四.
姫巫というものは、その親兄弟であっても気安く相見えることが出来ないのが慣わしであった。
そう言いながらも催事の度に姫巫が場に姿を見せるのは、台王の権力を民衆に見せつける意図があるのだとヤナギは解釈していた。
「面倒なこと」
軽く呟き、寝台に横たわる。何もする気力が起きない。
神杷山には何百種類の薬草が生えている。ヤナギは暇な時はそれらを採集して様々な薬を作ることが趣味であったが、一月前にあった宴以降、無気力な日が続いていた。
「ヤナギ様」
凛とした声音が響く。
気だるげに上体を起こして見れば、戸口にチズコと大巫が佇んでいた。
ヤナギは慌てて立ち上がると、ふかぶかと一礼した。大巫と会うのはいつ以来だろうか。大巫は巫たちを統括する者であり、その叡智は誰よりも深いと云われている。
ヤナギも幼い頃より彼女に様々なことを教わり、今にいたっている。
大巫は手を腹の前で組み、礼を返した。
「久しゅうございます、姫巫」
「……ヤナギ様、本日は大巫様がお話をしたいとのこと。よろしいでしょうか」
チズコに問われ、ヤナギは頷く。すると、チズコは「ありがとうございます。さあ、大巫様――お入り下さいませ」と言って大巫をヤナギの寝所に入れ、自らは退席した。
沈黙が流れる。
それを破ったのは、ヤナギだった。
「大巫様……お変わりないようで良かったです」
「姫巫様も…………いえ、貴女は変わりましたね」
寂しげに大巫が笑う。その瞳は不安定に揺れていた。
「……貴女の舌に姫巫の証を刻んだわたくしを、さぞ怨んでいることでしょうね」
意外な言葉にヤナギは目を丸くする。それを肯定と取ったのか、大巫は顔を伏せた。
「守ってあげられず、ごめんなさいね」
「大巫様?」
「ああ……いけない。ずっと、それを悔いていたから……つい本来の用件を忘れてしまうところでした」
大巫は薄っすら浮かんでいた涙を拭うと、口許を引き締めた。
「姫巫よ。高天原国は姫巫がいなければ存在しない国と、昔教えたのを憶えていますか」
「は、はい。よく憶えております」
そのことを巫たちに教える時、大巫の顔は鬼気迫るものがあった。なので、ヤナギもそのことをよく憶えている。
「良かった、貴女は憶えているとは思っていましたが少々不安で。もう何年も前に教えたことでしたからね」
大巫はふっと息を吐いた。
「高天原国が懐刀――姫巫。“神の口”を持つ戦神。高天原国の全ての秘密を継承する者」
大巫は真剣な表情をしていた。
「良いですか、此度この宮に来た者たちと馴れ合ってはいけません。あれらは禍――台王や王子の目はごまかせてもわたくしの目はごまかせない。黄昏国の匂いを色濃く残している者たちでございます」
ヤナギは大巫の話を黙って聞いていた。
大巫が言う“禍”とはカガミとヤサカニのことだろう。
ヤナギは「わかりました」と返事をした。
王宮へ戻っていく大巫を、ヤナギは斎庭より複雑な気持ちで見送っていた。
(あの二人がこの高天原国に害をもたらすというの)
薄暗くなってきた空を見上げると、遠く山間に夕日が落ちるところだった。
◆ ◆ ◆
翌朝、ヤナギはいつにも増して早く目覚めた。
窓の外を見てみれば、日も昇っていない。ふくろうや虫が鳴いている。まだ真夜中であるらしい。
ヤナギは音を立てないように寝台から起き上がると、机上に用意されている装束に着替えた。今日は桃色の着物に紅色の帯、そして雪色の羽織が用意されていた。
急いでそれらを着込むと、外に出る。
思ったとおり、まだチズコたち采女も起きていないようだった。
社殿には、姫巫の世話をする采女が常駐している。采女の朝は早いのだと、いつもチズコは眠そうな目でぼやく。
ヤナギは大巫に、黄昏国から来た者たちと馴れ合うなと言われ、もう少し地下の国々のことを知らなければならないと思った。
先代より受け継いだ記憶の中にある、地下の国々の知識。それが今の現状と食い違っている可能性もなきにしも非ずだ。
戦場で見えるものも、限られている。
朝になるまで待っても良かったが、思い立ったら居ても立ってもいられなくなった。
王宮内にある書簡保管室には守人が就いているだろうから、ムロに頼み込んで入れてもらおうと考えていた。
(ムロが起きていなかったら……その時は、いさぎよく諦めよう)
ムロが夜間の警備に当たっていることを祈りつつ、神杷山を下りた。
西門軍――武官長であるムロが統括する軍――は交代で夜間の警備も担っていることを、ヤナギはチズコより小耳に挟んでいる。
武官長であるムロは、日々の責務に忙殺されながらも自ら進んで、夜間の警備をしていることも聞き及んでいた。
神杷山と梔子斎森を繋ぐ楠の木に触れる。
景色は一変し、薄暗い森がヤナギを出迎えた。
ヤナギは一目散に王宮を目指して駆け出した。落ち葉が乾いた音を立てる。地面の湿気にぬかるんでいる箇所で幾度か転びそうになりながらも、彼女は王宮に続く北門を目指す。
「…………姫巫…………」
闇を這う声がした。
ヤナギは立ち止まる。聞いたことがないはずの声であるのに、どこかで聞いたことがあるような声。
常闇洞泉のある右手の闇の方を、目を凝らすと薄っすら光る鬼火と共に、一人の男が現れた。
左目に眼帯を当てた黒髪の青年――ヤサカニは、険しい表情でヤナギを見る。
「高天原国の秘宝が何故、このような時刻に、この場所にいるのですか」
「そなたこそどうして、夜分遅くにここにいる」
問い返すと、ヤサカニは答える。
「…………チズコから、梔子斎森には数多の黄昏国の民が埋葬されていると聞きました。だから、せめて供養だけでもと思い」
「昼間にこのような場所に立ち入るのは得策でないから、この時分に来た、と」
ああ、とヤサカニはたいそう不服げに肯定した。
偶然だろうが、ヤサカニが花を手向けた常闇洞泉の近くにある墓石の下にはサコが眠っている。痛む胸を押さえてヤナギは気丈にも会話を続ける。
「そなたは、チズコを知っているのか」
「昔なじみだ」
端的にヤサカニは言葉を返す。
これにはヤナギも驚いた。チズコとヤサカニが昔なじみだという話は初耳だった。
彼は、ゆっくりと常闇洞泉を振り返る。
「あの洞穴の中に、魂が流れ込んでいくのを見ていたら数刻も経ってしまった」
「常闇洞泉の奥に何があるかは誰も知らない。行って帰って来た者がいないの。でも、私は……あの奥には常世があるのだと信じている」
「……常世……か」
感傷的にヤサカニが笑んだ。鬼火が青白く彼の右横顔を照らす。
「高天原国が“地下”と呼ぶ我々の国では、この高天原国こそ常世と、そう呼ばれていた」
ヤサカニはヤナギを今にも殺しそうな目で睨みつける。
「だが、断言できる。この国は、常世などではない。幻想だ」
ヤナギは、何故こんなにもヤサカニが怒っているのかわからなかった。まるでヤナギに対して激怒しているようにも思える。
ヤサカニは燃える瞳にヤナギを映し、一瞬の隙をついてヤナギの首もとを両手で掴んだ。
しまった、と思った時にはもう手遅れだった。ヤサカニの指にじわりと力が入った。
「九年前、あの邑を焼いたのはあなたか」
「な……にを……?」
しらばっくれるな、と怒声がとどろく。夜の静寂にヤサカニの声が波紋となって響く。
「高天原国でも有名なはず。沢良宜の一角にあった邑が、仇隠しの罪の名目で殲滅させられたこと」
よもや姫巫であるあなたが知らないはずがありますまい、とヤサカニは付け加えた。
ヤナギは息もつけぬ状況で必死に記憶を辿ってみるが、そのような話、覚えていなかった。
「……チズコの邑です」
はっとした。
「私たち家族をかくまったが故に、邑は焼かれた。そして、私の左目左耳も」
ヤサカニは左手だけヤナギの首より離し、肩に零れる髪と左目の眼帯を掻き上げた。そこには見るも無惨な左耳があった。いや、耳とも呼べない。耳の残骸と云おうか。引きつり痕だけがある。
そして、左眼があるべきところにあるのは、ただ空虚な穴。
ヤナギは目を背ける。息が苦しい。
ヤサカニは誤解しているのだ。その邑焼きは先代姫巫の仕業だ。どうにかして真実を伝えなければ、と口を開く。
「それ……は、私じゃない。先代……せん……だいが……」
ヤサカニは口角を上げた。
「私は覚えている。あなたがその場にいたことを。燃え盛る生きた炎の中、あなたはいた」
それは有り得ない話だ。姫巫でなかったヤナギに、口にしたことを具現化出来る真象の力があるはずもない。
「まだ……わ……たしは、ひめみ……こじゃなかっ……た……」
「嘘を吐くな!」
鬼の形相がヤナギの視界一面に迫る。
呼吸するのも難しくなってきた。ヤサカニは指の力を強める。
真象の力はおろか、助けも呼べない。視界が薄らぐ。ふっと意識が遠のいた。
「……殺して」
「何?」
ヤサカニの眉がいぶかしげに上がる。彼の手の力が弱まった。どっと酸素がヤナギを満たす。
「殺して、神に逆らって、私を輪廻へ戻して」
虚ろな瞳で言い放つ。それは、自分でない誰かが言っているかのような感覚がした。浮遊感にヤナギはまどろむ。
「…………」
ヤサカニは困惑したのか、瞬く。
「姫巫は、いぬ方がいいのです」
ヤナギは静かな瞳で言い切った。
ヤサカニはそんな彼女を不審げに見つめる。瞳の奥に、一縷の躊躇いの色があった。
鬼火は二人の周囲をゆっくりと回転している。
「散れ」
清廉な声が大気を切った。
その瞬間、鬼火が掻き消える。
それと同時に、ヤナギの首からヤサカニの手が外れた。いや、正確に言うと外れたのではない。何者かの出現によって外さざるを得ない状況になってしまったのだ。
ヤナギは咳き込んで、その場に座り込んだ。ようやく普段通り息ができる。
ヤサカニの体が強張っているのが視界の端で見て取れた。
「ヤサカニ」
声はヤサカニを呼ぶ。ヤサカニは声もなく地面に片膝をつき、頭を垂れた。
声は次第に二人に近づいてくる。鬼火の灯りがなくなった今、木々の隙間より地表を照らす月明かりだけが、唯一の光である。
誰なのかなど、姿かたちを確認する前からわかっていた。
声の主は、風によって舞う己の髪を鬱陶しげに払うと、ヤナギたちの前に姿を見せた。
「カガミ様……申し訳ありません」
鎮痛な面持ちでヤサカニは彼に謝罪する。それに答えるでもなく、カガミは冷えた視線をヤナギへ送った。
ヤナギの肩がびくりと震える。圧倒的な威圧感は以前助けてもらった時の安心感など一瞬にして霧散してしまうほどに強く、恐怖心をあおる。
カガミは腰をかがめてヤナギの顔を覗き込み、嗤った。それは心が凍りつくような笑みで。
彼は唇を動かす。月光を背に浴びたカガミは、どこまでも大きな存在に思えた。
「このことは他言無用にしてほしい。でなければ、今ここで――お前を斬る」
優しい手つきでヤナギの頭を撫でながら、口では恐れ戦くことを言うカガミを前にして、ヤナギは何も言えなった。
姫巫の力を使えば何とかこの場をしのげるかもしれなかったが、込み上げてくる悲愴感と恐怖感で喉がひりついていた。
ヤサカニに首を絞められていた時よりも、格段に今の方が怖かった。
カガミの目が怖い。そして、彼の言葉が刃のように心臓を突き刺す。
射抜くような瞳はヤナギの全てを見通しているかのごとく妖しく煌めいている。
「……言わないわ」
下唇を噛みしめながら言ったヤナギを、カガミは「いい子だ」とさらに頭を軽く撫ぜた。
何故か、カガミを無碍にできないと思う。どうしてなのかは自身にもわからない。
(カガミ……いえ、ハルセ。私の命の恩人)
言葉なく、ヤナギはカガミを見据える。
カガミは、ぐいとヤナギの腕を掴んで彼女を立ち上がらせた。
「送ろう」
「大丈夫、一人で行ける」
「だが――……」
カガミの申し出を楊はきっぱりと断った。
「大丈夫」
私は姫巫だから、とヤナギはつけ加え、踵を返した。
宵闇が、ヤナギの姿を隠してくれた。