6. 邂逅
僕の心は穏やかでもあり、高ぶってもいた。僕の頭の中を支配する僕ではない誰かの意思に導かれ、僕はようやくセレスチャル:セントラルエリアへたどり着いた。死体となってから早5年、機能を停止したセントラルエリアは、背の高い建物のせいでどこへ行っても薄暗く不気味だった。人ひとりいないセントラルエリアは、それだけで現状が異常であることを物語っている。僕は彼の思うままに歩いていく。不思議と疲労は感じていなかった。あのときギソウに助けられて本当に良かったと思う。ギソウに介抱されていた時間を思い出していると、また不意に視界が大きく揺れた。今度は倒れなかったが、さっき底が剥がれた方と逆の足に履いているサンダルもダメになってしまったようだ。かろうじて歩けていた今までよりも悪化してしまうとは。僕は逡巡したのちサンダルを脱ぎ捨てた。彼の意思だった。僕は瓦礫やガラス片が散らばる、かつて歩道として機能していた道を裸足で歩いて行く。時折足の裏に熱を感じる。振り返ると僕の足跡が赤黒く残っていた。しかし痛みは感じない。きっと僕の体はアドレナリンで満たされているのだろう。僕と彼は生命の気配がないセレスチャルを歩き続ける。
僕はしばらくの間セントラルエリアの中央へ向かって歩いていた。朝に見たアクア・トゥールがほぼ真上を見ないと全貌を確認できないほど近くにあった。僕はこのままセレスチャルの最奥へ向かうと思っていた。彼が僕に働きかけ、僕は突然路地を右折した。そしてセントラルエリアの唯一の居住地区へたどり着いた。唯一とは言ってもそこそこの広さをしており、視界いっぱいに戸建てが並んでいる。所々崩壊している家も見受けられた。規則正しく忙しなく区切られている居住地区を、僕は彷徨い続けた。たまに自分の血が描いた足跡を再び踏みつけたりした。彼は機会を待っているようだった。まるで何者かを待ち伏せするように、似た場所をぐるぐる動き続けている。曲がり角を曲がった回数を数えるのをやめた瞬間、僕の体に影が落とされた。
「…?」
僕が顔を上げると、誰かが僕の前に立っていた。
「え…」
そんなはずはない。だってここは誰も寄り付かない死んでいる都市の中だ。まさか僕以外にも規制線を越えた者が存在していたのか。いったいどこからやってきたのだろうか。今までセントラルエリアには人はおろか生命の気配すらなかったというのに。この場に僕以外に人間がいるとわかって、普段なら安心したのかもしれない。でも目の前に立つ人物を見て、僕は言われもない恐怖を覚えた。
僕の前に立つ者の目は虚ろで、眼球が赤黒く染まっていた。
僕は息をのんだ。ただ目が血走っているのではないと思う。それはまるで一種の力の象徴、人知を超えた何かに与えられた印のように感じられた。その人物は白い布地でできた修道服のようなものを身につけており、顔を服と同じような色の布で覆っていた。目以外が隠されており、赤い眼球の存在感を際立たせている。頭の中に警鐘が響く。僕はおそらく遭遇してはいけない者と対峙している。緊張と恐怖からにじみ出た汗が首筋を伝う感覚に我に返った。僕は謎の人物から遠ざかるために、一歩後退した。途端、目の前の人物が動きを見せた。その身に余るほどの布から覗く手に拳銃が握られていた。僕は血の気が失せた。僕が息をのむと同時に足元に銃弾を撃ち込まれた。僕は腰が抜けて、しりもちをついてしまった。
「何者だ貴様」
赤い目の男がそう尋ねてきた。声を聞いて初めて彼が男だとわかった。赤い目の男は僕に銃口を向けながら距離を詰めてくる。僕は動けない。
「答えよ」
男は銃口を僕の頭に突き付けてくる。答えなければ、何かしら言葉を発しなければ。しかし僕の体は恐怖に震え上がり、いうことを聴いてくれない。だんまりをきめる僕を男は不審そうに睨みつけた。
「……貴様悪魔ではないな?」
悪魔?いったいこの男は何を言っているのだろう。僕は混乱した。殺されるかもしれない状況に、頭が冷静に働いてくれない。どうすればいい?僕は錯乱しつつも、何とかして目の前の男から逃げようとした。すると男は銃を下ろし、しゃがみこんで僕と同じ目線の高さになった。
「さすれば僥倖。地上に堕とされ、光を失った憐れな子よ。さまよい続け、よくぞ我のもとへたどり着いた」
男はその赤い目を細めた。男が僕の腕を掴んでくる。
「お前を我らが教主様がお救いくださるだろう。その身に眠る光の種を再び芽生えさせるのだ」
男の拘束は全く解けない。全身が総毛立ち、呼吸が荒くなる。わからない。この男が何を言っているのか、これから何をされるのか。男が衣服の中からスタンガンを取り出した。男の指が側面のボタンを押すと、器具の先端に白い閃光が走る。僕は全力で身を捩った。頭を地面にこすりつけながら抵抗した。嫌だ。もうこれ以上誰かに傷をつけられるのは。男が腕を振り下ろす瞬間がスローモーションに見えた。頬に生ぬるい涙が伝う。どうして僕ばかりが。誰か、誰か……
「助けてっ…」
僕はきつく目をつぶった。
僕は死ぬことは許されない。
僕には会わねばならない人がいる。
僕の後ろから軽い射出音が聞こえた。銃弾が風を切って、男の眉間を貫いた。それが分かったのは一向に体に衝撃が来ないことに疑問を持ち、目を開けたからだ。男の眉間にぽっかりと穴が開き、そこから亀裂が走るように血が流れている。僕は情けなく悲鳴を上げてしまった。男の体から力が抜けていき、そのまま動かなくなった。
「た、助かった…?」
辺りが静かになり、僕の荒い呼吸の音だけが聞こえる。僕は震える体を落ち着かせようと、必死に酸素を取り込んだ。
「間に合ってよかったよ。キミはとても幸運だね」
真後ろから声がした。僕は気配もなかったそれを警戒し、はじかれたように振り返った。
僕の後ろに少女が立っていた。
少女は笑みを浮かべながらも、声に苛立ちを滲ませていた。
「キミ、ボクの言いたいことわかるよね?規制線内に立ち入ることは禁止されているはずだけど」
少女は白い髪をかき上げて、僕に軽蔑のまなざしを向けてきた。
「キミは見てはいけないものを見てしまった。ボクのことも、そこで死んでいる人間のこともキミが知るべきではない」
少女はいつまでも地面に寝そべっている僕に手を差し伸べた。少女の大きな瞳に僕が映っている。彼女は苦しいほどに綺麗だ。
「さあ立って、少年。キミはじきにここで見たすべてを忘れることになる。規制線内で感じたこと、侵入した理由…なんでもいいから何か言葉を遺してもらおうか。侵入者の動機と記憶を記録することもボクの仕事の一つだからね」
僕は少女と並び立つ。彼女は僕よりわずかに身長が低かった。彼女との距離が近くなると、僕の心臓が暴れだす。鼓動が正常ではなくなる。僕と彼、二人分の鼓動が体の中で響いている。彼が僕の中で消えていく感覚がした。僕と彼の境目が溶けてなくなっていく。彼は僕の意思であり、僕は彼の肉体である。少女の匂いを僕は知っている。嗅いだことはないけれど、記憶している。僕は少女を知っている。
「さあ、話してもらおうか。何も思いつかないならボクの質問に答えてくれるだけでいい」
僕は彼女を知っている。
「キミはどうしてこんな場所に足を運んできたのかな」
僕は彼女の手を取った。
「あなたに会いに来ました。トバリさん」
彼女はその美しい目を大きく見開いた。
「……キミ、どうしてボクの名前を知ってるの」
僕はトバリさんと目を合わせた後、眠るように気絶した。