四.
父譲りの朽葉色をした髪を頭のてっぺんで一つに結わく。
ハルセは王宮の庭で目付役とともに剣の稽古をしていた。彼の確実な剣さばきは天賦の才と誉めそやされ、鮮やかな身のこなしは神の申し子に相応しいと噂されている。
端麗な相貌はあまり多くの感情を見せない。それが都中の女たちの心を射止めた。冷たい美しさはまるで繊細な輝きを宿す宝玉だと、女たちはうっとりと声を揃えて言う。
「剣の稽古はこれまでです」
「ああ。ありがとう」
ハルセは淡々と礼を述べると剣を鞘に納める。ハルセに剣術を教える目付役の男は、ふっと微笑を洩らした。
「王子も大変ですね。次は老師より、史実の教えを受けるんでしたっけ」
ねぎらいの言葉をかける男にハルセは眉ひとつ動かさずに頷いた。
「ああ。それが終われば、軍師から軍略の教えを請うことになっている」
「……あまり無理をされないよう」
男に背を向け、まだ八つになったばかりの王子は呟いた。
「大丈夫だ。高天原国を打倒するためならばこの身一つ、火にくべることも厭いはしない」
幼子に似つかわしくない口調と言葉に男は声を詰まらせる。ハルセは男を一瞥する。
「俺は、この地上唯一の希望なのだから」
極めて冷淡に言い放った。
打倒高天原国。
それがハルセの全てと言えた。
生まれ落ちた際に占者たちから、地祗の血脈を受け継ぐ〝神の腕〟という称号を貰い受けた時、ハルセの行く末は決まったも同然だった。
高天原国に苦しめられている地上唯一の希望。何度もそう囁かれてきた。また、彼の持って生まれた武才に周囲の評価はたかまっていく一方だった。
ハルセは当然のごとく父王や官たちの期待に一心に応える。
――――ハルセ王子は国の傀儡だ! その瞳には何の希望も映っていない!
心ない言葉を浴びたことは一度や二度のことではない。たしかに、とハルセはその言葉を肯定していた。自分は傀儡かと恐怖する心も嘆く心も浮かんでこない。
ハルセには高天原国を滅ぼすことだけが心の拠り所だったのだ。目標に向かってまい進すれば、周囲はハルセを認めてくれる。自分の存在理由ができる。
高天原国を憎んでいたわけではない。ただ、幼い彼は〝神の腕〟と呼ばれることで自らの居場所を保っていた。
父はハルセを腫れ物を触るかのように扱う。母はどこかよそよそしい。だが、そんな彼らもハルセの優れた能力を目の当たりにすれば笑顔になる。
ハルセはいつしか己の感情を殺し、文武を極めることに心血を注ぐようになった。
(何も感じない。何も見えてこない。黄昏国の未来――高天原国の滅亡――。その先に、何があるというんだ)
虚ろな両目に映るのは、これまた虚ろな灰色の空だった。
深く大きな闇が広がっていた。
一寸の光も射さないそこに、ハルセは佇んでいた。
いつもと変わらない夢だとハルセは無感情にその場に座り込んだ。寒い、と呟く。その声は闇に紛れて消え失せる。
ハルセは両膝に額を乗せて目を瞑った。夢の中で目を瞑るというのもおかしな話だが、目を開いていても閉じていても映る景色は変わらないのだから構わないだろうと思った。
『――――申し子よ』
ふいに、厳かな声が頭上より降り注いだ。
驚愕して目を丸くし、ハルセは瞬時に身構える。
辺りを見回しても誰もいる気配はない。だが、たしかに声が聞こえたのだ。ハルセの喉が鳴る。
声は低く笑い声を洩らした。
『ようやく捜し当てた。愛しき申し子、何を恐れることがある。わらわの大切な寄りしろとなる子供』
心底愛おしむような声音で言葉を紡いでいるにも関わらず、その声にハルセは警戒を解くことができなかった。
「貴様は、何者だ」
返ってくる答えに見当はついていたが、訊かずにはいられなかった。
くつくつと声は笑みを深くする。声はハルセの心奥まで響き、背筋を凍らせる。
『そちは聡い子じゃ。だが、わらわは地祗ではない。海若じゃ』
「――――!」
予想外の返答にハルセは困惑を隠せなかった。海若と言えば〝神の口〟を操る姫巫を加護する神だ。
暗がりから細く白い手が何本も伸びてくる。ハルセは後ずさった。
「来るな……っ。俺は地祗の申し子だ。俺に手を出せばかの神だって黙っていない」
『…………申し子よ、そちは何も知らぬ無垢な赤子じゃな』
幾本もの白い腕はハルセの首に手をかけた。圧迫感はない。ただ、手をかけているだけ。氷のように冷たいそれに触れられた瞬間、嫌悪が体中を駆け巡った。
「触るな」
強い口調で言うと、白い手はゆるゆるとハルセから距離を持った。
声――海若は歌うように言を紡ぐ。
『可哀想に。選ぶ道があることすら知らされておらぬのじゃな』
海若に惑わされては駄目だとハルセは身を固くした。神は残酷だ。気を緩めれば魂を引きずられてしまう可能性だってある。
『〝申し子〟とは』
白い手は四方に散らばり、ハルセの逃げ場をなくす。
『ただの神をおろす器のこと。わらわたちが自在に力をふるうための寄りしろに過ぎない。神の加護など、ないのじゃ』
「そんな、馬鹿なことが……」
『神はヒトなど愛さない。わらわが姫巫に力を貸しているのも、ただの気まぐれ――暇つぶし』
ぴしゃりと海若はハルセに声を投げた。
『それにね、そちは一神だけのものではない。わらわのための器でもある』
「何を言っている。俺はれっきとした黄昏国が王子。黄昏国は古くより地祗の一族が治めてきた土地だ。海若の血脈など入り込んでいるはずがないっ」
宙に浮かぶ白い手がハルセの方へ寄ってきて、頬を撫で上げる。
『そちの母君は、わらわの国である高天原国出身じゃ。しかも、あやつは姫巫の娘。色濃くわらわの血脈を受け継いでおるわ』
初めて聴く驚愕の真実に、ハルセの額からは多量の汗が噴き出る。母の出身地など気にしたこともなかった。
白い手がハルセの体を抱きしめる。それを払いのけるにはハルセが受けた衝撃は大きすぎた。
『申し子よ、そちは地祗の恩恵もわらわの恩恵も受けられる稀なる器。そして、その何も映さない傀儡の瞳はわらわが降り立つに相応しい。さあ、その体を明け渡せ。さすれば、もう何も考えなくてよい。ただまどろみの中でそちの望む世を夢見ていればよいのじゃ』
「何も考えなくていい、と?」
『ああ。わらわにはわかる。そちの感情がこそげ落ちている様が。そのような状態で浮世を生きるのは辛かろう』
白い手は無抵抗のハルセを締めつける。骨が軋む音がする。
その時、暗闇に金色の光が射した。白い手がそれに反応してハルセから離れた。稲穂のごとく美しい光は暗闇を瞬く間に照らし出す。
『海若よ、我の領土に勝手に入り込むな』
身の凍るような冷たい声が光のかなたより聞こえてくる。
『…………はて、わらわは申し子に惹かれてここに来ただけのこと。この空間は黄昏国の領土でないはず。そちこそ、わらわの邪魔をするなど、無粋な奴じゃな』
『この御子は、黄昏国の青草だ。我の青草に手出しは許さん』
緊迫した空気の中、ハルセは俯き、笑みを零した。
『何がおかしい、申し子よ』
地祗の声に、ハルセの笑みはますます濃くなる。
ハルセは光が射し込んでくる方に真っすぐに目を向けて皮肉げに顔を歪めた。
「お前たちはただ、人々が争い合って死んでゆくさまを眺めているだけ。救ってなどくれない」
『我らはもともと青草たちを救おうという気持ちなど持ち合わせていない』
硬質な声音で地祗が言った。
ハルセは双眸を細める。
「そのくせ、気まぐれに力を与えては世を混沌とさせる。しまいには、自ら申し子の体を乗っ取り好き勝手に力を揮おうとする」
神々は何も言わなかった。それが肯定だと受け取ったハルセの瞳に、鋭利な光が宿る。刃の切っ先を思わせる光を宿した両目は、先程までのハルセと今のハルセを別人に見せる。
ハルセの根本より、何かがにじみ出す。
海若や地祗が戸惑っているのが感じ取れる。空間が歪む。
怒りや憎悪を超越した熱い感情がハルセからあふれ出した。唇を震わせて、彼は言った。
「そなたちの力など、借りない」
言霊。森羅万象の力を借りて人が行使する力。
一瞬のうちに空間は崩れ去った。目覚める間際、海のにおいと稲穂のにおいが鼻孔をくすぐった。
ハルセは夢から醒めると、視線をずらして格子ごしに外を見た。明け方の薄い水色をした空に、拯溟の花が舞っていた。
抜け殻だったハルセは、その時初めて確固たる己の意思を持って起き上がった。
昔の記憶は今も胸に重くのしかかっている。
朝露に濡れた青い稲が顔をのぞかせる太陽によって煌めいている。カガミは感慨深く溜め息を吐いた。久方ぶりに聞いた神々の名に動揺を抑えられず、サブライの家を飛び出したカガミは闇雲に走った末、田園が広がる一角に辿り着いた。
小路の脇にあった大きな石に腰かけ、たわいない朝の風景を眺め見る。
(あまり過去に浸るのはよくないな)
過去を思い出せばその時感じた想いに引き込まれてしまう。
カガミの後ろにある背の高い草むらが揺れる音で我に返った。息を殺してそちらを見ていると、現われたのは、サブライだった。
「やれ、随分捜してみれば……あまり遠くへ行ってなかったのだな」
彼は落ち着いた口調でそう言うと、カガミが座っている石の隣にある木に体を凭れかけた。
「――取り乱してしまい、すまなかった」
謝罪の言を口にするカガミに、サブライは緩く首を振って「気にするな」と答える。
「王子、もしよければ家に戻って少し話をしないか」
サブライの突然の申し出に少し驚きながらもカガミは静かに頷いた。