五.
目がくらんだ。
清められていない御殿内で姫巫の力を使う愚かさは重々承知の上でのことだったが、さすがに巫力を使いすぎた。
ついに御殿を燃やす炎の支配権はヤナギの手から離れた。自在に勢力を伸ばしていく猛る炎。ヤナギのいる場所も段々と煙に巻かれていく。
呼吸が苦しくなる。
そんなヤナギを何かが包み込んだ。
目を見張り、霞む視界にそのものの正体を映す。それはヤナギを炎や煙から守るように抱き込んだ。
「ヤナギ様、お気をたしかに」
ヤナギは信じられなかった。ヤサカニが自分を守ろうとしている。
どうして、と問う暇など今はない。ヤナギはヤサカニの腕を強引に払った。ぼやけた思考を覚醒させるためにゆるく頭を振る。
「情けなどいらない。早く逃げなさい」
「そんなわけには……」
なおも差し伸べてくるヤサカニの手を、ヤナギは拒否する。その間にも炎の被害は広がっていく。
ヤサカニは頑ななヤナギの様子を傍らで見ていたが、やがて深く息を吸い込んだ。
「シュマ」
彼はそう口にした。
ヤナギは眉を寄せた。
「俺の真名です。姫巫は真名で人を縛れると聞きました。さあ、俺を縛るといい」
かっとヤナギの頬に朱が差す。
ヤサカニは覚悟を決めた様子でヤナギに頭を垂れている。その姿は先代姫巫に皆がかしずいていたさまに酷似していた。
「私は……っ。私は、人を縛ったことなどない!」
真名など口にすることさえおぞましく、背筋に悪寒が走る。
ヤサカニは聞き分けのない子供に言うようにヤナギに目線を合わせてきた。
「ヤナギ様、縛られた人間は主の言うことを絶対に反故にできない。主を守るためなら実力以上の力をも発揮出来ると聞いた。それなら、この火の海だって無傷で抜けられるかもしれない」
「嫌よ、絶対に嫌」
拒絶しなければならない、とヤナギの心が叫ぶ。自身が先代姫巫に真名で縛られているからこそわかる。傀儡ほどつらいものはない。
柱の軋む音がする。それと同時に、後ろから鋭い殺気を感じた。
「姫巫、覚悟!」
剣を振りかざした兵は、まっすぐにヤナギの方へ向かってきた。
ヤナギは応戦しようと懐に隠し持っていた小刀を握るが、それを使うよりヤサカニの動きが俊敏だった。彼は足下に落ちていた木片を手に取り、兵の剣をはばむ。
「何をする!」
ヤサカニの怒号に怯むことなく、兵士はヤサカニにかばわれ座り込んでいるヤナギに冷たい視線を送った。
「やはり、裏切ったな。どうせ、高天原国の懐刀という地位にあきあきしていたのだろう」
紅い布を腰に巻いているところを見るかぎり、南門兵なのは間違いない。西門は蒼、南門は緋、東門は翠と色で分けられている。
兵の後ろから幾人かの兵がやって来て、ヤナギたちの様子を見て目を細めた。その瞳には疑心がなみなみとあふれている。
「貴様が地下の国々の者に同情していたことは知っていたが、まさか結託していようとはな」
「違う! お前たちは何か勘違いをしている」
兵たちの弁を必死に否定するヤサカニだったが、そのさまはまるでそれが事実だと告げているように聞こえた。
「今更弁解など誰が聞くものか。覚悟!」
ヤナギは何とか壁を支えにして立ち上がったが、己の体と精神の限界を感じた。
ヤナギの目の前で、ヤサカニは木片を手に戦っている。何故、彼が自分のためにここまでしてくれるかわからなかった。
(私を……姫巫を憎んでいたのではなかったの?)
疑問が胸に浮かんでは消える。
兵の強固な剣がついにヤサカニが使っていた木片を折った。ヤサカニは片手をつき、素早くヤナギを小脇に抱えて兵たちの剣から逃れようと後ずさる。しかし炎の壁にはばまれ、もう下がれないところまで追い詰められてしまった。ヤサカニのこめかみに汗が伝うのをヤナギは見た。
ヤナギは力を使おうと唇を震わせてみるが、出るのはか細く洩れる息だけだった。
もはやこれまでとヤナギもヤサカニも覚悟を決めた瞬間、ヤナギたちの前に白い装束の女が立ちはだかった。
ヤナギの顔が恐怖に満ちる。
「チズコ! 何を……早く逃げなさい!」
女――チズコはちらりとヤナギを見、すぐに兵たちの方へ向き直る。か細い彼女から今は多大な闘志を感じる。
「わたくしはヤナギ様の采女。どうして貴女を置いて逃げられましょうか」
そう言ってチズコは果敢にも小刀を手に兵たちの前に進み出た。
「お願い、やめて……お願い……」
ヤナギの瞳から涙が零れた。いくら巫の修行を積んだチズコであっても、容赦なく攻撃されれば言霊を編むことができない。彼女は重い一太刀をどうにか受け止め、苦痛に顔を歪ませた。多勢に無勢とはこのことだ。
刃と刃がぶつかるかん高い音が何度か響いた。
驚きたじろいでいた兵たちもようやく平静を取り戻したのか、チズコの手首を叩いて小刀を払った。それに気をとられてチズコの注意力が微かにぶれる。
「チズコ、後ろだっ」
ヤサカニの注意は一歩遅かった。
ヤナギの視界が赤一色と化す。
チズコの背を切り裂いた兵が悪鬼に見えた。悪鬼は舌なめずりしながら笑った。
ヤナギの喉がひくつく。
チズコは倒れ伏した。
「チズコ――――――っ!」
もう二度と見たくなかった。できるならば、絶対に視界に映したくなかった。
大切なひとが殺される瞬間。
ヤナギは自分がチズコの名を絶叫していることを自覚していなかった。ただ、サコを喪った時と同じ無力感に囚われていた。双眸から色彩が消える。
「うう」
「がっ」
次々に兵たちが倒れた。兵たちは転げ回って悶え苦しみ、やがて動かなくなった。
すかさずヤサカニは彼らに近寄り、首筋に手を添えて脈拍をとる。
「……死んでいます。チズコの、呪いです」
チズコは自分の血に呪いをかけていたのだ。事前に巫力を編んでいたのだろう。身を犠牲にした、呪い。
ヤナギは呆然としたまま、チズコのそばまで這い寄る。
チズコはうっすらと目を開け、淡く微笑んだ。そして、ヤナギに向かって血に濡れた手を伸ばす。その手を取った刹那、彼女は息絶えた。
「いや、いや」
言葉がうまく発音できない。
ヤナギの絶叫を聞き及んだのだろう。兵たちが集まり出す。それはいずれも緋の布を身につけていた。
ヤサカニは瞬きもせずにチズコを見つめるヤナギの肩に手をかけ、自分の方へ無理矢理顔を向かせる。
「ヤナギ様、兵たちが集まってきた。さあ、早く」
――もう、サコがいなくなってからずっとヤナギを守ってきたチズコはいない。
返事をしないヤナギにヤサカニは語気を強めて言った。
「俺を真名で縛れ! チズコを無駄死にさせる気かっ」
ヤサカニはヤナギに自分を縛れと命じる。ヤナギは、涙ながらに唇を動かした。
「シュマ」
と。縛りの言葉はヤナギの心をえぐる。遠く、先代の嗤う声が聞こえた。
その瞬間、ヤサカニの目の色が変わった。
しばしの間、身動ぎ一つしなかったムロであったが、人々の大声や足音に意識を覚醒させる。
彼は、瞑目して胸の前で拳を握った。
「ヤナギ様の、願い――」
「ムロ武官長、ちょうどいいところに……っ。忌み部屋に入れていた者たちが脱走しました!」
駆け寄ってくる西門兵の声が遠い。
ムロは、決意を固めて双眸を開けた。彼は集まってくる西門兵らをすり抜け、カガミたちが逃げ出すつもりであろう渓谷に続く東門へと駆け出した。
火の海はしぶきをあげて御殿を包み込んでいる。その光景に息を呑みながら、いったん南門前を通って東門前へ急ぐ。
途中、皆ムロの名を呼んだが目もくれなかった。ようやく東門へ辿り着く。
東門は不開の門という別称も持っている。それほど守りは強固で、厚かった。死者の弔いをするために石櫃峠へ行く時だけが東門の開錠が許される時。その他では決して開かない門。
いつもは静寂に沈んでいる東門は数多の兵で蒸せ返っていた。その中央に目をやれば、幾人かが取り囲まれているのが見てとれる。
カガミたちだ、と牟呂は即座に判断を下した。
ムロは背負っていた槍を構え、一気に集団へなだれ込んだ。
予期せぬムロの参戦に兵たちは一人、また一人と崩れ落ちる。したたる血で目が霞む。ムロは乱雑に腕で血を拭うと、また槍を振るう。
そのさまは風のようで、のちにそれを讃えた歌が詠まれたほどだった。
屍と怪我人で鉄の臭いが辺りに立ち込める。
「ムロ……」
目を丸くして自分を見てくるカガミをムロは睨みつけた。
「誤解するな。これは、ヤナギ様のためであって牟呂の意思ではない」
「ムロ武官長……っ。 あなたが、裏切るか……」
「姫巫様がどれほどお嘆きになることか」
息も絶え絶えの兵たちの咎め立てにムロは敏感に反応した。
「黙れ! 台王の袖に隠れて蜜をすする愚官共に言われる筋合いはないわ!」
ムロにはわかっていた。東門前にいる者たちは誰しも兵の役割をきちんと果たしている者ではなかった。鍛錬を怠り、遊びに興じる。そんな者たちばかりだった。だからこそ、大人数であるにも関わらず、ムロ一人にここまで圧倒されたのだ。
ムロはなおも群がってくる兵たちを打ち倒しながら、カガミたちの方を見やる。今なら兵たちの注意がカガミたちからそがれている。
ムロの合図に気づいたカガミは皆を連れて不開の門戸の閂を外す。
それを見届けて、ムロは一気に兵たちを薙ぎ払った。
つかの間の静寂。
カガミたちが逃げるのを見ていたムロに、カガミは「来い」と声をかけた。
ムロは目をみはった。
カガミは皆を先に門より脱出させ、ムロが来るのを待っている。彼は余計なことは一切言わずに佇んでいる。
ほんの数秒。その間にさまざまなことがムロの脳裏をかすめていった。
――――『救って、神などいらないの。姫巫の呪から私を解放して』と。そう私は願っていた。
あれこそヤナギの魂の叫びだと、カガミならその願いを叶えられるのだと、自身に言い聞かせてムロは首を縦に振った。そして、腰に差していた高天原国の護り手の証である宝剣を、そっと積み上がった屍の横に置いた。
「わかった、行こう」
ムロの言葉とほぼ同時に追っ手が矢を放った。それをムロとカガミはかわし、仲間とともに峡谷の道を駆けた。
ムロには彼らがどこへ行こうとしているのか大方見当がついていた。
蜘蛛の廻廊だ。
峡谷を抜けたあと、山を一つ抜けると蜘蛛の廻廊がある。そこにある廻廊は特殊で、一見御神体の奉られた祠にしか見えない。
三日かけて蜘蛛の廻廊まで辿り着いた一行は、誰一人欠けずにここまで辿り着いたことを喜びあった。
誰もヤサカニの話をしないところを見る限り、話題を出さない方がいいと思ったムロは少し皆から距離を置いた岩の上で糒を食いちぎった。
近くを流れる小川から汲んだ水でのどを潤す。
自分たちがここにいると追っ手に気づかせないように、この三日間いっさい火を焚いていない。
高天原国の追っ手や闇者は甘すぎる。ムロが追っ手の役目をもらったら、きっと二日でこの手負い集団など引っ捕らえただろう。
怪我人を抱えている者たちが街道に出るわけがないのだ。それならば、山道を隠れながら進むと容易に考えられるはずだ。
(まあ、そこまで頭の回る者がいなかったのを幸いと思うか)
そう思いながら水をあおるように飲み干すムロの横にカガミが腰かけた。
彼は黙ったまま、高天原国の都を眺める。それにならってムロも都を眺望した。
「お前は、一体何者なんだ」
ムロは最大の疑問をカガミへぶつける。この数日で、他の者たちがカガミへ示す態度は、打倒高天原国の〝同志〟という一言でくくれないことにムロは気づいていた。皆、カガミを様づけで呼んでいる。思えば、ヤサカニもカガミを様づけで呼んでいたなと思った。
カガミは皮肉げに笑んだ。
「……我が名はハルセ。黄昏国が王位継承権第一位を有する者」
そう言い切った彼の雰囲気は、誰も寄せつけないものがあった。明け初める空が彼の横顔を照らす。
ムロは言葉を失った。