一.
蜘蛛の廻廊。それは高天原国と他の国々を繋ぐ唯一の洞窟である。中は大蛇が這った跡のようにうねっている。
カガミたちは蜘蛛の廻廊を隠している祠を力いっぱい横に押した。踏ん張る足もとの地面がえぐれる。額に汗が浮かんだ。少しずつ、祠が軋む音を立てながら動き出した。やがて、蜘蛛の廻廊の入り口が現れた。それは人の泣き声に似た風の音を吐き出している。生ぬるい風がカガミの頬を撫でる。
「入るぞ」
カガミはそう言って真っ先に蜘蛛の廻廊へ入って行った。あとにムロ、バショウらと続く。
湿気を含んだ洞窟内は自ら発光している植物たちによってほのかに明るい。三年前、この蜘蛛の廻廊を訪れた時のことを朧げながら思い出す。高天原国内にいた時はさっぱり忘れていた風景だ。
「……いきなり記憶がよみがえってくるだろう。忌々しいことだ」
カガミの横を仏頂面で歩きながらムロは口を開いた。彼は顔にかかる髪を鬱陶しげに払う。
「蜘蛛の廻廊は何度通っても心を苛立たせる」
「……そうか。お前は戦で何度も蜘蛛の廻廊を通ったんだな」
カガミの言葉にムロは頷く。彼はちらりとカガミを横目見た。
「お前は、三年前が初めてだったのか?」
「ああ。各国を高天原国から守るために遠征は行なっていたが、実際に高天原国へ足を踏み入れたのは初めてだった」
「……意外だな」
ムロは目を丸くした。いつもは大人びて見える切れ長の目が少年の色を垣間見せる。
そんなムロにカガミは苦笑する。
「黄昏国は今や亡国寸前。高天原国へ攻め込むほどの余力は残っていない」
「なるほど」
ふと、ムロは後ろを振り向いた。つられてカガミも振り返る。
「――……ムロ、休憩を取ろう」
「ああ」
二人の後ろで、バショウたちが息も絶え絶えに座り込んでいた。
洞窟内で火を起こすわけにはいかない。狭い空間で火を焚けば、空気が薄まってしまう。
幸いなことに蜘蛛の廻廊内は微風が吹いているだけで寒さはない。
カガミたちは洞窟内でも少し開けた場所で休むことにした。おのおの常備食を頬張ったり、好きなことをしている。
岩肌を伝う水を調べたマチは、飲んでも全く問題ないとカガミに報告する。マチは自然界のありとあらゆるものに精通している。彼が言うなら間違いない。
カガミは少し離れたところからぐるりと仲間たちに目をやった。こうしてあらためて見てみると、そうそうたる者たちが生き残ったなと思わずにいられない。
ムロ、ルイ、バショウ、マチ、そしてユウラク。
この中でただ一人女であるルイは、自ら志願して今回の任務を引き受けた。彼女は己の血や持ち物を使った毒使いである。昔は数多いたという毒使いは減少傾向にあるため、ルイはたいへん貴重な存在だった。自分自身で染めたのだろう、黒と薄茶色のまだらになった髪は短い。それは少々跳ねており、本人の奔放な性格を如実に物語っている。彼女は蜜色をした瞳を輝かせて意気揚々と喋り、皆の中心で豪快に笑う。額に残った裂傷が痛々しい。
黙々と弓の手入れをしているバショウは、黄昏国一の弓使いである。遠く揺らぐ炎でさえ打ち抜くと言われる彼の腕前はカガミも認めている。常人外れた視力を持つバショウを早見にやった戦は、必ず先に仕かけることができた。そんな彼の左目は今、包帯で覆われている。視力が戻らないのだ。連日の拷問で目を中心に殴られたせいだった。バショウは栗毛の柔らかい肩まである髪を垂らしている。たしかようやく齢十五を超えたばかりだと記憶している。成長過程にある小柄な体つき。まだ幼さの残る面差しは何も語らない。
マチは緊迫感のない笑顔で竹筒に入れた湧き水を飲んでいる。ルイの話に合わせながら、坊主頭の彼は身ぶりてぶりで調子を取る。もとは鎮守の森に住まう民であったマチを今回の作戦にひきいれたのはヤサカニだった。森の民は多くの叡知を有しており、それは役立つはずだとヤサカニは言った。はたして、彼の言ったとおりマチはカガミたちに道を示してくれた。蜘蛛の廻廊内で迷うカガミたちをマチは導いた。彼には森羅万象を読み取る力があった。俗世に馴染んでいないからこその力だ。屈強な大男のマチは剛腕の持ち主でもある。接近戦で彼に敵う者はあまりいないだろう。忌み部屋へマチが入れられた時も、最も大がかりな兵を編成してようやく捕らえたらしいことを兵たちがぼやいているのをカガミは耳にしていた。
仲間の中で最年長のユウラクはゆったりと胡座をかいて酒をあおっている。何故酒を持っているのかというのは愚問だろう。彼は酔拳の使い手だと聞き及ぶ。ユウラクに関してはカガミでさえあまり情報を持ち得ない。わかっているのは、カガミに武術を教えてくれた者の師であることぐらいだ。ユウラクは骨と皮だけと形容できるくらいに痩せており猫背で、口ひげをたくわえているため老人に見られがちだが、まだ三十八なのだと前にルイから聞かされた時は仰天したものだ。
「……馬鹿なっ」
「あら、あんた黄昏国出身のくせに知らないの?」
何やらムロとルイが言い争いをしている。
「どうしたんだ?」
すみの方にある小さな岩に腰かけていたバショウに訊くと、彼は困ったように首をかしげる。
「ルイの奴がムロにつっかかったようです」
すい、とルイがカガミたちの方に目を向けた。彼女は腕を組んで胸を張る。
「あら、つっかかったなんて人聞きの悪い。ただ、何も知らない高天原国の武官長様に知識を分けてあげていただけよ。高天原国以外は地上にあるんだってね」
ああ、とカガミはようやく合点がいった。ルイは黄昏国やその他の国々で云われていることをそのままムロへ伝えたのだ。
高天原国は天上にあるまやかしの国だと。
それが、高天原国――いや、ヤナギに心酔しているムロの逆鱗に触れるのは至極当然である。
「たわけが……っ」
ムロの双眸に危険な色が灯る。彼は背負っている槍に手をかける。
ルイは鼻を鳴らした。
「ルイ、よせ。ムロ、お前もだ。そう易々と挑発に乗ってどうする」
カガミの諫言に両者は黙り込んだ。二人は互いに睨み合い、やがて顔を背けた。
「カガミ、休憩はもう十分だろう……。ここにいる奴らと違って俺にはゆっくりしている暇はない」
「あたしらを侮辱する気? 小生意気な坊やだこと。あんたみたいな子供が武官長になれるなんて、高天原国も兵力不足だね」
「やかましいわっ」
どうやら、ムロとルイはそりが合わないらしい。彼らは言い合いながら先へ先へ進んで行く。道筋を知っているのはマチだけである。マチはムロとルイが間違った方角へ行かないように慌てて後を追う。
カガミは嘆息した。
「やれやれ、これだから血気盛んな若いもんは」
そう言って、ひょっこりとユウラクがカガミの右横に並ぶ。ユウラクは柔和な顔を綻ばせて左端を歩くバショウに目をやる。その視線を受けてバショウは戸惑ったのか瞬きをした。
「そなたは冷静だな」
「――いえ。わたしは、あまり喋らないだけです」
カガミはそんなバショウの様子に目を細める。
「ヤサカニのことを気にしているんだろう」
バショウが息を呑むのがわかった。
ユウラクの表情も曇る。
ここ数日、高天原国の都から逃げ出して以来、誰もが頑なにヤサカニの話題を避けていた。
ヤサカニはヤナギが炎の中に倒れ込んだのを見た瞬間、剣も何もかもその場にかなぐり捨てて彼女のもとへ駆けて行ったのだ。
『いけない、ヤサカニ様!』
バショウが手を伸ばしたが、ヤサカニには届かなかった。
あの時、ヤサカニを連れ戻しに行く時間は彼らには残されていなかった。
ヤサカニの行動は許されることではない。しかし、誰も彼のことを責めなかった。それはひとえに、彼の人望が厚かったからに他ならない。ヤサカニを悪く言う者など黄昏国軍にはいない。彼がひねり出した策のどれもが黄昏国軍を守ってきた。常に最善な布陣を敷き、地の利を活かした戦い方を考え出すヤサカニに一目置いている者は少なくなかった。
バショウは特にヤサカニから可愛がられていたから、気を揉むのは仕方ないことだった。頭が回り腕も立つバショウを一般兵から見いだしたのはヤサカニだった。バショウを見つけた時にヤサカニは意気揚々とカガミに言った。
『バショウは絶対に俺のあとを継げます――いえ、俺などすぐに超えてしまうに違いない』
と。
ヤサカニがそこまで手放しで誉め称えたのは後にも先にもバショウ一人だった。
カガミは立ち止まって俯いてしまったバショウの頭を軽く叩く。
「大丈夫だ、ヤサカニは無事帰ってくる。きっと」
「カガミ様。…………はい」
小さく蚊の鳴くような声でバショウが返事をする。少しだけバショウの顔が明るくなる。
カガミは彼から目をそらした。同様にユウラクも視線を前に向けた。
カガミは見てしまった。ユウラクもきっと、見てしまったに違いない。
ヤサカニのあの瞳。
命を賭けて誰かを守ろうとする者だけが見せる、瞳の色。
(だから忠告してやったのに。お前が聞き分けないからだ)
心の中でヤサカニに毒づく。
ヤサカニは戻ってこない。高天原国がムロを喪ったように、カガミたち黄昏国もヤサカニを喪ったのだ。
一ヶ月かけてろくに眠りもせずに歩き続けた先に広がっていたのは、南卯国であった。西の大国でヤサカニの生まれ故郷でもある。
そこからの道中がまた長かった。仲間たちが負った傷も癒える頃――三ヶ月かけて、ようやく黄昏国に到着する。
「これは――……」
ムロは、あまりの様子に絶句した。
ムロが言葉をなくすのも無理はない。
都だというのに王宮がない。それどころか、何もない。ただ焼けた大地が広がっている。自然の囁きさえ息を潜め、渇いた砂を含んだ風が頬をかすめる。
緑のない大地。澱んだ空。疲弊した人々。
ムロは愕然とした顔でそれらを見つめていた。
「荒廃が進んでいる」
顎ひげを撫でながら、険しい口調でマチは呟いた。
マチの呟きに一同は頷く。
もう後戻りは出来なかった。これ以上、黄昏国を腐らせないためにも。必ず高天原国との戦の火蓋を切って落とす。そうカガミは重く心に刻んだ。
「ああっ、ようやく…………! お帰りなさいませ!」
「ああ、こんなに汚れてしまって……すぐに着替えをお持ち致します」
カガミたちの帰りを女官たちが慌ただしく出迎えてくれた。地下へ潜っていた大勢の家臣たちは顔を合わす度に傅く。
戦火を逃れるために黄昏国のとった苦肉の策が、この地下だった。地下に居住地を造るのには膨大な人と時間を要したが、何とか完成したようだ。土を削り、石で固めて間を粘土で埋める。官吏たちは国を守るために必死でこの居住地を造り上げた。もともとヤサカニが考案したものだったが、ほぼ完成しているのにはカガミも驚きを隠せなかった。
「カガミ様、見てくださいませ。皆で力を合わせて造りあげたのでございます。カガミ様とヤサカニ様が帰還された暁には成果をご報告しようと思い、懸命に土堀りに励みました。……ヤサカニ様は、ご一緒ではないのですか?」
真っ直ぐな官吏に対してカガミは返事に窮した。
「ヤサカニ様はとある事情で高天原国に残っておられる。しかし、おまえたちの努力をヤサカニ様は喜んでくれるはずだ」
カガミの代わりにバショウが答えてくれた。
ムロは冷ややかな眼差しでそのやり取りを聞いていた。
カガミたちは広間に通された。そこには大勢の官吏や下働きたちが集まっていた。皆、カガミたちの帰還を祝して酒をあおっている。ざっくばらんな雰囲気の宴は久方ぶりだとカガミは笑みをこぼす。高天原国では形式ばった宴が多かったのでなおさら懐かしく感じた。
「お帰りなさいませ、カガミ様」
誰しも〝カガミ〟と呼んでいた。
「……〝ハルセ〟と誰も呼ばないのは何故だ」
ムロの疑問にカガミは答える。
「〝ハルセ〟では国を救えない」
ハルセは王子の名。高天原国から国々を救う兵の名は、カガミ。
カガミは口許を歪めた。
「――王子であったが故に、諦めなければならなかった大切なものがあった」
そう、かけがえのないものをカガミは〝ハルセ〟であったがために諦めた。
「もう後悔などしたくない」
一語一句を噛みしめるように言うカガミを、ムロは強い光を宿した瞳で見据える。
「俺がお前たちについて来たのは、ヤナギ様がため」
彼はそう言い切った。
「ヤナギ様を縛っている高天原国を滅ぼせるのはお前だけだとは俺は判断した。だから俺は、お前に――高天原国を滅ぼす者、カガミに力を貸そう」
「ムロ……」
計り知れない痛みを内包して、ムロは力強く頷く。高天原国を裏切ると決断した時、どれだけムロが苦しかったかをカガミに知る術はない。
いつ何時も誇りを失わない気高き眼光がカガミを後押しした。
カガミは拳を握りしめ、広間の中央部に進み出た。空気が一本の線を張ったように研ぎ澄まされる。
華鵞彌は中央に揺れる松明の炎の前にヤナギから渡された月水鏡剣をかざした。そしてその剣をうしろ髪に当てて勢いよく断髪し、その髪を火にくべる。
臣下たちが、あっと声を洩らす。広間のすみに控えていたムロもバショウもルイも、誰もが固唾を呑んでカガミの髪が灰と化す様を見守っていた。上座にいた父王さえ椅子から立ち上がってよろめく。
断髪の儀。黄昏国でそれは悲願成就の意味合いを持ち、志折れれば自らの死を以って贖うという意味が込められている。
「高天原国の存在におびえ、うずくまる。そのような生ぬるい日々はもう終わりだ」
明朗な声が広間に木霊す。
「高天原国の内情は掴めた。我らが同胞の死を、無駄にするなよ」
その言葉に皆は深く頭を垂れて、腹の底より大音声の返事を上げた。
こうして、黄昏国は高天原国に反旗を翻した。