼方へと続いている。
ヤナギは泣きじゃくった。それを止めるでもなく、ヤサカニはその隣で黙祷を捧げていた。
サコの墓参りに行った翌朝、まだ明け方の早い時間。ヤナギはサブライに揺り起こされた。
目をこすってぼんやりと瞬く。部屋のすみでヤサカニが手早く浅黄色の腰帯を締めているのが視界に入った。
「……サブライ、どうしたの。まだ早い」
「重症の患者が来た。ヤナギ殿たちには悪いが、すぐにここを発ってほしい」
「ええ、わかった」
ヤナギは慌てて衝立の後ろにまわって装束を着替える。手ぐしで髪を梳いてからさっさとサブライの前に顔を出した。
「……ずいぶん急かすのですね。その患者ははやり病なのですか」
ヤサカニは心配そうにサブライに訊いた。サブライは首を横に振る。
「そうではない。だが、貴殿らと顔を合わせぬ方がいいとわしが勝手に判断を下した」
一瞬間を置いてサブライは言った。
「ムロだ」
そう言われた二人は息を詰まらせた。
真っ青になって口を押さえるヤナギの肩をサブライは優しく叩く。
「大丈夫だ、大事ない。必ずムロなら乗り越えられる」
しかし、とサブライはヤサカニの方を向いて苦笑を洩らした。
「貴殿の主には恐れ入る。ムロを診せに黄昏国の都から単身乗り込んできた」
「カガミ様がっ?」
思わずヤサカニは前のめりになる。彼の顔に喜色が浮かんだ。
「ああ。二人とも、あまり話ができなくて残念だが――来れる時でいい、また顔を見せに来てくれ。わしは高天原国には出入りしたくてもできないからな」
サブライはヤナギたちの背を押した。二人はサブライに深く頭を下げて裏戸より抜け出した。サブライとカガミの声が家の中から聞こえてきたのを見計らって、ヤナギたちは物音立てずにそこから離れた。
ヤナギは手に顔を埋める。
「良かった……。生きていてくれて、良かった……」
「はい」
「本当に、ほっとした……」
「……はい」
ヤナギが顔を上げてヤサカニに微笑むと、彼もおずおずと微笑み返してくれた。
二人はまだ村人たちが朝餉の準備に追われている中、歩いて行く。
「これからどうしますか」
ヤサカニの問いにヤナギは腕を組んで唸った。
「もう少しこの村を色々見てみたいけれど、宿がない。――まあ、いざとなれば野宿でも」
ヤナギが放った最後の言葉をヤサカニは聞いていなかった。彼は近くにいた若者に話しかけている。最初は嫌そうな顔をしていた若者だったが、次第に笑顔となり、隣にいた妻らしき女に何やら言っている。女はヤサカニを見て頬を染めて控え目に頷いた。それを見た若者は大きく頷いてヤサカニと握手している。
ヤサカニが何をしているかさっぱりわからないヤナギだったが、彼がこちらを振り向いて手招きした瞬間、全てを悟った。ヤサカニは宿の交渉をしていたのだ。
彼のあまりの迅速さに、ヤナギは脱帽した。