一.
いくつの季節が巡ったのだろう。
木枯らしが乱暴に女の頬を嬲る。鼻先がつんとする寒さが辺り一帯を包んでいた。
焼けつく喉を鳴らし、ヤナギは戦場にいた。
「引きましょう」
「うん」
牟呂の緊縛した声に答える。
ヤナギは随分伸びた髪をなびかせて、馬に飛び乗った。砂埃にまみれてはいるものの、彼女の清廉さがかげることはない。
今回の戦の舞台は、高天原国から南西部にある蜘蛛の廻廊を抜けた先、磨那櫂国であった。
古くより高天原国と親交深い国だったが、此度叛旗をひるがえし、滂沱の兵を高天原国へと送り込もうとしていると隠密が知らせてくれた。
壊滅状態となった小さな砂丘の上にある国。
いつもの夜明けを迎えるはずだった国は、ヤナギたちの奇襲によって粉々に打ち砕かれた。
朝陽が哀しく灰と化した国を照らし出す。崖上より迎える朝は、まるで傷痕を隠すかのように全てを黄金色に覆い尽くしていた。
罪なき人々を殺し続ける自分は、きっと常世には行けないだろう。
だが、それを儚む余裕などヤナギにはない。
次から次へ、戦の狼煙は上がる。
ヤナギは胸元で拳を握る。
年頃の乙女が身に着けるようなものでない防具を身にまとい、切り傷を身体中につけている。「もうこれ以上、高天原国に逆らわないで」
ヤナギの小さな呟きを聞きつけたのは、誰もいなかった。
いつもどおりの討伐軍の凱旋。
高天原国の紋である蓮と海原を描いた旗が高々と揺れている。
民は彼らを歓迎していた。
台王より選定されし精鋭揃いの討伐軍は、高天原国の民衆の誇りだった。
その最中、その光景を何の感慨もなさげに見やる女がいた。彼女はすっとした鼻筋と小さな唇、少々厄介そうに見えるつり目を持っている。あまり化粧は濃くなく、艶女ではないのは明白だった。
しかし、平民とは思えぬ雰囲気をかもし出している。
「チズコ」
女の名を気安く呼ぶ声がする。
千鶴子は表情を変えずに声の主に顔を向ける。
左目に眼帯をしたその 男は、長く伸ばした黒髪を鬱陶しげに手で払う。
「どうした、ヤサカニ。きみが市井に出てくるなんて珍しい」
ヤサカニと呼ばれたその男は、「まあな」と言いつつ討伐軍を見て目を細める。その隻眼に映っているのは、紛れもなくヤナギだった。
「我らが大将のお帰りだからな」
チズコは噴出した。
「ヤサカニの口からそんな言葉が飛び出そうとはね。月日の流れを感じるよ」
「黙れ」
ヤサカニはチズコを睨みつける。
しかし、彼女はそしらぬ顔で微笑を浮かべる。
「三年、か」
「…………」
「きみとカガミ様がこの国にやって来て三年経つ。そろそろ、行動を起こす時だろう?」
「なあ、チズコ。お前は一体、何を考えているんだ」
ヤサカニは低い声でチズコを威嚇した。
さあ、とチズコは笑う。
「わたくしが視た未来を崩壊してくれれば、どうなろうがいい。たとえ国が滅んだとしても」
暗き水底から浮き出た泡のような、寒気を感じる声で彼女は言った。
夜の帳を落とした如き闇色の髪はどこまでも直線的で、彼女自身の意志の固さを物語っている。
強い光を含んだ双眸は、黒曜石を嵌めこんだかのように濡れており、見る者全てを惹き込む。
一級品の彫刻品も霞ませるほど雅やかな容姿を持つ彼女は、台王が座す謁見の間で今回の戦の報告を行なった。完璧な形での勝利報告に、台王は顔を綻ばせる。
「やはり、そなたを姫巫に、と言った先代の目は正しかったな」
満足げに薄ら笑う台王の顔を無表情に見やり、ヤナギは瞼を閉じて降頭した。
存分に羽を休めるがいい、と台王は労いの言葉を口にして玉座を立ち、退室した。
彼が謁見の間より退室してから、ようやくヤナギは頭を上げた。
その場にいたその他の者たちも、彼女にならって顔を上げる。
「姫巫、たいそう疲れているでしょう。しばらくは戦もないし、ゆっくりして下さい」
人懐こい笑顔で、高天原国王位継承第一位に身を置くクルヌイはヤナギに話しかけてきた。
ヤナギは表情を変えずに礼を述べて踵を返す。後ろに控えていたムロも同様に後に続いた。
豪奢な観音扉を開き、謁見の間より出る。空気が幾分軽くなった。
大股で渡殿を闊歩しながら、彼女は肩で溜め息を吐いた。
宮殿内はとても広く、様々な人と擦れ違う。
誰しもヤナギとムロを見るや否や、深く腰を曲げる。
ヤナギは立ち止まらずに、目線だけ投げかける。
官や女房、付き童、巫。実に幅広い者たちが彼女に頭を下げる。
謁見の間は宮殿の中でも南門に近い場所にあるのだが、ヤナギたちが目指す西門軍――台王の直轄下にはない軍。宮殿の西門に寝所がある――の寝所からは微妙に距離があった。
しんと静まり返った宮殿内。これほど広いここは、台王の威厳を主張するためだけの場所に見える。
黒い柱一つ一つに彫り込まれた鳥や女人の絵柄もただ虚しい。天井に連なる玉飾りも意味のないもの。
「――――馬鹿馬鹿しい。毎回毎回同じような報告を口上することが、どれほどつまらぬことか」
ヤナギは軽薄な笑みを浮かべた。
ムロは何も云わない。
西門へと続く渡廊で楊と牟呂は立ち止まった。
縁側となっているそこに脱ぎ捨てた草鞋をつっかける。
眩しい新緑の陽光が、視覚を刺激する。瑞々しい土の香りが少しだけ心を癒してくれた。
ヤナギ様、とムロが呼びかけてくる。
「…………死んでいった者たちの弔いをする。遺体は全て夕櫃峠へ運んで」
「わかりました」
命令を受けたムロの行動は素早かった。
すぐさま西門軍の寝所に駆けて行く。
ヤナギはその後ろ姿を見ながら、歯を食い縛った。
寝所の前には夥しい数の麻布に包まれた遺体があった。
今回の戦のために徴兵した民だ。
磨那櫂国の軍師は切れ者だった。
戦慣れしていない、徴兵された寄せ集めの者たちを次々に捕縛して人質とした。
見捨てたくなどなかった。だが、あの過酷な状況下で彼らを救い出せず、奇襲という強行突破に踏み切ったのだ。
磨那櫂国の兵は最後まで降伏しなかった。降伏したら命は取らないというヤナギの言葉を信じる者など誰もいなかった。
『自国の民衆を犠牲にしてまで……あなたは戦に勝ちたいのですか』
命の灯火が切れる寸前、磨那櫂国の軍師はそう口にした。
人質がいる状態での奇襲など、彼は予期していなかったのだろう。
真っ直ぐな眼は、戦の汚さをまだ知らない、青臭く幼いものだった。
ヤナギは言葉に詰まった。
追い討ちをかけるかのように、軍師は息も絶え絶えの中、嘲笑を洩らした。
『姫巫。あなたは哀しい人形ですね』
思わずヤナギは彼の喉を、手にしていた剣で突き破った。
自らの鼓動の速さに恐怖を覚えた。
絶命した軍師の死に顔は、安らかだった。
ヤナギはふと自分の両手を見た。今は既に血みどろではないにも関わらず、血で汚れている気がした。
(……私は、守る)
――――――何を?
心の奥で、誰かが訊く。
(国を)
――――――何のために? この国は、命を賭けて守る価値のある国なのか。
(わからない)
誰かは哂った。それは楊に向けて、磨那櫂国の軍師が洩らした嘲笑に似ていた。
――――――馬鹿な娘。だからこそ、愛おしい。意志を持たぬ人形になれば苦悩せずに済むものを。
「黙れ」
「黙れ、と言われてもな。まだ声もかけていない」
ヤナギははっとして前を向いた。
庭に佇んでいたのは、カガミだった。この三年で、朽葉色の髪目をした彼はますます見目麗しくなった。
高天原国台王の寵愛を一身に受け、それに見合う武力も持つ彼は王宮内に溶け込んでいた。外の戦では参加させてもらえていないものの、都の警備などを任されるまでに信を置かれる存在になっている。
ヤナギは眉根を寄せて顔を背ける。
その時、自分が多量の脂汗をかいていることに気がついた。先ほどの声は、真昼に起こったただの幻聴だと自身に言い聞かせる。
そして、その場を離れようとした。だが、それをカガミが阻んだ。彼はヤナギの腕を掴む。
「…………カガミ、私は忙しい。放して」
「戦で死者が出たそうだな」
無遠慮にカガミは口火を切った。
ヤナギは頭に血が上るのを感じた。頬が熱い。
「それが、どうした」
「いや、皆が騒いでいたから気になってな。お前が出向いた戦で死者が出るなんて珍しい、と」
「今回の戦は、徴兵された民衆がいた。戦慣れしていない彼らを敵が狙うのは必然でしょう」
「……そうだな」
「大きな戦だった。敵も切れ者揃いで、徴兵を庇う暇などなかった。仕方がなかった。死者が出て当然の難を極めた戦でした」
言葉の端々に棘が生じる。
言い訳じみた自分の弁が情けなく感じる。
「もう結構」
低い声色にヤナギの肩が震えた。
カガミは緩やかに目を吊り上げる。
「それを食い止めるのが、姫巫であるお前に課された使命ではないのか」
心臓部を抉られたような鈍い痛みが身体中を駆け巡る。
「わかっている、そのようなこと。そなたに言われるまでもない」
「では問おう。何人の死者を出した」
ヤナギはその答えを持ち得なかった。
何人。
そんな生温い数ではない。何十――いや、何百の死者を出した。
カガミは怒りを滾らせた形相でヤナギに一矢加えた。
「答えがないということは、お前はそれだけの命を蔑ろにしたということだ」
「私は――――」
「国を守りたいのか。台王を守りたいのか」
ヤナギは閉口する。二の句が紡げない。目頭が熱い。
「そこまでにしろ」
声の主はヤナギとカガミの間に割って入った。
「ムロ」
苛立ちを隠せない様子でカガミは妨害者の名を呼んだ。
「今、俺はヤナギと話しているんだ」
「黙れ。武官長である俺に楯突く気か。大体、平兵士如きがヤナギ様に意見するなど言語道断」
カガミはムロを真剣な顔で見た。
「人の命の扱い方の話だ。意見して何が悪い」
「命の扱い方など、ヤナギ様も百も承知だっ。貴様が口出ししなくてもいい」
カガミとムロは睨み合った。両者とも一歩たりとも譲らない。
先に引いたのはカガミだった。彼は目線を地面へ落とすと、一言呟いた。
「戦は、人々を守るためにするものではないのか」
その言葉に、ヤナギの中の何かが弾けた。
小気味いい音が響いた。
ヤナギは泣きそうになるのを必死で堪え、自分より背丈があるカガミを睨み上げる。
カガミは思いきり叩かれた自らの左頬に手を触れ、ヤナギを見つめる。
ヤナギは全速力でその場を駆け出した。
「ヤナギ!」
カガミの微かに上擦った呼び声にも聞く耳を持たず、彼女は一目散に梔子斎森の方へ去った。
カガミはヤナギを追って森に向かった。
ムロは一人取り残され、手持ち無沙汰に周囲を見回す。西門軍の稽古場を見やれば、荷車が所狭しと置かれている。
戦場から持ち帰ることが出来た遺体の数はおよそ三十。
総勢六百で挑んだ戦の犠牲は二百余名。あまりにも多い犠牲だった。
火攻め、水攻め、雷落とし。様々な攻め方をした。
だから、味方の死体も敵の死体も人型を保っているものは非常に少なかった。
「戦場に出向けない者が、いけしゃあしゃあと……」
カガミの言い様を思い出し、いきり立つ。
だが、彼の言が正論なのは、ムロにもよくわかっていた。わかっているだけに、一番耳を塞ぎたいものでもあった。
「あのお……」
恐る恐る、と言った形容詞が正しいだろう。
小太りの男がムロに声をかけてきた。
「何だ、お前は」
じろりと一瞥すると、小男は、自分は商人で門番にも許しを得てここまで入って来たと述べた。
その証拠に、赤い字で宮殿通行許可証と書かれた木簡がその手に握られている。
大方台王にお納め品をどこかの国が託したのかと思い、謁見の間に通そうとすると小男は大慌てで首を横に振った。
「いいえ、台王様にお品を持ってきたわけではござりません。カガミ様へお品をお持ち致しました」
「カガミ宛てだと?」
疑いの眼差しで小男を見ると、小男はいそいそと肩にかけた麻袋の中から、絹で出来た浅葱色の巾着袋を取り出す。
「門番の方にもお見せ致しました。中身を改めてもらっても結構でございます」
門番の検閲で引っかからなかったのであれば、危険物でないことは確かだ。門番には目利きの者が選ばれている。毒薬、爆薬、その他危険物は瞬時に彼らが見破るはずだ。
巾着袋の中にあったのは、虹色の玉であった。
掌の大きさのそれは、宝玉ではないようだったが見事なまでの美しさだった。これを造った者の技量が想像できる。素晴らしい才を持った物造りだ。
「ただの玉、か」
「さようでございます。沢良宜にいるわたくしの知り合いが前にカガミ様に世話になったらしく、どうしてもその玉を渡して欲しいと言われまして」
頭を掻いてそう言う小男に、嘘を吐いている素振りは微塵もない。
ようやくムロは了承の頷きを返した。
「わかった、生憎だがカガミは今ここにいない。これは私から彼に渡そう」
「はい、お願い致します。カガミ様には何卒、沢良宜のマクがよろしくと言っていたとお伝え下さい」
小男は深くお辞儀をして、足取り軽く南門へと去って行った。
ムロは掌に握りしめた玉を再び見つめる。 照りつける太陽にそれを翳す。
虹色のそれは華やかなる色合いをしている。
「サワラギ マク ハヤリヤマイ シキョ」
ムロは光を受けた玉が映す文字を断片的に読み上げる。彼は口角を引き上げた。
「武官長、こんなところで何をしているんですか」
ムロはすぐさま玉を巾着袋に入れ、怪訝そうに自分を見るヤサカニの方を向いた。
三年の月日が経っても全く変わらない黒髪の長さと左目の眼帯を持つ青年は、射抜くような眼つきでムロを見てくる。
煌びやかに周囲を惹きつけるカガミとは違う種類の雰囲気を持ったヤサカニがムロは苦手だった。
真っ向から勝負しようとしても、この男は上手くそれを掻いくぐるに違いない。
虹色の玉は、彼らの仲間からの火急の知らせだったのだろう。沢良宜にいたマクという者が、流行病によって死んだのだ。
「荷車に全ての遺体を乗せ終わりました。皆、あなたの指示を待っています」
「ああ、今行こう」
そう言って、ムロは鞘から剣を抜いた。
ヤサカニはさっと顔色を変えて飛び退る。
ムロは巾着袋を宙に投げ、それを斬った。巾着袋と一緒に中に入った玉も真っ二つに割れた。
ヤサカニはその瞬間、息を止めた。砂利と玉がぶつかって小さな音を立てた。他の兵たちは何事かとこちらを見ている。
ヤサカニは食い入るように一心に玉を見つめていた。この玉が仲間から届いたものだとヤサカニが気付いているのかは定かでない。
ムロは鞘に剣を収めながらヤサカニに言った。
「ヤナギ様を悲しませるようなことだけはするなよ」
ムロが出来る最大の譲歩だった。
出来るなら、今この場でヤサカニを斬り、カガミを相討ち覚悟で討ち取りたい。
だが、もしそれをしてしまうとヤナギを守ることが出来る者がいなくなってしまう。それだけは避けたかった。
采女であるチズコは精神的に彼女を支えられるだろうが、戦場で彼女を支えることは出来ない。
それに――――――。
「ヤナギ様はお前たちを信じているのだから」
ヤナギは彼らを純粋に信用していた。
いつだったか、ムロが彼らを悪し様に言った時、彼女は哀しい目をした。
『ムロ、そなたは知らないのでしょう。私はあの夜――台王の怒りに触れたあの夜、カガミによって助けられた。だからね、私はカガミもヤサカニも信じてる。彼らは悪い人ではない』
言って微笑む彼女の顔はたいそう安らかで、ムロは衝撃を受けたものだ。
ヤナギの無邪気な顔を、彼はその時初めて見た。近頃は、相次ぐ戦によって彼女の純粋さは失われようとしているけれど。それでも、あの時の温かな信頼の言葉はヤナギの真実だろうから。
ムロもそれを信じてみようと思った。
黙り込んだヤサカニを置いて、ムロは稽古場にひしめく荷車の方へ足を向けた。