三.
信じられないクルヌイの命令にヤサカニは己の耳を疑った。クルヌイはいつもと変わらず笑みを湛えた顔でヤサカニの前に立っている。
ヤサカニと同じく王子の室にいた護衛兵たちの動きも止まる。
「クルヌイ王子、それは……台王が許さないのでは」
「大丈夫、僕がうまく取り繕っておくから」
室内は異様な雰囲気に包まれていた。
クルヌイは都の視察を行なって戻ってきたばかりのヤサカニを、すぐさま室に呼び出した。急いで室に向かってみると、ヤサカニだけでなく他の護衛兵たちも呼ばれていたらしく、皆困惑した表情でクルヌイの言葉を待っていた。
クルヌイはヤサカニが来た瞬間、外を見ていた目を室内に向けて言い放った。
ヤサカニに自分の護衛と姫巫の護衛とを兼任させる、と。
護衛兵たちの動揺は凄まじかった。王子の護衛が他の者の護衛を兼任するなど今までに前例がない上、姫巫の護衛は誰も就いたことがない。
姫巫は戦女神。自分たちを遥かにしのぐ力を持つ者を守る必要などどこにもない、というのが皆一致の見解だったのだ。
「王子、姫巫に護衛など要りません。あのお方は我々以上の力を持たれています。それに武力はないかもしれないですが、そのかわり巫力を持つ采女が近くに控えているではありませんか」
「そうです、クルヌイ様」
反対意見を言う護衛兵たちを一瞥し、クルヌイは溜め息を吐いた。
「じゃあ何故、姫巫は兵たちに殺されそうになった。何故、采女の一人が死んだ」
しん、と場が静まり返る。クルヌイから発せられたとは思えない冷たく硬質な声に護衛兵たちは目を丸くする。
「武力が巫力に負けるように、巫力だって多くの武力に囲まれれば……負ける」
ヤサカニはチズコの最期を思い出し、眉根を寄せた。息も吐けぬ戦いの最中、巫力を使うのは至難の技だ。だから、戦場においても姫巫以外の巫たちは後方で術を練るのだ。前線に出れば、否応なしに剣に圧される。
「ヤサカニ、これは命令だ。背くことは許さないよ」
クルヌイの迫力を前にして、ヤサカニは頷くしかなかった。
赤、黒、白。
原色がヤナギの脳裏に浮かんでは消えてゆく。体が無意識のうちに目覚めようとするのを精神が拒絶する。それが何度続いたかは定かでないが、今や何もかもがあやふやなまま夢にまどろんでいる。
『ヤナギ様』
呼ばれてもなんの縛りも持たないかりそめの名。誰かが何度もそれを呼ぶ。心配そうに、悲しげに、時には怒りを含んで。何度も何度も。
だが、その声はチズコではない。サコでもない。
(私が心を許した人は、皆死んでゆくのだ)
それならいっそ――――。
ふと瞼を薄く開けば、何の変哲もない天井が視界に映った。
上体を起こす。どこも痛くない。腕や足に傷を負っていないか確かめてみるが、傷一つついていなかった。幾日眠っていたかは定かでないが、空腹は感じない。寝台の隣に備えつけられている卓の上に白湯と水があるところを見るに、誰かが定期的にヤナギへそれらを流し込んでくれていたのだろう。
ヤナギは牢の中で目覚めることを覚悟していた。しかし、ここは社殿である。あれほど大きな火事を起こした自分に台王が怒りを感じないはずがない。投獄されてしかるべきことをした自分がここにいることに首を傾げる。
「ヤナギ様」
低い声が寝室の入り口から聴こえた。ヤナギは声の主を見た瞬間、血相を変えて素早く寝台から跳ね起きた。寝着であることも忘れて声の主の胸倉を掴んだ。
「何故……何故、私を放って逃げなかった!」
目頭が熱くなる。たとえようのない感情がないまぜになって声の主に牙を剝く。喉の奥から何かが込み上げてくる。
彼――ヤサカニの右目は静かにヤナギを見据えていた。赤茶色だったはずの鋭い彼の瞳はヤナギが真名を縛ったために青みを帯びている。
「そなたちを逃がすために力を揮ったのに。何故――!」
久々に怒鳴り声を上げてしまった自分にヤナギは当惑する。それでも感情は収まらない。行き場のない気持ちはやがて一筋の涙となってヤナギの頬を伝う。はっとしてヤサカニから手を離す。強引に頬を伝う涙を拭った。それはとめどなく流れ落ちる。
ヤサカニはそんなヤナギの様子を黙して見守っていた。ようやくヤナギが泣き止むと彼は困ったように微笑んだ。
「何故でしょうね。正直、その問いの明確な答えを俺は持っていません。憎しみが消えたわけでもない。ただ、あなたの孤独と俺の孤独は似ています」
ヤナギは予想だにしていなかった答えに虚をつかれた。
ヤサカニはヤナギの頭を撫でる。冷たさを感じさせる外見には似合わず、ヤサカニの手は温かかった。
「チズコは……やはり、死んだの?」
「はい」
「……何故、火事を起こした私は牢に押し込まれていないの?」
「それは、あなたが炎を起こすところを誰も見ていなったからです。逆にあなたを傷つけようとした兵たちの方が牢にいます」
ヤナギの疑問にヤサカニは丁寧に答えてくれた。前に書庫であった時も丁寧に黄昏国のことを教えてくれたことを思い出す。
「カガミたちは……」
「安心してください。――いや、安心しろというのは間違っているかもしれませんが。脱走しました」
その言葉にヤナギは安堵する。多くの犠牲を払ったのだ。これで逃げ出せなかったということになれば、ヤナギのやったことは意味を持たないものになる。
よくよく考えてみると、大それたことをしでかしたものだと思う。
その犠牲となったのが、チズコ。
ヤナギは自嘲の笑みを象った。
「私に関わると、皆ろくなことがない」
呟いた声にヤサカニが敏感に反応した。彼はヤナギの背中を押して寝台に座らせた。そして彼は片膝をついて真摯な瞳でヤナギを見つめる。
「今の言葉は取り消してください」
「え……?」
思いのほか強い視線にヤナギは目を泳がせた。
「今の言葉は、あなた自身に失礼だ」
ヤナギは息を呑んだ。
「あなたには価値がある。姫巫だけが持ち得る力、あなた自身の努力、そして皆を助けようとする精神」
ヤサカニはそこまで言って彼は目を細める。
「あなたほど利他的な人物を俺は知りません。その人格が、あの偏屈なチズコさえ動かした。もう少しご自分の価値というものにお気づきになられた方がいい」
「それは、ほめているのか貶しているの」
問えば、ヤサカニは少しだけ笑った。彼は答えなかった。
「ねえ、ヤサカニ。少し不思議に思ったのだけれど、何故そなたがここにいるの」
社殿内に立ち入ることを許されているのは、采女や巫だけである。それだけ神聖視されている場所なのだ。社殿に――しかもヤナギの寝所に男が立ち入るのは異例だ。
ヤサカニは心得たように頷いた。
「クルヌイ王子からの命令です。姫巫の護衛も務めるようにと」
ヤナギは驚いて肩をいからせた。
「私に護衛なんて――」
「ヤナギ様がまた何かとんでもないことをしないように見張れという意味もあると思います」
からかうような口調で言うヤサカニにヤナギは頬を膨らませた。
ヤサカニは優しい手つきでヤナギの肩を押し、寝台へ寝かせる。その動作はチズコに酷似しており、ヤナギの心がつきりと血を流した。
「ヤナギ様、眠ってください。今少し、朝は遠い」
格子の外は闇だった。室の四隅に煌々と明かりと放つ燈台が、ヤナギに今が朝方だと勘違いさせたらしい。
ヤサカニの大きな手がヤナギの目を覆う。ヤナギは従順に瞼を閉じた。しかし、睡魔は一向に襲ってこない。なので取り敢えず目を瞑っただけでいるとヤサカニが話しかけてきた。
「ヤナギ様、眠れないのでしたら何か話しましょうか」
「――うん。ヤサカニがいいのなら」
遠慮がちにヤナギは答える。少しの間を置いて、ヤサカニは喋り出した。低く、穏やかな声は耳に心地よい。
「西の大国である南卯国に、森羅万象や小さき神々の声や姿を見ることのできる少年がいました。
その少年の家系は代々国の王に仕える家系でした。少年の力を知った王や家族はそれはそれは喜び、少年を大切に慈しみました。
しかし戦禍はその南卯国にも迫り、少年たち一家は地上の大国黄昏国へ移り住むことになったのです。
少年の父や兄は黄昏国の王宮に仕えました。天上にあるという高天原国を倒すのだと父や兄は少年に何度も語りました。
少年も国のためになりたいと学問や剣術を学び始めます。そんな少年を小さき神々は心配そうに見守っていました。時にはその力で突風を巻き起こして少年を助けようとしてくれていました」
ヤナギはヤサカニの語る話に聞き入っていた。ヤサカニは瞳を伏せ、自らの左目にした眼帯へ手を当てる。
「ですが、高天原国と拮抗していた黄昏国さえも姫巫の力の前に敗れてしまいました。少年の家族は年老いた父を除き、皆死んでしまいました。父と少年は、生き残ったごくわずかな村人たちとともに蜘蛛の廻廊を抜けて、命からがら高天原国のとある村へ逃げ込みました。逃げ込んだ村の人々は初めこそ戸惑っていたものの、少年たちを助けようと手を差し伸べてくれたのです。少年の父は泣いていました。『ありがとう』と。
少年は村の子供たちと仲良くなり、毎日のように野山を駆け回っていました。そして、その仲間のうちに少年と同じく神々が見える少女がいたのです。少女は神々の声は聞こえないのですが、そのかわりに強い先見の力を持っていました。村の占手である者の娘である少女は少年にいつも先見の内容をこっそり教えてくれていました。
そんなある日、少年も嫌な夢を見たのです。村が真っ赤な炎に焼かれる夢。それを少女に言うと、少女も同じ夢を見たというではありませんか。二人は大人たちにそのことを伝えましたが、誰も取り合ってくれません。少年の父さえも、今まで息子が先見の力を発揮したことはないため取り合わなかったのです。
そして……ことは起こりました。
少年たちが野山で遊んでいると、村の方角から煙が上がっているのを仲間の一人が見つけました。少年たちは急いで村へ駆けだします。
近づくにつれて、村が真っ赤な炎に巻かれていることが浮き彫りになってきました。
少年は必死に小さき神々たちに助けを求めます。しかし、神々の力を遥かに凌ぐものが炎を操っているため、手出しできないと彼らは悲しげに言いました。
その時でした。少年の左耳がいきなり音をなくしたのです。少年の後ろからついてきていた少女の悲鳴が聞こえました。平衡感覚がなくなり、少年は膝をついて左耳にそっと手をやりました。そこにあるべき耳は地面に切り落とされていました。
彼の周囲に小さき神たちが集まってきて必死に何か伝えようとしましたが、少年にはその声が届きません。
熱い風が吹きました。すると、小さき神々は塵となって掻き消えました。いいえ、消えたのではありませんでした。少年はあまりの痛みに何が起こったかわかりませんでした。
ごろりと少年の左目が彼の手の中に転がり落ちました。
少年は声も出せず、その凶行に及んだ人物を見ました。
炎の隙間より、黒い髪をした幼い少女と目が合いました。少女の目はがらんどうで、何も映していない空虚な瞳でした。少女を見れたのは一瞬でした。すぐに猛る炎が少年と少女の間を塞ぎました。
少年はいつの間にか意識を手放しました。
次に目を醒ました時、少年は所有していた〝神の目〟と〝神の耳〟――左目と左耳をなくしていました。それから先、彼は神の姿を見ることも、会話することもできなくなりました」
ヤサカニはなおもヤナギの瞼の上に手を置いている。彼が今どんな表情でいるのか心配になったヤナギはその手を外そうと自らの手を添えるが、ヤサカニはヤナギの瞼から手を外そうとしない。
ヤナギは手に温かい水滴が落ちてくるのを感じた。
「ヤサカニ……今のは、そなたの……」
過去なのか、と訊く資格が自分にはないと思い至り、ヤナギは口をつぐむ。
数年前、出会った頃にヤナギはヤサカニに殺されそうになったことを思い出した。彼はその炎の中で見た少女をヤナギを思っているのだ。だが、ヤナギにはその村に行った記憶もなかった。
少なからず、ヤナギは困惑していた。ヤサカニもまた、神の力を持っていた者だったのだ。今は違うにしても一度はその力を持っていたという事実に、どう言えばいいかわからなかった。また、神の力を一瞬にしてもぎ取った少女が誰なのかも気になった。
「…………これは、ただの物語です。神の愛しみを少しだけ注がれた少年の物語。もう、誰も知る者のいない物語」
そっとヤサカニはヤナギの瞼から手を離した。ヤナギは勢いよく目を開けてヤサカニを見る。白目の部分が血走っている。
「私は、忘れない」
ヤナギは言ってヤサカニの眼帯に触れる。そして、前かがみになっているために顔にまとわりついている彼の黒髪を梳いた。
「絶対に」
忘れられていくことへの恐怖。自らの苦しみを他者に話せない哀しみ。決して悟られたくない心の柔らかい部分。
ヤサカニの心はヤナギの心そのものだ。
ヤナギは再び目頭が熱くなるのを感じた。
黙っていたヤサカニの唇が微かに開く。彼の唇は震えている。
ヤサカニはヤナギの手を強く握りしめ、祈るようにその手を自らの額に寄せた。