5. 規制線
僕たちの会話はたまに途切れつつも盛り上がった。久しぶりに同年代の人と話せて、僕は楽しかった。
「シグレ、あんたこれからどうすんだ?」
ギソウが僕に尋ねてきた。僕は戸惑った。どうすればいいんだろうと思った。しかし、彼は困っていないようだ。
「あんたも救済所にはいけないか。ちゃんとした身分持ちでも、確認されたら家出してきたことがばれちまう可能性がある」
僕はかなりむっとした。
「救済所なんていかないよ。あそこはもっと、生きるのが大変な人が行く場所だろ」
僕はそこまで可哀想な人じゃない、と心の中で毒づいた。ギソウは「ふん」と笑い、サングラスのブリッジを触った。
「立派なこった。俺は俺がこの世界で一番生きるのが大変だと思ってるぜ。都市の人間はメンタル強者だらけだな。あのテロに遭ってから、俺は俺が世界で一番可哀想な人間だと思い込んじまってるよ」
ギソウは再び自嘲気味に笑った。僕は黙り込んだ。
「……なぁシグレ。もしあんたが困ってるなら俺に着いてこいよ。俺が世話になってる兄ちゃん紹介してやるぜ」
ギソウが僕に提案してきた。僕は魅力的だと思った。ギソウともっと話してたいと思うし、ギソウが信頼している人物にも会いたいと思う。でも彼がそれを許さない。
「ありがとう。でも大丈夫」
僕にはやらねばならないことがある。僕はギソウの厚意を断った。
「……この歩道橋で事故があったの知ってるか」
ギソウは突然言い出した。僕は「知らない」と言った。
「ここから人が人口河川に落ちて死んだんだ。不注意か自殺かはわからん」
ギソウは一層昏い笑みを浮かべた。
「あんたにさっき渡したスポドリ、その事故現場に供えてあったものだぜ」
僕は愕然とした。さっき飲んだスポーツドリンクの味がよみがえってくる。僕はひとしきり困惑した後、ギソウを睨みつけた。
「なん、何して……何で?」
ギソウは狼狽えている僕を見て、恍惚とした。
「何でって?さっき言っただろ。俺は人のそういう顔が好きだって。あんたのその顔、他とは別格だな。できれば一緒に行きたかったんだが、ここでお別れになりそうだから早めに堪能しきっとこうと思って」
僕はいろいろな感情に襲われて肩を震わせた。ギソウはよだれでも垂らしてそうな顔で僕に詰め寄った。
「怒り、悲しみ……罪悪感もイイ顔見せてくれる。なあ、あんたは今何を思ってる?」
ギソウはにやりと笑った。
「……お前を少しでもいい人だと思った僕が馬鹿だった」
僕はゆがんだ目の前の男を笑みを浮かべながら睨んだ。きっと僕の顔もひどくゆがんでいることだろう。
「ま、あんなとこに置いておいてもいずれ捨てられるか貧乏人に持ってかれるだけだしな。死にかけの命一つ救ったんなら、十分有効活用だろ」
ギソウは口笛を吹いて歩くスピードを速めた。僕は「貧乏人に持ってかれたのと変わりないのでは」と思ったが、軽い足取りで前を歩くギソウを見て、ため息をつくだけにした。
僕たちが歩道橋を渡り終えると目の前に人だかりが見えてきた。ギソウがサングラス越しに目を凝らして「おー」と間抜けな声を出した。
「あれから5年経っても、まだ人が来てるもんなんだな」
人混みに紛れ目視できないが、あの向こうにはセレスチャル:セントラルエリア全域を取り囲むように規制線が張られている。彼はそこへ行きたがっている。
「なあシグレ。あんた何でここに来たかったんだ?セントラルエリアに用事があるなんて、せいぜい手を合わせることぐらいしかないと思うんだが、あんたもその口?」
僕らは人だかりの一番後ろに並んだ。並ぶ必要があるわけではないが、市民として一応前の人が去るまで待っておく。僕らは順番が回ってくるまで、最後の談笑に花を咲かせた。
「いや…わからないけど来たかったから」
「あんたそればっかだな。ま、これから新しい人生を歩むんだ。今の都市の現状を知っておくのはいい経験になるんじゃないか」
「うん…」
「なんだよ弱気になるなよ。あんたの横にいるのは救済所行きの体でかつ記憶喪失になっても、へらへら生きのびてるタフガイだぜ。あんたも叔父から無事逃げ切ってくれよな」
「逃げ切るって、どこまで逃げたら逃げ切ったことになるのかな」
「そりゃああんたの叔父が死ぬまでよ」
規制線が僕たちの視界に姿を現した。特に障害物は置かれていない。ただ目が痛くなるほどの赤いホログラムが浮かんでいるだけだ。それでも誰も規制線内に立ち入らないのは、それが都市の常識だから。規制線内は、機能が失われた都市の遺構で溢れている。誰も死んだ都市を彷徨おうとは思わない。
「ようやっとだな」
僕たちは規制線と対面した。僕の隣で誰かが泣いている声が聞こえる。僕はゆっくりと視線を上げた。
「……」
僕らの目の前には、死んだ都市が広がっていた。僕が叔父の家に閉じ込められていた間、都市はこんなにも変わっていたのか。僕の記憶の中のセントラルエリアは、人類の栄光の集大成で…きらきらとしていて…両親との、思い出がいっぱいの……。
「シグレ、どうした?」
僕はギソウの声で我に返った。彼の表情はサングラスでわからないが、僕を心配してくれているようだった。
「大丈夫、ちょっと…びっくりしちゃって」
ギソウは規制線の向こうを眺めてサングラスのブリッジを触った。
「まあ、無理もないな。結構衝撃的だもんな」
「ギソウは前にもここに来たことあるの?」
「……ああ」
ギソウは死んだ都市に向かって神妙に手を合わせた。僕も彼に倣って手を合わせる。静かな時間が僕らの間に流れる。
「ギソウの家族も、テロで死んじゃったの?」
僕は手を合わせたままギソウに問う。ギソウは合わせていた手を下ろし、サングラスを触った。
「さあ、どうだったかな」
「覚えてないんだ」
「…………ああ」
ギソウは僕のほうを向いた。
「俺はテロの時の記憶がない。でも多分家族は全員死んじまってる。誰も俺を迎えに来てはくれなかったからな」
「ただ…」とギソウは口ごもった。
「すごく大切な人がいた気がするんだ。思い出せねえけどな」
ギソウは死んだ都市のずっと向こうを見つめているようだった。
僕とギソウの別れの時が近づいている。僕は面と向かってギソウに感謝を伝える。
「ありがとうギソウ。僕、やり遂げてみせるよ」
ギソウはにやりとした。
「おー。もう二度と会わねえといいな」
「何で?」
「俺はあんたがヘキだったから俺らのとこ連れてこうとしたんだぜ。あんたの言う通り俺はいい人なんかじゃない」
「でも…ありがとう」
「おー…」
彼をここまで連れてきてくれて。
「!?っおい!!」
僕の突然の行動にギソウが声を荒げた。周りの人々も僕を見てざわめいている。僕は規制線を飛び越えた。ホログラムが僕の体に遮られて、わずかにノイズを浮かべた。これは僕の行動でもあり彼の意思でもある。彼はずっと死んだ都市の最深部へ向かおうとしていた。
「シグレ!!」
僕らは走った。背後でギソウの叫び声が聞こえる。大丈夫。僕たちはもう二度と会うことはない。だから君が僕の行動に責任を問われることはないだろう。都市は静かだった。たとえ最深部に侵入するものがいたとしても、セレスチャルは寛容だった。もしかしたら5年の間ずっと誰かを待っていたのかもしれない。僕の体は深淵に飲み込まれていく。死んだ都市が纏う空気を冷たいと感じたのは、きっと気のせいじゃないだろう。
○
「……まじかよ」
その場に残されたサングラスの男は衝撃的な光景を前にして、そう呟くことしかできなかった。叔父の虐待から逃れるため家出してきたというやせぎすの少年、男の嗜好にそぐわしい表情をするあの少年にこれほどの胆力があったとは。呆然とする男の周りで群衆が騒然としている。そりゃそうだ。本来ここは近づくのすら憚られる恐ろしい場所なのだから。まさか恐怖の根源、未知が蔓延る深淵に自ら飛び込んでいく市民が現れるなど誰も思うまい。男はサングラスのブリッジを押し上げ、規制線に背を向けた。群衆がこぞってセントラルエリアへ自らの携帯端末を掲げている。激しく光るカメラのフラッシュを浴びながら、男はサングラスをしていてよかったと思った。
「……二度と会わねえといいな、と言ったんだがな」
男は生気のない顔をした少年を思い浮かべた。男の口角がみるみる上がっていく。
「あんたの叔父の家よりよっぽど地獄みてえな場所に行っちまった」
男の喉からくつくつとした笑い声がこぼれる。
「俺も一緒に入っときゃよかったな…」
男は深淵に蹂躙される少年の、極上の表情を想像し高笑いを披露した。男はその笑い声とともに都市の喧騒の中へ消えていった。