二.
地下には、高天原国と同等か、それ以上の勢力を誇る国があった。
名を黄昏国。
猛威を奮う王に圧されて、民衆は日々死と隣り合わせで暮らしていたと高天原国の書物には記されている。
高天原国と黄昏国は何度も何度もぶつかった。
地上と地下を結ぶ蜘蛛の廻廊を登り降り、激戦は繰り返された。
その戦を下火にさせたのが今代姫巫だった。
今代姫巫が黄昏国と戦を始めてから数百年余りが経過した今、黄昏国は傾国となっている。最早、いつ何時潰れてもおかしくないだろう。
また、姫巫は四年前に高天原国の領土にて暮らしていた黄昏国の残党を散り散りにもした。
国を愛す、姫巫の心が大業を成し得たのだ。
そんな采女たちの話を聞きながら、ヤナギは凡庸な表情をして采女たちにされるがまま、姫巫の証である七色の装束を身にまとった。
化粧を施されている間も黙りこくり、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
冬晴れは大層空気が澄む。このような日に儀が執り行われるのは幸先がいいと采女の一人は満足げに頷いた。
先日、姫巫は死地に旅立った。
姫巫の座は亡くなった姫巫の望んだとおりヤナギへ譲られることになった。
滞りなく姫巫代替わりの儀は進む。
あとは神の御印を身に刻むだけだ。
一歩、一歩、緩やかに祭壇に近付く。
この日のために王宮の謁見の間に建てられた祭壇には、巫たちの中でも最年長である大巫が緊張した顔で待ち構えている。手には刻印を標すために、高温に熱された銅印を持っていた。
「これより、神の御印をそなたに刻みます」
大巫は気高くもそう言って、ヤナギの顎を上向かせる。
ヤナギは全てを諦めた瞳を伏せて舌を出す。
まだ触れてもいないのに舌が燃えるように熱い。
肉を溶かす音と共に、刻印はヤナギの舌に刻まれた。
儀に集まった者達はまだ十一になったばかりの幼い少女があまりの痛みに舌を噛み切ってしまうのではないかと心配していたが、その憂いは無用だった。
ヤナギは無言のまま、青い空を見つめていた。
「ヤナギ様…………っ。大巫様、もうその銅印をヤナギ様より外して下さい! こんなのあんまりです。まるで罪人のようではないですか」
サコの悲しい叫びが上がる。
サコが放った“罪人”という言葉に幾人かはぎょっと目を剥いた。
「そこの無礼な付き童を捕らえよ! 反省の色が出るまで岩牢にでも突っ込んでおけ!」
台王付きの護衛官が顔を真っ赤にさせて怒鳴り散らした。武人たちはサコを取り囲み、捕らえる。
(サコ)
声にならない言葉をヤナギは発した。
舌が引き千切られるように壮絶な痛みが思考も何もかも全て麻痺させる。
◆ ◆ ◆
三日三晩――いや、それ以上、ヤナギは悶え苦しんだ。
舌は喉を圧迫する程に肥大し、高熱が続いた。死んでしまうのだろうかと思った最中、脳裏に過ぎったのはサコの悲しむ顔だった。
自分が死んで悲しむ者がいる。それだけが、ヤナギをこの世に留まらせた。
「よくぞ我慢しました。先代の目は確かだったようです」
あくる日、薄く目を開いたヤナギに采女がそう声を掛けてきた。
ヤナギは重い体を起こして彼女に訊いた。
「…………サコは?」
「ああ、あの儀を穢した付き童ですか」
「無礼なことを言わないで」
怒気を発したヤナギに怖気づいたのか、采女はすぐに呼んで参りますと言って退席した。
ヤナギは未だ痛む舌と心にようやく涙を零す。掛け布団に顔を埋めて声を押し殺し、泣いた。
真名縛りを受けた証拠にヤナギの爪の色は桜色から血色に変色した。
縛った者の僕としての印。
先代が死んだ今、それを消す方法を知る者はいない。先代の遺した真名を縛る呪が消える気配はなかった。その身をていして行った呪だったのだ。
それによって、姫巫の座を降りることを許されない状況に追い込まれていた。逃げようとしても、先代の遺した言霊がそれを阻止する。
ヤナギが死ぬまでそれは変わらない。真名の持つ力は大きかった。
「もっと、力ある巫が姫巫になるべきよ」
夢の狭間で幾人もの人が枕元で囁き合うのを聴いた。
ヤナギには並の巫力しかない。取り柄もない。
どうして、そのような者が姫巫に選ばれたのだと怨咀が耳にこびりついて離れない。それに加えて、姫巫の儀によって得た蒼き刻印と古の記憶はヤナギをさいなむ。
「ヤナギ様っ」
はりのある呼びかけが、がらんどうの部屋に響いた。ヤナギは涙に濡れた双眸を持ち上げる。
目の前には、ヤナギと同じように涙で顔をくしゃくしゃにしたサコが佇んでいた。
ヤナギは思わず彼女に抱き付いた。二人は何も言わずにただ抱き合っていた。
少しして、落ち着きを取り戻したヤナギはサコのため、高杯に白湯を注いだ。
「どうぞ遠慮はしないで。長い間、岩牢に閉じ込められていたのでしょう。この白湯でも啜って元気を出して」
サコは沈んだ顔をしていた。
「わたし…………ヤナギ様の付き童になって良かった」
しみじみと、彼女は言葉を紡いだ。
「姫巫になられたヤナギ様にはもう、仕えられないけれど、サコは転生しようがあなたのことを忘れません」
泣き笑いしたサコは、とても凛としている。ヤナギは暗い気持ちになった。
サコのことが心配過ぎて忘れていたのだが、姫巫には付き童はつかない。
代わりに、多くの経験を積んだ采女が付くのだ。
「けれど、そなたは今年、十になる。采女になれる年齢でしょう。私はそなたを姫巫の采女に推薦するわ。そうしたら――」
「いいえ」
即座にサコは答えた。
「わたしは、采女にはなりません。なれないのです」
ヤナギは不審げにサコを見つめる。
付き童を経験した娘は、采女となる資格を有す。たしかに、巫力がある者の方が采女として採用されやすいが、推薦さえあれば、身分に関係なく華々しい姫巫仕えとしての役目が与えられることも多々あった。
サコは采女になりたいとずっと口にしていたし、その分、作法や楽などの勉学にも励んでいた。
巫たちの中でもサコの優秀ぶりは度々話題に上っており、良い采女になるだろうと誰もが賛辞した。
ヤナギにとって、佐子は姉妹同然。この宮殿の中で最も近しい存在である。
「私は…………サコがいてくれないと寂しい」
素直な感情を吐露したヤナギに対し、サコは曖昧に微笑んだ。
「もうそろそろ、ヤナギ様が大人となる時期なんですよ。その時、わたしがいては妨げになる。先代様のように、誰にも頼らない、立派な姫巫となって下さいますよう。サコは貴女のことをいつまでもいつまでも、見守っておりますから。長居してしまい、申し訳ございません。これでサコはお暇致します」
「待って」
ヤナギは思わずサコに追い縋った。
小袖を幼子のように掴むヤナギを横目見、サコはそれを振り払う。
大層、冷たい態度であった。
「…………もう、ヤナギ様のお傍にいるのは疲れました」
小袖を掴んでいた手の力が抜ける。サコは踵を返した。弱々しく伸ばされた手をそのままに、サコは部屋を後にした。
入り口付近に控えていた采女が戸を閉める直前に、サコは何か助けを乞うかのような眼差しでヤナギを振り返った。
しかし、サコに投げ付けられた言葉の衝撃が酷く、ヤナギはサコの眼差しに潜む真意に気付くことが出来なかった。
◆ ◆ ◆
姫巫となったヤナギのいる神杷山を下り終わり、梔子斎森へ差しかかったサコは、無言だった。
サコは空を仰いだ。
純粋な青は空一面に広がっており、それを背の高い木々の緑が彩る。風のざわめきは生命を育む匂いを感じさせ、鳥のさえずりは傷付いた人を癒す力となる。
呪詛の声が満ち満ちるこの森は、どこか優しくサコを包む。
帰りの案内を買って出た若き采女をどうにか追い返し、サコは梔子斎森をあてどなく歩いていた。
ぽうと数多の光が彼女を取り囲む。未だ現世から常世へ続く道で惑っている魂だろうとサコは思った。
「ヤナギ様なら、あなたたちを導いてくれるから、もう少し待っていて。あの方は平穏を連れて来てくれる。殺し合いを好んだ先代とは違う」
自分に言い聞かせるかの如く、サコは光に語りかける。
「まほろばにまつろわなかった者たちよ、あなた達の無念を今代の姫巫は汲み取って下さる。きっと」
光たちが一段と輝きを増した。
高天原国を呪うその赤き光は落ち葉が乱れる湿っぽい地面の中へともぐって行った。
ふと、風のざわめきによってくさむらの向こう側に滝が見え隠れした。
サコはゆっくりとそちらへ足を踏み入れる。
そこに広がる景色は、浮世離れした蓮が浮かぶ泉だった。対岸にあるたいそう古い洞窟を隠すかのように滝が流れている。
「…………これが、師範の言っていた常闇洞泉……。ただ虚ろな世界が泉に映るだけ。迷いや、恐怖、憎しみ、怒り」
そう言ってサコはその泉に近寄る。水面に映っていたのは、醜く歪んだ己の顔だった。
堪えていたものが溢れ出す。
サコは、わっと顔を両手にうずめて泣いた。
「どうして、どうして、ヤナギ様が姫巫にならなければならないの」
常闇洞泉は静かに彼女を見守っている。
「でも、この方がいい。これでいいの。ヤナギ様は何も知らず、笑っていて欲しいから。そうよね、師範」
サコは遠くにいる師範に向かって答えを求める。
返事はなかった。少女の切なる願いはただ一つ。ヤナギの幸せだった。
◆ ◆ ◆
その日、宮殿は何やら騒がしかった。
舌の痛みもだいぶ引き、台王へ元気になった顔を見せるために神杷山から下りて、王宮を訪れていたヤナギは異様な熱気に押されて顔をしかめる。
(催事でもあるのだろうか)
しかし、催し物などがある際は必ず姫巫は参加しなければならない決まりだ。
そのような催し物があるとは采女の誰にも聞き及んでいないため、その線は消えた。
外廊にいても、塀の外のざわめきが聞こえてくる。
ちらちらと赤い旗が見え隠れする。
「ああ、そう言えば今日ですね。何たること。姫巫様をここへお連れするのではなかった」
采女は顔を扇で隠した。
庭を幾人かの武官が駆けて行く。
ヤナギの目にする者は誰しも興味津々といった表情をしている。
「何があるの?」
ヤナギの質問に対して、一人の若き采女は驚いたように目を丸くした。
「姫巫様――――今日は付き童であるサコの斬首日でございますよ」
もしや知らなかったのでございますか、と嘲笑を交えて続けるうら若き采女を他の采女たちが扇で叩いた。
「何たる侮辱、サコより授かった最期の頼み……姫巫様には斬首の旨は内密にという頼みを反故し、あまつさえ姫巫様を嘲るか」
「そちに人の子の血は通ってないようですね!」
「お前など、宮仕えから外すよう台王にお頼み申し上げてくれるわ!」
他の采女になじられながらも、うら若き采女は湖畔のように静かな眼差しでヤナギを見つめる。
「貴女様は、一番近きサコの心の声も聞こえない愚か者。あの時、どう言った気持ちでサコが姫巫様に暴言を吐いたのか。退室する時どのような気持ちで貴女様を振り返ったのか。入り口で控えていたわたくしにはわかったのに……」
鈍器で殴られたような痛みが走る。
次の瞬間、ヤナギは外廊を一目散に走り出した。
手すりを飛び越え、西門へ急ぐ。処刑が行われるのは、決まって王宮の西門前だ。
忌み部屋という名称で呼ばれる拷問部屋がある西門前は、人でごった返していた。
御殿中、市井中から人が見物に来ているのだろう。
「通して、通して! お願い、やめて! 台王様、お願いします。サコを殺さないでっ」
悲鳴に近い声を上げながらヤナギは人ごみを掻き分けて処刑台へ進む。
姫巫にのみ赦される真象の力を使おうとしたが、心が荒立っているため上手くいかない。
自分の無力さが憎かった。
「お嬢ちゃん、もう手遅れだよ」
やっと最前列に到達した時、しなびた大きな手がヤナギの両肩を抱いた。
老人は痛々しい面持ちで頷きかけるが、とうのヤナギはそれどころではなかった。
処刑人の持つ剣がサコに振り下ろされようとしている。
声が出なかった。
ただ、手を伸ばした。全てがゆっくりと動く。
サコは、驚愕した顔でヤナギの方を見た。容赦なく剣はサコへ舞い降りる。
最期の瞬間、サコは満たされた安らかな笑顔を見せた。
大量の血液が宙に飛散する。首がころりと鞠のように落ちた。
自分にかかったその血を拭い取りもせず、制止をかける老人の声も聞かず、前へ躍り出る。
処刑人は眉をひそめた。処刑人たちが咎める声も、ざわめく見物人たちの声も、ヤナギの耳には入って来ない。
手を叩く音がした。
ヤナギは射殺さんばかりの迫力で拍手をした者を睨み据える。
「姫巫や、そなたがこの場に来るとはわしも予想外であった」
心底驚いていると言った声音で台王は口を開いた。
「だが、その付き童は、そなたが姫巫になることに頑なに反対し、あまつさえわしを愚弄したのだ。万死に値する。その者を赦せば、反逆者は次々に現れるだろう」
恨みのこもった目で躊躇いなく台王を睨みつけるヤナギには、鬼気迫る迫力があった。
さも面白げに含み笑い、台王は豊かな己の髭を撫でた。
「まあ、良い。処刑は滞りなく済んだ」
その一言で、この処刑は終わりを告げた。皆、興醒めした様子で散り散りと去って行く。
処刑人は非情にも、サコの長い髪を乱雑に掴み上げて桶の中に入れる。
(あれは、サコであってサコでない。ただの抜け殻)
必死に、ヤナギは自分に言い聞かせた。
ともすれば、処刑人に掴みかかってその骸を抱きしめたかったが、それは愚かなことでしかない。
縋り、泣いて死人が息を吹き返すというならば、迷わずサコの亡骸を抱きしめよう。
しかし、骸を抱いても体温は戻らない。
(梔子斎森に……サコも打ち捨てられるのだろうか)
高天原国に逆らった裏切り者として。
「……ごめんなさい」
気付けなかった。
うら若き采女が見たという助けを求めるサコに、ヤナギは全く気付けなかった。
ヤナギは嗚咽を洩らし、声の限り泣き叫んだ。
悲痛な叫びは真っ赤な旗と真っ赤な処刑台、そして風だけが聞いていた。
◆ ◆ ◆
静寂が包み込む霊峰、神杷山の頂に幽玄な社殿は鎮座している。
そこからは都の様子が一望出来、東門、西門、南門に囲まれた王宮もくっきりと見える。
王宮の北側に座すこの場所は都内でも有数の禁足地であるため、入れるのはその山の主神か、姫巫が赦した者だけである。
朝霧に紛れて全てはおぼろげとなり、陽光が雲海に射す。風が雲を動かし、まるで波が寄せるかの如く感じさせる。
「サコは、ヤナギ様を姫巫とするのは酷だと台王に進言しました。それが台王の逆鱗に触れないわけがない。即座に処刑が決まりましたよ。ええ、わたくしはその場におりましたから、よく覚えております。サコはこう言いました。『せめて、お元気になったヤナギ様の姿を一目見させて下さい。そうしたら、安らかに黄泉路も辿れます』と」
サコがこの世を去って早数ヶ月が経とうとしていた。その間、ヤナギは社殿より一歩も外に出なかった。
季節は刻々と過ぎ去り、穂波が大地を黄金色に満たす季節が巡って来ていた。ヤナギは、神聖で美しく、しかし温かみに欠ける雲海から視線を逸らさない。
ヤナギの後ろに立つ人物は言葉を続けた。
「何故、都より追放される予定であったわたくしを助けた。それだけの行動と発言をした、このわたくしを」
「そなたのおかげでサコの死に目に間に合ったから」
ようやく、ヤナギは後ろを振り返った。
歯を食い縛り、うら若き采女は拳を震わせている。
「姫巫などに、礼は言わない」
「いいわ。礼を言わなければならないのはこちらだもの。……そなた、いくつ? 名は?」
「――チズコ。今年九つでございます」
ヤナギは目を丸くした。九つの少女でも采女となれるなど、聞いたことがない。
少女の横顔には深い悲しみの色が差していた。
「……いい名」
「真名はお教え致しません。姫巫に真名を呼ばれたら縛られるのでしょう?」
皮肉げにチズコは片端を上げる。
ヤナギは先代の遺した神言を思い出し、気分が沈んだ。
自分は、あのような形で人を縛りたくない。
「……ねえチズコ、戦はどうすれば終わると思う?」
チズコの皮肉には返事をせず、ヤナギは出し抜けに言葉を口にした。
彼女は意味がわからないと言いたげな表情でヤナギの顔を覗き込んだ。
「わたくしにはわかり兼ねますが」
「戦は、武力でしか終わらせられないものなの?」
「姫巫様、一体どうなされたのですか。急にそのようなことを――」
「わからない、もう、わからない」
ヤナギは静かに静かに意識の海へと沈んで行く。
サコはもうこの世にいない。
唯一ヤナギの心を解き放つことができた、優しい娘。
その少女の死が、ヤナギの心を殺した。
ヤナギは、心を凍り付かせる道を選んだ。
誰も傷付かない、自分も傷付かない、ただ平らな世界。
高天原国の皆が忌み嫌う常闇へと落ちて行く。