二.
厚い雲間から覗く微かな陽光が黄昏国を照らし出す。決して大きいとは言えない国。遥か昔、高天原国と勢力を二分した国だと史実は伝えるが、今やその面影はない。
実りの秋だというのに資源乏しく、人々は絶え間ないひもじさに膝を抱えている有り様だった。
高天原国から襲撃があるかもしれないと、地下にある黄昏国王の御所は、ここ数日慌ただしかった。
しかし、術者――高天原国で言うところの巫――は、巫力を有する者が蜘蛛の廻廊を渡る気配は感じないと断言した。
攻める暇もないのだろう、とムロは鼻を鳴らした。
高天原国の総括とも言える武官長だった彼にはわかる。近年、高天原国は敵ばかりを増やしている。そんな中、大切な武器である巫たちをおいそれと他国へやることは自殺行為である。それこそ今が好機と攻め込まれてしまうに違いない。
姫巫であるヤナギもまだ回復していないだろう。
ムロはあれほどの真象の力を使うヤナギなど、戦場であっても見たことがなかった。猛る炎は意思を持って御殿を包んでいた。並大抵の巫力では操れないはずだ。
ムロは地上へ続く石段を登り、青空市場におもむく。
青空市場は日々の暮らしが苦しい人々が少ない食料や衣類を交換したり、分け与えたりする場所だ。月に一回、国庫からも食物を出しているらしかった。助け合い暮らす黄昏国の民。だが、そうは言っても黄昏国の都より離れた地にあるムロの村では決して見ることがなかった光景だった。
豊かさは王の膝もとより広がる。遠い僻地にある村よりも都の方が潤っているのは当たり前だ。
行き交う人々の間を縫うように歩き、軒を連ねる市場の端にあった大きな石に腰かけた。どっと冷や汗が出る。頭の中心に鋭い痛みが走った。激痛に顔を歪め、膝を抱える。
「大丈夫けえ?」
行商人風の男がムロの肩を叩く。心配そうに顔を覗いてくる男からムロは視線をそらし、手を振る。
「ただの立ちくらみだ。気にするな」
「だけんど、おめえさん……えらく顔色が悪いど。土気色じゃ。目もぎらついとるし」
ムロは、あらためて男に目を向けた。男が手に持っている荷物から、すり潰した薬草独特の臭いが漂ってくる。
「――――薬師か」
ムロの言葉に男は大きく頷いた。
「んだ。どれ、薬草を煎じてやるべ」
「いや、いい。気持ちだけで十分だ」
「無理は禁物じゃ。心配しねえでも、金なんてとりゃせん。ただ、黄昏国が豊かになった時に生きとってくれたらいいけえ」
男の笑顔にムロは面食らった。
「…………お前は、無償で薬草を与えているのか?」
「そうじゃ。わしは人の笑顔をみたい一心で薬師をしとる。だけん、おめえさんも――」
ムロは薬草が詰まった麻袋に手を伸ばす男の腕を取った。そして、力なく首を横に振る。
「せっかく煎じてもらっても、無駄になる。俺のこの頭痛は――――」
地上に広がる市場の雑踏の中。
ムロの唇が動く。男の瞳孔が開いた。
ムロはふらつく足を奮い立たせてその場から去る。男はそれ以上、何も言ってこなかった。
カガミは高天原国潜入中にヤサカニが作成した地図と、バショウたちが作成した地図を照らし合わせて高天原国の盲点を探していた。
「カガミ様、やはりここはこの前使った蜘蛛の廻廊を使うのが一番かと思います」
ルイの意見にバショウが渋い顔をする。
「あの廻廊を使うのは賛成しかねる」
「でも、あまり目立たないように入国しないと。ただでさえ兵力が削がれたらたまらないでしょう?」
反論するルイにバショウは言葉を返す。
「行きのようなことがまた起こらないとも言えない。帰りは運が良かっただけかもしれない」
皆、その可能性に閉口した。
三年前、カガミたちがあの蜘蛛の廻廊に入ってからしばらく進んだ時のことだ。急に激流がカガミたちを襲った。油断していたわけではないが、逃げ道などない洞窟内。死に物狂いで逃げる他なかった。その際、多くの仲間が死んだ。逃げおおせることができたのは、今この場にいるバショウたちだけだった。
『高天原国へ続く一本道。……カガミ様、途中に森羅万象の悲しみと怒りを感じます。激しく、深い』
マチがそう言っていたにも関わらずカガミは弛まず進めと指示を出した。結果、出さなくて良かった犠牲を出してしまったのだ。
カガミは早く高天原国へ行かなければと気が急いていた。だが、それを言い訳にしたくなかった。今も夢に見る。悪夢のようなあの出来事を。
(森羅万象……神の力、か)
カガミは短く切った自分の後ろ髪をもてあそんだ。
(いっそ、神などいなくなってしまえばいいものを)
心の深部にある思いを浮かべた。
ふと、側近や女官たちが観音扉のところで何やら騒いでいるのが目に入った。何事かと思えば、側近たちを押し退けてムロが姿を現す。
「何を話し合っているんだ」
ムロは威風堂々と協議の間へ入ってきた。板で覆われた床は彼が歩く度に鳴る。ムロは無遠慮にカガミの横に腰を下ろした。
慌てて女官たちが駆けてきた。彼女たちは平伏して謝罪の言葉を口にする。
「たいへん申し訳ございません。大切な話し合いだとお止めしたのですが、聞き入れてもらいませんでした」
「かまいません。ムロにも意見を聞きたいと思っていたところだったから、ちょうど良かった。あなたがたは下がっていて下され」
「は、はい」
ユウラクの優しげな言い方に女官たちはあからさまに安堵の表情を見せた。彼女たちは深く一礼をし、場を下がった。
「高天原国を攻め落としたいのならば、駛嵋門を攻め落として南門から御殿へ入れ」
ムロは開口一番に言った。何の話し合いをしているのか、彼は広げられた高天原国の地図を見てすぐに理解してくれたらしい。
「要は真正面から行けということか」
ユウラクは面白そうに顎ひげをさする。
ムロは指先でぐるりと都を囲んだ。
「北にある梔子齋森は守りが手薄だ。難点は森の主神がいること。敵意を持って森へ立ち入ればただじゃ済まない。東にはお前たちが逃げ出した不開の門がある。今回の件で警護が更に強化されていることは必定。西から攻め込むのはやめておいた方が身のためだ」
「何で西は駄目なのよ」
食ってかかってくるルイをムロは軽くいなす。
「俺が育てた兵たちだ。並大抵の武力では太刀打ちできない。できうる限り、戦闘は回避した方がいいだろう」
ルイは不服そうに顔を歪めたが、カガミはムロの考えに同調を覚えた。西門兵は強い。いくらカガミでも、多勢に無勢であれば命を落とすかもしれないほどの実力を西門兵たちは持っている。
「しかし、高天原国は圧倒的に力と数が勝っている。正面からぶつかれば、弾き返されるんじゃないか?」
カガミの言葉にムロは口を一文字に引き結ぶ。
「……ヤサカニ様を……」
ヤサカニの名を出したバショウに皆の視線がいっぺんに集まる。
「ヤサカニ様を頼ってはいかがでしょうか。あの方ならば、何か良い策を練ってくれるかと。高天原国にいることですし、きっと、入り込むための手引きをしてくれるはずです」
バショウの瞳が揺れる。本人も危険な賭けだと気づいているのだ。
「駄目だ」
ばっさりとバショウの考えを否定したのは、カガミでもムロでもない。マチだった。
マチが否定するとは思っていなかったのか、バショウは怪訝な顔をする。
マチは目を瞑った。
「ヤサカニの心は今、稲穂の如くたおやかに揺れ動いている。忌み部屋で姫巫にすがり泣いたヤサカニを見た瞬間、わたしには彼の心が痛いほど伝わった。ヤサカニは迷っている。迷いある者を仲間に引き入れると、必ず内部の分裂を生む」
「……ああ、そのとおりだ。二重間者となる可能性も捨て切れない」
ムロがマチに同意を示す。
バショウが悲しげに目を伏せ、膝の上に置いた両手をかたく握りしめたのを、カガミは見逃さなかった。
「迷い霧晴れれば、ヤサカニもこちらへ戻ってくる。そう落ち込むな」
カガミは穏やかにバショウへ言葉を紡いだ。バショウは小さく、はい、と返事をした。
「ところで、どの蜘蛛の廻廊を使うかなんですが……」
ルイは後ろから黄昏国周辺の地図を取り出して皆に提示した。
「この際、精鋭部隊を全ての廻廊へ分散させるというのはどうでしょうか」
皆、ルイの作戦に興味を持った。
彼女の言いたいことはこうだった。一つの蜘蛛の廻廊に兵を集中させると、いつぞやのように全滅寸前まで追い込まれる確率が高くなる。ならば、兵を分散させた方が良い。ルイはそう考えたようだった。この方法であればほぼ同時刻に蜘蛛の廻廊を守る衛兵を叩けるので帰りが楽だ。そのかわり、これを実行するためにはどの部隊にも必ず最低一人、腕の立つ者がいることが必須条件となる。
蜘蛛の廻廊は全部で五つ。カガミたちの使った、衛兵がついていない廻廊を除くと四つである。昔はもっとあったというが、戦火や歳月によって風化してしまったらしい。
四つであれば、カガミたちが別々に行動すれば何とかなるとの結論に達した。
「あとは、敵に不幸が起こることを祈るばかりじゃ」
笑顔で言うユウラクにカガミたちは苦笑を洩らした。
「やけに楽しそうだな」
暗鬱げな声が広間に響いた。皆の視線が声の主へ向く。
初老に近い年齢の男は、豪奢な装束を身にまとい、カガミたちがいる場所まで近寄ってきた。カガミに似た容貌をしている彼は、朽葉色のうつろな瞳にカガミたちを映す。
カガミとムロを除く全員が素早く身を伏す。
「……誰だ?」
ムロは小声でカガミに耳打ちした。
「俺の父だ」
言葉少なに答えを呈す。ムロの目が丸くなる。
大方、作戦内容を聞こうとふらりと立ち寄ったのだろう。
カガミの父親――黄昏国王の目が、ひたとムロに止まる。ムロの肩が微かに震えた。
黄昏国王の瞳に驚きが走る。
「マコ」
「何故、母の名を……」
戦慄を覚えた表情で、ムロが呟く。
「そなた、マコの息子か?」
ムロは強張った顔で深く頷く。
黄昏国王の表情が和らいだ。
「無事で何よりだ……」
黄昏国王が一歩ムロに近づく。ムロはそれに合わせて半歩下がった。
ムロの顔色が白くなっていく。こめかみには冷や汗が伝っている。異様なムロの様子にカガミは声をかけようとしたが、それは黄昏国王がムロを抱きしめたことにより阻まれた。
場にいる者全てが凍りついた。
王の目に涙が光っている。
「マコには、そなたは死んだと聞いていた。きっと、今までつらい思いをしたことだろう。許してくれとは言わない。恨んでいてくれて構わない。ただ……そなたが生きていてくれてよかった」
深い愛情を感じる言葉。カガミには向けられたことのない温かさ。カガミは思わず声をなくした。
ムロも思いもよらない展開に呆けている。
「――……父上、ムロを知っているのですか」
波立つ心を無理矢理押さえつけて尋ねた。
黄昏国王はようやくムロを解放すると、彼に穏やかな笑みを向けた。ムロは顔をそらす。
「ムロと言うのか。マコはいい名をつけたな」
黄昏国王はあらためてカガミに向き直った。
「カガミ、ムロはそなたの異母弟だ」
「嘘をつくな!」
耳をつんざくような悲痛な叫びが上がった。
ムロは、ふらふらと後退して壁にもたれかかる。肩で息をしながら力強い視線を黄昏国王とカガミへ向ける。
「嘘ではない」
静かに、しかし威厳ある口調で黄昏国王は言い切った。
「……そんな……。では何故、母さんは……兵たちの娼婦に……」
ムロが衝撃に打ちひしがれているのは一目瞭然だった。彼は力なく座り込んだ。ムロの顔は有り得ないほどに青白くなっている。
カガミはムロを立ち上がらせようと肩を持とうとするが、弾かれた。
「触るな! …………っ」
言った瞬間、ムロの体が傾いだ。そのまま、彼は動くことをやめた。
「ムロ――――おい、しっかりしろ」
呼びかけても返事はない。カガミはムロの体を強く揺さぶる。反応は返ってこない。
異常を察したバショウたちは頭を上げて急ぎムロを取り囲んだ。
ムロの口もとに指を当てたマチは扉の前に控えていた女官たちへ指示を飛ばす。
「まだ息はある! 早く医師と薬師を!」
「ムロ、ムロ。しっかりしろ。目を開けておくれ」
黄昏国王が涙目でムロを抱きしめる。
カガミは床に散るムロの長い髪を見ながら、しばし呆然としていた。