五.
四季折々に色を変える美しい王宮の庭で、春告げ鳥が桜の枝で軽やかな歌声を響かせる。
常ならば蒼いはずの空も、桃色に霞んで見えるほどの満開の桜や桃の花弁。
ヤナギは清らかな白い衣を身にまとい、浅く息を吸い込んだ。心にある想いを全て霧散させる。
瞳に映るのはただただ紅く彩られた舞台のみ。
数刻の後、その舞台でヤナギは春を迎えるための舞を踊らねばならない。
祝いの舞台。そうであるはずなのだが、ヤナギにとって紅い舞台はサコの処刑を思い起こさせるものでしかない。
「…………ヤナギ様」
気づかわしげにチズコが声をかけてきた。
ヤナギは敢えて彼女の方を向かずに首を横に振る。
「集中したい。悪いけど、話しかけないで」
チズコは黙って一歩後ろに下がる。
祝福の舞を踊るのは、一体いつぶりだろうか。
長い間、戦場で季節の節目を過ごしていたため、舞自体覚えていないかもしれないと嫌な予感もする。
自然、金銀細工の扇を持つ右手に力がこもる。
高らかな足音を立てて、武官達十数人が近付いてきた。舞奉納の準備が整ったのだ。
彼らは先頭にいる少年を筆頭に片膝をつき、頭を垂れた。
「ムロ、そんなに畏まらなくてもいいのに」
ヤナギの声に、ムロは顔を上げる。彼は瞳を輝かせていた。
「畏まってなどおりません。ムロは、ヤナギ様の護衛を任せられたのが嬉しいだけです」
その言葉に嘘偽りは感じられない。ムロの声は弾んでいる。
ヤナギは幾分緊張の糸が緩んだ。
それに、とムロは立ち上がって舞台を眺めた。
「ムロは、ヤナギ様が舞われるのを拝見するのが初めてなので。楽しみです」
「武官長! 実は某も初めてでございます!」
「わたしもです」
「実は私も……」
武官たちは次々と声を上げる。
彼らが自分の舞を楽しみにしていることを知り、ヤナギは嬉しく思った。
長い冬の終わりと春を告げる舞。形式ばっている舞ではない。ただ、喜びを表現すればいいだけだ。
「ヤナギ様、民に、この国に喜びを運んでください」
チズコはそう言って微笑んだ。皮肉屋である彼女の、精一杯の笑顔だ。
「采女に同感でございます。戦が起こらない春なんて珍しい。姫巫様が舞を踊ればますますいい方向に物事が進むに決まっておりますっ」
武官の言うとおりだ。
例年と違い、黄昏国の動きが鈍くなっている今だからこそ、こうして巡る季節を楽しめる。
ふと、ムロたちの後ろに、ぼんやりと周囲にある桜を眺めるヤサカニの姿が見えた。
ヤナギの視線にいち早く気が付いたムロは、忌々しげに下唇を噛む。
「ヤサカニ! 余所見をしている暇がおまえにあるのか。仮にも台王よりヤナギ様の護衛の任、賜ったのだろうっ」
ヤサカニはムロの鋭い瞳に目を丸くさせながらも頭を垂れた。
「申し訳ございません。不遜な態度を」
「私はそういう意味でそなたを見たわけでは。……顔を上げて」
そろりと頭を上げたヤサカニへ、ヤナギは艶やかに笑みを浮かべた。
一月と少し前、ヤサカニに首を絞められたことを忘れたわけではないが、どうしてもヤサカニやカガミを悪者とは思えなかった。
「黄昏国に桜はないと聞く。珍しかったんでしょう?」
「……はい。久しぶりに桜を見たので、少し懐かしくなってしまいました」
「ほら、ムロ。いいじゃない、桜は美しい。魅入ってしまう気持ち、ムロにもわかるでしょう」
ヤナギがヤサカニを庇うことに、どうしても納得出来ないのだろう。ムロは頷かず、腕を組んで小さく呻いた。
「――――それにしても、カガミはどうした。ヤサカニ」
チズコの言葉にヤサカニは肩を竦めた。
「こっちが知りたい。カガミ様も姫巫の護衛の任を受けていたのだが――」
「大方、さぼっているんだろう。あいつは鍛錬もさぼる」
ムロは眉間に皺を寄せて毒づいた。
ヤサカニは明後日の方を向く。カガミのさぼり癖は事実なのだろう。
(折角の春の宴なのに。あの人は来ないつもりなのかしら)
ヤナギの脳裏に、口端を上げて酷薄な笑顔を見せるカガミが浮かぶ。
冷たい美貌。笑っているのに、笑っていない氷細工の心。
きゅっと胸が軋んだ。
◆ ◆ ◆
薄紅色が王宮全体を飾っている。
台王直々に姫巫護衛の任を命じられた時、正直、カガミは勘づかれていると思った。ヤナギが台王にカガミたちのことを喋ったのかと案じた。
だが、どうもそれにしては台王のカガミやヤサカニに対する信頼には揺るぎないものがある。
『かの王は、身内を信じていないのです』
ヤサカニはそう言った。台王は高天原国の者を信じていない、と。
『だから、外から来た者をすぐに王宮へ入れる。常に内部を入れ替えている。裏で散々怨まれるようなことをしてきたのでしょう。俺たちへの信頼もやがては新しい者に移ろっていくはず』
カガミには台王の気持ちはわからない。わかりたくもない。
それにもうこれ以上、カガミはヤナギに近づきたくなかった。
「また任務を放り出しているのですか?」
カガミが与えられている室に、一言も断りもなく痩せた少年は入ってきた。
質のいい衣装を着ているにも関わらず、それが厭味にならないのはその少年の人柄もあるのだろう。もともと体が弱く、最近になってようやくこの王宮に戻ってきたと聞いている。
カガミはその少年を横目見ると、ふいと立ち上がる。
「いいえ、クルヌイ王子。そのような恐れ多いことするわけがないではありませんか」
「カガミ」
クルヌイの声に、微かに咎めの色が含まれている。
「僕は君やヤサカニが他の武官たちから悪し様に言われて欲しくないんだ。折角、素晴らしい武才を持っているんだから」
「…………光栄です」
カガミはそっけなく答える。
クルヌイは一瞬言いよどんだが、拳を握ってカガミに言った。
「ねえ、カガミ。君には姫巫をちゃんと見て欲しい」
意外な言葉に驚き、カガミはクルヌイを凝視した。
「地下の国々を苦しめている元凶である姫巫。君は彼女が憎い?」
カガミは答えられなかった。
答えないカガミを責めるでもなく、クルヌイは室の奥へ歩を進めた。陽射しを遮るためにかけられた御簾にそっと触れる。
「全ての災厄は、姫巫が運んでくる。そう、誰かが言っていた。でも、本当は、彼女はこの国に縛りつけられている哀しき人形でしかない。己の思考を敢えて踏みにじって、戦場を駆ける」
ふとクルヌイの表情がかげった。
初めて市井でクルヌイに会った時、ただの貴族のぼんくらに見えた。なのに、今自分の前で質問をしてくる少年の聡明さはなんなのだ。
カガミは表情を引き締める。
「彼女は頑張っている。必死で僕の父や国のために頑張っているんだ。自らの身に血化粧をまとって。本当は姫巫になんてなりたくなかったはずなのに」
「姫巫に、なりたくなかった…………?」
ようやくカガミは声を取り戻した。
クルヌイは頷く。
「どういう、ことだ」
驚愕の事実を前に、カガミは柄にもなく動揺していた。思わず敬語を忘れるほどに。カガミはクルヌイの細い肩を掴んだ。
「姫巫は……自ら志願し、巫力の強い巫がなるのではないのか」
「常ならばそうだった。けれど、今代は違う。先代が選定したんだよ、ヤナギを。僕はその時まだこの王宮にいなかったから人伝てにしか聞き及んでいないけれど、先代姫巫は真名で彼女を縛ったらしい」
「馬鹿なっ。真名如きで人を縛れるわけがない」
吐き捨てるように吼えたカガミに、クルヌイは沈んだ表情を向けた。
「カガミ、姫巫は“神の口”から生まれてきたと云われている。故に言葉を具現化出来る力を持っているんだ」
「…………」
「あと、ヤナギが姫巫にならざる得なかった理由はもう一つある」
一度、クルヌイは言葉を切った。
そして、彼は呼吸を整え一気に吐露した。
「ヤナギが姫巫になることに反対した付き童が処刑された。もし、姫巫になることを拒めば、もっと多くの者が殺されるとヤナギは思ったんだろう」
カガミの顔色が見る見るうちに蒼白となっていく。唇も血の気を失い、白く変色している。
どんな時にも余裕を崩さないカガミはなりをひそめている。
クルヌイは自分の肩に置かれたカガミの手を優しく握った。
「ほら、姫巫の護衛ついでにヤナギの舞を僕の代わりに見てきてよ。そして、彼女がどんな風に舞っていたか教えてね」
カガミは何も云わずに足早に室を出て行く。頭の中では様々な思いが竜巻の如く渦巻いていた。
上手く考えがまとまらない。
そうこうしているうちに、宴がある舞台に到着した。大勢の人だかりが出来ている。
こういった大きな催し物の際、台王は王宮を開け放すらしい。
貴族を始めとして農民や商人、貧困層の者まで我が我がと舞台に近づこうと押し合っている。
「姫巫様、早くお姿拝ませて下さいませ」
「救いの神よ!」
「ええい、下級貴族のくせに我が物顔で陣取るんじゃねえよ」
「何と……下衆が!」
皆口々に姫巫の名を呼ぶ。
だが、それは“ヤナギ”ではなく“姫巫”を呼ぶ声である。
内心複雑な気持ちでそれを遠巻きに眺めていると、突如一人の少年が走ってきた。彼は怒りに顔を真っ赤にし、カガミを殴ろうとした。
しかし、カガミはそれを条件反射的で素早く避ける。
「カガミ! 貴様……今更来たのか! さっさと民の整備に当たれ!」
ムロは相当頭に血が上っているようだった。
カガミがいなかった分、余分な労力を使わねばならなかったのだろう。怒声を飛ばすと、彼はすぐに舞台の方へ戻って行った。
「カガミ様……っ。皆が舞台に近づかないよう押さえて下さい」
必死に民の暴走を食い止めようとしているヤサカニが、カガミを見つけて助けを乞うてきた。
カガミは取りあえずヤサカニを助けようと一歩踏み出す。
しかし次の瞬間、動くことが出来なくなってしまった。
民も兵も、皆より高い御輿の上で状勢を見物していた台王も息を止めた。
しゃらりと鈴の音が鳴る。
鶯も鳴くことを止め、ヤナギの登場を待つ。彼女はゆっくりとした動作で舞台に上がった。
白魚の肌は太陽に照らされて今にも反射しそうだ。瑪瑙を嵌めこんだような美しい色の瞳を縁取る睫毛は長い。唇に薄っすら引かれた紅は桜色で、彼女の体で唯一鮮やかだった。
全てを包む漆黒の腰まである髪は一寸の癖もない。
赤い舞台と白い装束の対比がより一層、薄紅の景色を引き立てる。
誰も動けない。
ヤナギのまとう空気は俗世のものとは思えない程に澄んでいる。
戦神と恐れられる姫巫はここには存在しなかった。ただただ清い乙女がそこにはいた。
「…………姫巫様じゃ」
カガミの横で、杖をついた老人が涙声で呟いた。老人は泣きながら手をすり合わせた。
「ばあさんや、きっと、今代の姫巫様は先代様の後を継いで、この国を守って下さる」
カガミはそれを見て目を細める。
“姫巫”。
それは高天原国にとっての神そのものなのだと、ようやく認識できた。
可憐な少女は金銀の糸で繊細に作り込まれた扇を顔の前に構え、優美な舞を踊り始めた。
世に喜びが満ちてくる。まるで風や花の化身のような美しさである。
だが、中盤に差し掛かった頃、急に彼女は舞うのをやめた。
辺りがざわめく。
「姫巫や、どうしたのだ」
と台王が呼びかける。
しかし、ヤナギは黙ったままだ。
彼女の手から扇が滑り落ちた。
ヤナギの手足が小刻みに震え出したのが、カガミにはわかった。
段々顔色も白くなっていく。しまいには、その場に座り込んでしまった。
意識する間もなく、カガミの足が動いた。
そうすることが当然であるかの如く、群がった人々を掻き分けて舞台へ上がった。
人々の声は遠い。
まるでヤナギと自分だけ空間が切り離されているように感じる。
「どうして……?」
潤んだ瞳でヤナギはカガミに訊いた。そんな彼女に手を差し伸べる。
ふっと微笑が洩れる。思いのほか優しい気分になった。
「来い、ヤナギ」
ヤナギは我慢していた涙をぼろぼろ零しながらカガミの手を取り、立ち上がった。
◆ ◆ ◆
朽葉色の髪が、瞳が、柔らかな衣のようにヤナギを包んでくれる。
意外なほど優しい微笑。
サコの処刑を思い出し、抜け殻同然になった心に明かりが灯る。
カガミは腰帯に差した剣を抜く。何をするかと思えば、ヤナギが取り落とした扇をその剣で拾い上げ、涙で濡れた顔を上手く隠してくれる。
すっと扇の陰で、彼はヤナギの涙を拭ってくれた。
「一緒に舞ってやるから。泣くな」
ヤナギは言葉に詰まる。
カガミは高らかに剣を掲げた。
初めて見た時と同じだ。彼は凛とした面持ちで舞う。その上、ヤナギが入ってきやすいように大振りな動きをしている。
ヤナギは扇を胸元に当て、すいと彼の剣に合わせた。
扇についた鈴の音と、剣についた玉が擦れる音がした。
夢中で舞った。一人孤独に舞っていた先ほどとは違う感覚。
胸が弾んだ。
カガミの剣舞に遅れを取るまいと必死で舞った。まるで風の中で舞う花になった気分だ。
ヤナギは最後の一足を運び終え、瞼を閉じた。
あっと皆がどよめいた。
何事だろうと目を開け、ヤナギも驚きの声を上げた。
桜吹雪だ。
ただの桜吹雪ではない。風も何も吹いていない中、花が舞っている。そして、桜のほかに灰色の花――拯溟の花も混じっていた。
「絶景だな」
ヤナギの横で、カガミが呟いた。
ヤナギは声もなく微笑んだ。世の生全てが春の訪れに歓喜している。戦のない春を喜んでいる。
そうヤナギは感じた。
拍手喝采が巻き起こる。
ヤナギとカガミに、はち切れんばかりの人々の喜びが向けられている。
台王も、ヤサカニも、ムロも。目に入る誰もが手を叩いていた。
「ありがとう、ございます」
感謝の言葉はするりと唇から滑り落ちた。
カガミはヤナギを見下ろす。
その瞳は際限なく奥深く、ともすれば吸い込まれてしまいそうなほど深い色を湛えていた。
出会った時と変わらない、鮮やかな輝き――――薄暗い場所にいる者にとっては恐怖ともなる輝きを宿した、玲瓏な瞳がそこにはあった。