一.
響くは始まりと終わりを告げる宿運が鬨の声。
歴史に埋もれし真実はそのままに、いざ逝かん。
導くは愛しい者の足跡。
大地に広がりし陽光はやがて、民を救わん。
巡りめぐった全てを抱き、ようやく帰巣せん。
残響帰巣。唯一無二の居場所はかの心なり。
常闇が世の全てを支配していた。
暁が昇る気配は未だなく、ひっそりと静まり返った高天原国の都の中心に座す王宮では、盛大な宴が行われている。
この国では、闇夜は穢れを呼ぶと言い伝えられており、大晦は特に忌むべき日、大闇という異称もある程だった。
だから、こうして大晦には台王――高天原国王に与えられるほまれある尊称――の住まう寝殿の更に奥にある楽屋で夜を徹して、雅楽に酒に興じる。
神に仕えし巫が歌を口にし、踊りを舞えば、闇は地下にある蛮族たちがはびこる国々へ還ると云われていた。
渡殿の端に備え付けられた燭台が明々と二つの影を照らし出す。
「ヤナギ様、楽屋は相も変わらずとても騒がしいところですね」
付き童の中でも最年長であるサコが溜め息を吐いた。
付き童とは巫に仕える者のことで、主に巫力なき童が就く職である。彼女たちは十を過ぎると御殿内の雑務を担う宮仕えとなり、巫の世話から外れる。来年、サコは十になる。
そんなサコに、巫――ヤナギは花がほころぶように笑いかける。
床に着きそうなくらい長く艶やかな髪に飾られた波留や瑪瑙、瑠璃といった宝石類が一様にさんざめく。
清き川を思わせる流麗な装束は、まだあどけなさの残る顔に似合わない。
「初めてあの宴に出席した時、そなたはすごく興奮していたわよね」
ヤナギに言われてサコは顔を真っ赤にし、俯いた。
そうこう話しているうちに、二人はいつの間にか巫たちの暮らす離れへ到着していた。
彼女たちはもっぱらこの離れにいるため、自然と緊張の糸が緩む。
台王の御殿内でも最も奥まった位置にある巫たちの離れは大層広い。
庭には多くの木と花が植えられており、四季折々に景色を変える。
その中の池には美しい白き魚が悠々と泳いでいる。池に架かる石橋は暗闇でも淡く光を放っており、幻想的な雰囲気をかもし出していた。
砂利は綺麗にならされており、調えられている。庭師は今回、高天原国の縮小図を砂利で描いたようだ。
サコは離れの妻戸を引きながら、思い立ったようにヤナギへ問い掛けた。
「そういえば、ヤナギ様……宴の途中で退席してしまって大丈夫なのですか」
基本的に巫たちは宴の途中で抜け出すことを許されていない。
サコは、そのことでヤナギが怒られることを心配したのだろう。
「大丈夫よ。今回の宴は例年より騒がしかった。巫の一人が抜け出したところで誰も気が付かないわ。それに――――」
ヤナギは唇をぎゅっと引き結び、双眸に力を入れた。
「姫巫様もいらっしゃらなかったですものね。そのことに台王も皆も注視しておりましたから、ヤナギ様が抜け出したことに気付く者はおりますまい」
サコがヤナギの言葉を引き継いだ。それにヤナギは首肯する。
自室に辿り着いたヤナギは、サコに早く寝るように言って付き童たちが暮らす部屋へ帰した。
疲れているだろうに、ヤナギに白湯を作ると申し出てくれたのだが、サコは大切な人である。体を壊して欲しくはない。
ヤナギが十で、サコが九つ。長い間二人は共に過ごしている。この宮へ来た時から一緒にいるのだとサコは他の付き童たちにいつも自慢しており、ヤナギとサコの仲は相当年季が入っていた。
ヤナギはしずしずと装束を脱いだ。そして、枕元に置いてあった寝着に袖を通す。
(…………姫巫…………)
高天原国つ神の口より生まれ、神言を授かる巫たちを束ねる者――それが姫巫である。
今代の姫巫は齢数百を重ねた偉大なる巫だ。常人ならばよく生きても百で死地へ赴くものだが、姫巫は違う。
姫巫になるとは人の輪廻から外れて仙となること。ヤナギは巫たちの教育係を担う大巫からそう習った。
老齢であるにも関わらず、姫巫のその姿、女神の如く麗しく気高い。
ヤナギは四年前――この宮殿へ召されてから今まで、姫巫を何度か拝謁している。それは催事の時だったり、先のような宴の席だったり。
豊かな黒い御髪を頭の天辺でまとめており、白い肌に切れ長の目。
唇に引かれた真っ赤な紅は鮮血を思い起こさせた。
一体どれだけの人間をその口で屠ってきたのだろうといつもヤナギは思っていた。
“神の口”を持つ者にのみ赦された、真象の力。
それは口にしたことを具現化する、恐ろしき力だ。
ひとたび姫巫に真名――人の持つ本当の名――を呼ばれれば、傀儡となってしまう。
それほど、姫巫の力は強大だった。
ヤナギにとって、姫巫は尊敬の対象ではなく、恐怖の対象である。今もこうして考えるだけで心が凍てつく。
時折、ヤナギのもとへ届く姫巫からの高価な贈り物にさえ、触れることを恐れた。
「ヤナギ様、お帰りなさいませ。お疲れのところ申し訳ありませんが、これから禊をして頂きます」
物思いに耽っていたヤナギは飛び上がらんばかりに仰天した。
慌てて振り向くと、引き戸のところに数人の采女がいた。
采女とは、姫巫の世話をする優秀な女官たちのことである。ということは間違いなく、彼女たちは姫巫からの使いに違いない。
「姫巫様が私に何か御用なのでしょうか」
取り澄まして問えば、采女たちは一様に頷く。一人の年老いた采女がヤナギの方に進み出る。
「あの方はそなたに大事な話があるという。心を無にして姫巫様の邸までおいで。もちろん、一人で来るんだよ。禊を済ませ、陽炎がちらつき始めたら梔子斎森に入りなさい。その刻限のみ、禁足地である神杷山の入り口を開く。…………このことを付き童に話してはいけないよ。そんなことをすれば、姫巫様の呪が降り注ぐだろう」
不穏なことを言い残し、采女たちは掻き消えた。幻影だったのだ。
ヤナギはしばし呆然としていたが、頭を左右に振って意識を覚醒させた。
立ち竦んでいる時間はない。早く禊を済ませ、姫巫のいる神杷山の社殿へ行かなければいけない。
姫巫の命令は、台王の命令の次に優先すべき事柄である。
ヤナギは震える手足を無理矢理動かして部屋を出た。
◆ ◆ ◆
離れと梔子斎森のちょうど境にある鏡月池は古くより、姫巫に会う際に禊を行うのに使われる。
鏡月池の水はぬるく、この寒空の下で薄く湯気立っていた。
ヤナギは息を殺して池に足を入れた。つんとした空気が辺りに充満している。
ゆっくりと肩まで浸かり、ほうと息を吐いた。
白い装束を身に着けたまま行う禊は、何度やっても慣れない。
ヤナギは目を瞑った。風花の如く曇りなき肌と他の巫たちに誉めたたえられる肌が湯気によって朱まるのを感じる。
鏡月池を囲うように張り巡らされた橘の木が明け方の風に揺れる。
「大した用じゃないわ」
ぼそりと願いを言の葉にし、空へ流した。姫巫ほどの巫力はなくとも、ヤナギだって巫である。言霊にそれなりの呪いの力を乗せることは可能だ。
ヤナギは掌を空へとかざした。
長い髪は水面に漂い、ゆらゆらと扇状に広がる。どこから迷いこんだか、薄墨色の花弁が水面を滑った。
約束の刻限は待ってくれない。
大気の流れが止まってしまえば姫巫のもとへ行かなくて済むのに、と無理なことを思いながら、ヤナギは禊を終える。
清めた体に木綿の衣をまとい、腰のところを浅葱の帯で縛る。
そうして慣わしに従い裸足のまま、梔子斎森へ足を踏み入れた。
途端に尋常ならぬ凍て付いた空気が楊を取り巻いた。梔子斎森は神の宿る神域。静まり返ったそこは、人の身にはいささか堪える。
霧深い森の中、迷わずにいたのは一重に道を標す鬼火がヤナギを導いていたからだった。
針葉樹の生い茂る森には至るところに墓石がある。
高天原国に従わなかった多くのまつろわぬ人々が、ここで凄惨な最期を遂げたのだと巫の一人が教えてくれたのを思い出す。
ヤナギはちょうど手近に咲いていた彼岸花を手折った。そして、墓石が密集している場所に供えた。
「…………どうか、黄泉路は迷わぬように。この赤き彼岸花が導となりましょう」
ここに埋葬された人々は、誰にも弔ってもらえなかったろう。
その悲しみが、苦しみが、彼らを縛り、その魂を現世と常世を惑わせる。惑う内に、ちはやぶる神となってしまう者さえいる。
「死した後さえも苦しまなくてよいのです。後は現世に生きる者達に託して、しばし常世で遊山されよ」
淡い光が蛍のようにヤナギの周りを舞った。それはやがて天へと向かい、消えて行った。
ヤナギはしばらくその様子を見守っていたが、本来の目的を思い出して慌てて鬼火を追いかける。
鬼火は一定の速度を保ってヤナギを導いた。
もう半刻は歩いただろう。鬼火は巨大な楠の前で止まった。そこが姫巫のもとへ続く道なのだ。
ヤナギは意を決して、その大木の樹皮に触れる。
すると、辺りは一変に様変わりした。ヤナギは姫巫のいる小高い神の山――神杷山の裾野に辿り着いた。
ここから先は一本道のようで、役割を終えた鬼火は大気に融け出す。
神杷山には四季など関係なく、様々な花が咲き誇っている。常世さながらの異質さがあった。
ここに姫巫は住んでいる。
木の枝や小石によってたくさんの傷を負った足の裏が熱い。だが、ヤナギは気丈に山の頂上を目指した。
朝陽が完全に昇る頃、ヤナギは頂上に到着した。
大晦が明けて新しい年を迎えるこの瞬間、世界は美しく輝く。深い闇の後に見る光ほど、眩しいものはない。
目の前に広がる景色は想像を絶する。朝露に煌めく橘の木、沙羅双樹の花、池に架かる朱塗りの橋、池に泳ぐ黄金の魚。
社殿は豪奢な造りを以ってヤナギを迎えた。
新年をここで迎えることになろうとは、予想外だった。常であったら離れで他の巫たちに新年の挨拶をしていることだろう。
「遅参が過ぎます」
苛立ちのこもった声と共に、幾人かの采女が社殿内より現れた。
皆、王宮の者でも一部しか着られない質の良い仕立ての装束を着ている。布地は絹に違いない。
「たいへん申し訳ありません」
ヤナギは素直に頭を下げた。
「まあ、いい。ほら、後に続きなさい。姫巫様は首を長くしてお待ちです」
采女たちは身を翻して社殿の中へ入って行く。慌ててヤナギも後に続いた。
長い外廊を歩き、渡殿を行く。
王宮と同じような構造をしているため、ヤナギは思っていたよりも鼓動を落ち着かせることが出来た。
最奥だと思われる観音開きの扉の前で、年老いた采女は振り向いた。
その形相が尋常のものではなかったため、ヤナギはたじろぐ。
「いいね、小さき巫。これから見るものを口外してはいけないよ。このことは台王さえも知らないんだ」
「はい」
頷く以外にヤナギに出来る選択肢はなかった。
それを確認し、采女たちは静かに扉を開け放った。
部屋の中央には神事を行うためにある、ゆずりはと橘の葉で囲われた祭壇がある。そして、奥まった箇所に寝台があった。普通の部屋と取り立てて代わり映えしない。
唯一違うところを挙げるとすれば、住んでいる者が高貴な人というだけだ。
「ようやく来てくれた。わたくしはそなたを待っていた」
黎明たる声が部屋に響く。采女たちは叩頭した。
ヤナギは目を丸くし、寝台に気だるげに横たわる人物を見つめていた。
思わず口を両手で覆う。
「ヤナギ…………わたくしを初めて見た時、そなたは恐怖したね。宿運が鬨の声がそなたに響いたのだろう」
姫巫は上体を少しだけ起こして手招きした。
しかし、ヤナギの足は根が生えたようにその場から動かない。
姫巫は初めて会った時と同じく微笑んだ。
「姫巫様」
声が震え、上手く喋れない。
「その――――お顔は――――」
姫巫の顔は、醜い老婆のそれだった。
半年前に催事の折、遠目より見たはずの豊かな黒髪も白髪に変わり果て、真珠の肌も茶色く萎びた色に変化している。
ヤナギの青ざめた表情を眺め、姫巫は神妙な面持ちで言った。
「終焉は近付いている。もうわたくしは長く持たない」
「そのような戯言。姫巫様はこの数百年、人の齢を超えて高天原国が懐刀として君臨し続けてこられたお方。貴女様がこの世を去るなど、誰が信じましょうか」
「そう、ずっと長い間生きてきた。姫巫になった瞬間より成長が止まり、わたくしは神の贄となった。だけどね、今回ばかりはついに代替えの刻が来たようだ。半年前より体が急速に年を取って、今ではこの様よ」
姫巫は自嘲的に笑い、乾いた自分の手を擦る。
「まだ戦は終わっていないというのに」
名残惜しそうに呟く姫巫に対してヤナギは初めて、恐怖を感じず相対していた。
「姫巫様、希望は常に己の身の内に宿っていると聞きます。それを見出すか否かは本人の心持ち次第。お気持ちを強く持てば、病など――」
「残念ながら、神意に逆らえる者などいない。わたくしの御代はここまで」
きっぱり言い切って、姫巫は強い眼差しをヤナギに送る。
「これからはそなたの時代。だから、ここに呼んだのだよ。全てそなたに授けてからわたくしは黄泉路を逝く」
ヤナギの顔が強張った。
再び恐怖が頭をもたげる。じっと頭を垂れていた采女たちは姫巫が指一本動かした瞬間、ヤナギを取り押さえて姫巫の目の前へ引きずった。
「いやっ、何をするの。私はただの巫――――姫巫などにはなれない、そのような力もありません!」
姫巫はヤナギを、静かな瞳で見据えた。
「――――――――」
ヤナギの動きが止まる。大量の冷や汗が身体中を伝う。
姫巫はヤナギの真名を口にした。ヤナギと肉親以外、知る者はいないはずのその真名を口にしたのだ。
彼女は真名を以ってヤナギを縛った。
にんまりと姫巫は口角を上げた。
「逃がしはしないよ。そなたが生まれた時よりこうなることは決まっていた。新たな高天原国つ神の贄となる少女よ、その大きな眼でとくと見るがいい。古から今日まで受け継がれてきた歴史の全てと姫巫の全てを」
姫巫は己の両腕にしていた勾玉を素早く外し、それをヤナギの両腕へ滑らせた。
部屋中にヤナギの絶叫が轟いた。
◆ ◆ ◆
姫巫は昏倒したヤナギの髪を梳いた。
薄墨の花弁が一枚、その髪に絡まっているのを見た刹那、姫巫の形相が変わる。
「これは…………さて、何が紛れ込んだか」