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一.


 カガミたちの脱走劇から五日後、今代姫巫が重用していた采女うねめ――チズコの葬儀が行なわれた。

 その時、立ち昇る煙を前に不覚にもヤサカニは少しだけ泣いてしまった。幼少時代、ともに高天原国たかまのはらこくむらで過ごした記憶は喪った左目と左耳に生々しく刻んでいる。チズコが重傷を負ったヤサカニを担いで近隣の邑へ助けを求めなければ、自分は死んでいたに違いない。

(なのに、俺はチズコを助けられなかった)

 彼女は最期までヤサカニの窮地を救ってくれたのに。

 悔やみきれぬ想いがそのまま涙となって目頭に浮かんだ。

 葬儀が終わるとその足で梔子斎森くちなしさいのもりへ向かった。梔子斎森の入り口である北門前には女官たちが群れをなしている。彼女たちは森に向かって一様に祈りをささげている。姫巫の回復を願っているのだ。

「失礼」

 女官たちはヤサカニの声に気色ばんだ。ある者は横の者を小突き、ある者は髪を手ぐしで整える。

 ヤサカニはそんな彼女たちに留意せず、橘の木で覆われた鏡月池きょうげついけへ近寄る。薄く湯気立つ池の水を掬いあげて口をゆすぐ。そのあと、丁寧に手を洗った。せめてこれくらいの清めはしろと口をすっぱくして言っていたチズコが思い出され、胸が痛んだ。

 神杷山しんはやまの入り口は、何度も通ううちに把握できた。黄昏国たそがれこくの民である自分を神杷山の主神は拒むだろうと思っていたヤサカニは、初めて姫巫の社殿へ続くこの楠の木に触れた時、ある程度の覚悟をしていた。しかし、主神は沈黙を貫いた。ヤサカニが山を登ることを容認したのだ。それが果たして何故かは人の身空ではわかりかねる。

「お待ち申しあげておりました、ヤサカニ殿」

「ああ。……采女殿、姫巫の……ヤナギ様のご容態は?」

 采女たちは力なく俯く。何も変わっていないのだ。

 ヤサカニは社殿の奥間へ通された。代々姫巫が住まう部屋は簡素で、余分なものが何一つない。ただ、橘の枝とゆずりはだけが中央に置かれている。

 采女たちは、ヤサカニ様も安静になさってくださいませ、と気遣わしげに言って部屋を出ていく。

 ヤサカニは寝台に寝そべっているヤナギの顔を覗き込む。彼女の傍らに置いてあった桶の水に浸した木綿布を固く絞り、ヤナギの額に乗せた。

 微かに睫毛を震わせながら眠り続けるヤナギを見て、ヤサカニは溜め息を吐いた。

 真象の力をふるい、炎を操った姫巫はいまだ深い眠りから醒めない。ヤサカニは火傷を負った自らの左肩に手をやる。少し血が滲んでいたため、上衣を脱ぎ捨て巻いていた布をいだ。赤黒く変色した肌はいまだじくじくと痛むが、ヤナギの痛みに比べればと自らを奮い立たせていた。

 しずしずと扉が開かれる。采女たちはヤサカニが上半身を露わにしているのを見て、さっと頬に朱をさしたが、すぐに立ち直って用件を述べた。

「ヤサカニ様のお傷に当てる布と塗り薬をお持ち致しました。どうぞ、お使いになって下さいませ」

「すまないな」

 いいえ、と軽く頭を下げて采女たちは退室した。彼女たちはよく気が回る。これも采女筆頭を務めていたチズコの教育の賜物たまものなのだろう。采女たちの動きに無駄は一切ない。

 ヤサカニは壺に入った塗り薬を手に取り、患部に塗布する。少しだけ痛みが和らいだ。濃厚な薬草の匂いが鼻孔に迫る。それを封じ込めるように手早く布をきつく巻きつけた。

 火の手が一番大きかった場所にいたことをかんがみれば、ヤサカニはだいぶ軽傷と言える。火柱からヤナギを守る際に左肩を痛めた以外に大きな外傷はなかった。

(ヤナギ様の傷も、内側でなく俺のように外側であれば)

 いまだ目覚めないヤナギを問診した医師は云った。外傷はほぼない、あるとすれば心に刻まれた傷だろう、と。

 ヤサカニは脇においた桶に自らの顔を映した。揺れる水面に映る右目は淡く青みがかっている。もとは赤茶色だった瞳が変色した理由はただ一つ。

 真名を縛られたからである。

 真名縛りは姫巫だけが行なえる秘術であり、それを施行された者は体のどこか一か所の色が変わるという。ヤサカニの場合、赤茶だった瞳の色が青茶になっただけなので、さほど気になる変化ではなかった。

 しかし、とヤサカニはヤナギを見つめた。ヤナギはヤサカニの瞳を見るたびに、自分が真名縛りをしたのだと心を痛めるのだろう。それをヤサカニは危惧していた。ヤサカニ自身が真名を教え、縛れと懇願したのだ。ヤナギが気に病む必要はない。

 あの状況下で、何もせずに火の海を脱出できたとは到底思えない。真名を縛られたことにより、ヤサカニはヤナギを守るために己の限界点を越えた能力を発揮できたのだ。 

 ヤサカニはヤナギが自分の真名を口にした時のことを思い出して胸を震わせる。

『シュマ』

 甘く、脳髄のうずいを侵蝕していくような声。この方を守り抜きたいと思わせるほどに心地よい響きだった。

 真名を呼ばれること自体、滅多にないことだ。大半の者は家族以外に真名を明かさず生涯を終える。

 まさか、自分が敵である姫巫に名を明かそうとはな、とヤサカニは苦笑した。

 あの瞬間――火の渦の中でヤナギが倒れ込んだ瞬間、ヤサカニは呼吸を忘れた。今もあまりその時の行動を思い出せない。とにかく助けなければと体が動いた。

 カガミの背後からヤサカニは呆然とヤナギが真象の力を振るうさまを見ていた。すると、急にヤナギが胸元を押さえてうずくまったのだ。

 反射的にヤサカニの体はカガミの横を横切っていた。

『いけない、ヤサカニ様!』

 バショウが手を伸ばしてきたが、ヤサカニには届かなかった。剣も荷物も何もかもなげうって、ヤサカニはヤナギのもとへ駆けた。

 ヤサカニがヤナギの傍らに膝まづくと同時に炎の勢いが更に強まった。ああ、もう自分は引き返せないとその時ヤサカニは覚悟を決めたのだ。

「…………何故、だろう。今だってこんなに憎いのに」

 一人ごちてヤナギの頬にかかる髪をすくい、己の口元に当てる。黒く艶のある髪からは部屋に焚きしめられた香の匂いがした。

「笑うか、チズコ。幼いあの日、姫巫など絶対に殺すと言ってお前と訣別けつべつしたのに――」

 格子から洩れる夕刻の赤みを帯びた光がヤサカニの繊細な造りをした相貌を照らす。あまり表情を和らげることのないヤサカニが、ふと痛みを含んだ微笑を浮かべる。

「俺は自ら姫巫を選び取った」



 高天原国の上空には、薄い雲が立ち込めていた。風情ある宮だと他国の使者たちから称される王宮は、今や目も当てられない状態だった。

 西門にある忌み部屋は跡形もなく焼け焦げ、台王の寝所にかかる格子も黒い炭となっている。

 十日前に起きた黄昏国の者たちの脱走劇は、すぐに人々の耳に伝わった。

『ああ、きっとこれは凶事の前触れ。神が怒っておられるのじゃ。台王の治世では国が潤わんと』

『そうかもしれないね。黄昏国の奴らもこんな中途半端な火事じゃなくて、宮殿ごと全部燃やしてしまえばよかったのに』

『ムロ武官長が黄昏国に加担するとなると、この国も終わりかもな』

 市井からはそのような声も上がる。

 今年は日照りが続いていたため、穀物の実りが芳しくなかった。しかし、台王は民に例年と変わらぬ税を納めさせた。守れない者は容赦なく引っ立てられて打ち据えられ、罵倒される。しまいには殺された者もいる。そのような現状に人々からは今回ののくだりは台王のせいだとのたまう声が少なくない。

 慌てたのは台王や側近たちだ。呪詛じゅそのような噂を断ち切ろうと躍起やっきになるが、広まってしまったものは取り返せない。

『大体、他国を制圧して何がしたいんだか』

『美姫の集団でも作りたいんじゃないの。台王様は好色だから』

 綻びは宮中にも広がる。

 反逆罪だと台王は憤然とし、家臣たちに噂を聞いたらその者を御前みぜんに引っ立てよと命をだすが、その家臣たちさえ台王を嘲っているのだからどうしようもない。

 耐えようのない怒りの矛先を、逃亡した黄昏国の者たちに台王が向けるのに、そうそう時間はかからなかった。

 寝殿の奥にある楽屋で日がな酒に楽に興じていた台王は、集った者たちに目を向けた。

「ヤサカニを……ヤサカニをここへ!」

 皆、互いに目を合わす。台王はヤサカニを処断しようとしているのだ、と台王の様子から容易く見破れた。

「し……しかし、ヤサカニ殿は深手を負っておいでで……。その上、寝ずに姫巫様の介抱までされておられて……」

 一人の采女が震える足で進み出て、口を濁す。それが更に台王の怒りを煽った。

 台王が持っていた杯を女官に叩きつける。杯に入っていた発酵酒が零れて采女の衣服を濡らした。

「貴様は高天原国の民であろう! わしの言うことが聞けないのだったら、奴婢ぬひの身分に落としても良いのだぞ!」

 意見した采女は今にも泣きだしそうな面持ちで席を辞した。

 台王の傍にはべっている美姫たちもその様子に声を失っている。

「台王様、さきほどの采女は都でも有力な貴族の娘でございますぞ。その物言いはいかがなものかと!」

 非難の声を上げたのは、理知的な顔をした台王付きの近衛兵だった。近衛兵は精悍な表情で台王を睨み据える。

「…………そちはこれより、西門兵に格下げじゃ」

 稲妻が走ったごとく、楽屋は静まり返った。

 近衛兵は慇懃いんぎんに頭を垂れて台王の近衛兵である証の虹色をした玉が填め込まれた剣を床に置き、「とんだ御無礼を致しました」とだけ口にして退出していった。こそこそと側近が台王に耳打ちする。

「――――あの者は、近衛兵の中でも腕利きの者でございましょう。身分も高く、教養も高い。どうぞ、ご恩情を」

「黙れ。誰であろうとわしに口出しは許さぬ。そなたらも、腹の中では笑っておるのだろう。わしを」

 酷薄に笑う台王に意見出来る者はいなかった。

 台王はくつくつと喉を鳴らすと、隣にいる美姫へ「酒を」と促す。場の雰囲気に圧されていた美姫は慌てて杯に酒を注ぐ。それを煽り、台王は不穏げに舌舐めずりする。

「……知らぬから、笑えるのだ。知らぬから、狂わずいれるのだ」

 小さく呟いた台王の言葉を拾った者は数名いたが、誰もその真意を測り知ることなどできなかった。





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