4. サングラスの男
サングラスの男は僕を歩道橋の柵を背もたれにして座らせた。体が揺れたことで吐き気が復活するが人前で吐くのは嫌だったので我慢する。ぐらぐらと揺れる視界に一本のペットボトル飲料が差し出された。僕はふたを開けてそれを飲もうとする。すると男が「ゆっくり飲め」と僕が傾けたボトルの角度を調節した。僕は素直に従う。人工的な甘さと喉奥に残る酸味、典型的なスポーツドリンクのようだ。通行人の一人がサングラスの男に話しかける。
「あの、いいのですか?救急車を呼んだほうが…」
若い女の一言に乗じて、先ほど救急車を呼ぼうとしていた男が声を上げた。
「君いったいどういうつもりだ?それと早く私の携帯をかえしてくれ」
サングラスの男が立ち上がり、手に持っていた携帯を持ち主に返却した。そして通行人に向けて演技じみた大声で話し始める。
「いやー手荒にして悪かったな、旦那。こいつ俺の連れでさ。発作持ちなんだ。規制線前で手を合わせたいって聞かなくてよ」
サングラスの男は座っている僕を親指でさす。僕は黙っていることにする。
「急に倒れたのははしゃぎすぎで走ったせいだな。お騒がせしてすまなかった」
へらへらとサングラスの男は周りに向けて謝罪した。未だざわめく通行人をよそに、彼は僕に手を伸ばす。
「支えてやるから立て。そろそろこの場を切り抜けないと怪しまれる」
僕にしか聞こえないような声量でサングラスの男は言った。僕は彼の肩を借りて立ち上がる。幾分かましになったが、めまいはまだ収まらない。立ち上がった僕を通行人が稀有な目で見る。僕はその場しのぎの噓とはいえ、少し不快になった。
「ああ、そんな目で見ないでやってくれよ。こちとら病院帰りなんだ、普段は「救済所」でおとなしくしてるさ。念のためこいつに金目のものも持たせてないし、トラブルは起こさねえから安心してくれよ」
サングラスの男は僕の様子を一瞥した後そう言った。彼はニヒルな笑みを披露する。
「それに、誰しも異常を隠しながら生きてるだろ?この都市では。あんまりこいつばっか目の敵にしないでくれよ」
「いい大人がさ」と付け加えて、サングラスの男は僕を連れてその場を後にした。
サングラスの男は僕に歩調を合わせて歩いてくれた。僕らはゆっくりセレスチャル:セントラルエリアへと向かう。僕らと同じ方向に行く人で、手に花束を持っている人がいる。すれ違う中に泣いている人がいる。みんなセントラルエリアへ大切な人を偲びに行ったのだろう。
「悪いな、ましな嘘がつけなくてよ」
サングラスの男が僕に謝罪した。僕は慌てて返答する。
「いや、助けてくれてありがとう、ございます…」
なぜサングラスの男が僕を助けてくれたのかわからないが、一応お礼を言っておく。彼はサングラスのブリッジを指で直した後、僕を上から下まで舐めるように見た。
「いいけどよ、あんた家出してきたんだろ?なかなかな身なりしてるもんな」
サングラスの男はにやりと笑った。僕はむっとしたが事実なので何も言わない。サングラスの男は僕の反応に眉をしかめると、再び話しかけてきた。
「なあ俺に何も聞かなくていいのか?俺は質問されない限り何も言わないぜ」
僕は男の全身を観察した。サングラスで目元が隠されていることはもちろん、真夏だというのに黒のタートルネックの上から黒のチェスターコートといういで立ちが怪しさをさらに加速させている。この男のおかげで窮地を脱することができたのは事実だが、面識のない男がなぜ僕と接触してきたのかが僕にはわからなかった。僕は男を警戒しつつ、慎重に対応することにした。
「あの、どうして僕を助けてくれたんですか?たしかに僕は住んでいた場所から抜け出してここまで来たし、救急車を呼んでほしくなかった。でもあの時どうやっても声が出せなくて…。えっと、あなたはどうして僕が助けてほしいとわかったんですか」
「それはあんたが家出少年だからよ。俺も似たようなもんだしな。ほっとけなかったんだ」
男は少し考えこむようにした後、にやりと笑った。
「俺のことはギソウとでも呼んでくれ。昔いろいろあって、自分の名前すら忘れちまってんだ。今は頼りになる兄ちゃんのとこでいろいろ偽装した身分で生きてるからな」
ギソウは乾いた笑い声をあげた。僕は話の続きを促すべく黙っている。
「んで、なんであんたが困ってることに気づいたかだっけ。そりゃああんたの顔が見えたからだよ。今はいまいちさえない面してるが、さっきはすごかったぜ。『俺の邪魔をする奴全員殺す』って顔してたもんな。俺は人のそういう瞬間に敏感でよ。あんたを助けたのはほっとけなかったのが2割、そういう俺好みの顔してたからってのが8割の理由だな」
僕はぎょっとした。僕の顔を見てギソウがにやにやしている。
「気味悪いか?そう冷たいこと言うなって。たしかに俺は怪しい。かっこも性癖もずれてる。だがなかっこに関しては変な目で見られないためにやってんだ。好きでやってるわけじゃない」
ギソウはタートルネックを下げ、首を露出させた。そこにはおびただしい面積の痣のようなものが広がっていた。
「驚いたか?全身にあるんだぜ、これ。それに左手もしびれて動きづらいんだ。こんな体、普通都市にいたら救済所行きだろ?でもあそこに行くには正確かつクリーンな身分が要る。だから年中こんなかっこしてるってわけ」
僕は言葉が出なかった。「誰しも異常を隠しながら生きている」。このセリフは彼自身の心の奥底にあるものなのだろう。僕は彼が僕を救済所通いの人間だと偽ったことを責めたかったが、良心が痛みその考えは消えた。
「…どうしてそれを僕に教えてくれたんですか」
僕はわずかにギソウへの警戒の糸を解いた。ギソウは「うーん」と考えた後、またにやりと笑った。
「あんたからは口が堅いにおいがしたんでな。隠し事が多い人間はほかのやつの隠し事もむやみに話さない。俺の経験上そう思ってる。さっきも言ったが、俺もあんたと似たようなもんだ。記憶が飛んじまってるが、家に嫌な思い出があったことは覚えてる。具体的なことは思い出せないが」
ギソウは僕を再び品定めするように見た。
「というか敬語とか使わなくていいぜ。歳近いだろ、多分」
「俺17な」と言い、ギソウはサングラスのブリッジを押さえた。僕は内心驚いた。ギソウはなんとなく、僕より年上に感じたからだ。
「そう…。僕も17歳」
「タメか。なら遠慮はいらねえな」
ギソウは僕に顔を近づけてきた。相変わらず彼の目は確認することができない。
「あんた名前は?いや、何て呼べばいい」
「...シグレ」
迷ったが、彼が世間に隠していることを話してくれたので本名を教えた。
「シグレ、なんで家出してきたんだ?おっと。答えたくなかったら何も言わなくていいぜ。ま、俺があんたの質問に答えたことを含めて判断してほしいが」
「いいよ。ギソウになら」
ギソウはにやりと笑った。僕は叔父の家に住む怪物たちのことを彼に話す。
「テロで両親が死んでから、行く当てがなくなって臨時被災者施設で暮らしてた。でも3年くらいたって急に叔父が僕のことを引き取りにやってきたんだ。あのとき叔父がやってくるまで、僕は叔父の顔も声も知らなかった。父さんに弟がいることは知ってたけど、今まで会ったことなくて。だからすごくびっくりした」
ギソウは「ふーん」と相槌を打つ。僕は昔のことを思い出しながら話し続ける。
「叔父の家で暮らすことになってから、僕はいじめられるようになった。ほぼ毎日叔父に部屋から連れ出されて、叔父の家族と使用人の前で殴られるんだ。その人たちは僕を見て笑ってた。たまに物を投げられたりもした。ひどかった、と思う。あの家じゃご飯も満足に食べさせてもらえなかったし、新しい服もくれなかった。…僕も好きでこんな格好してるわけじゃない」
「あんた十中八九栄養失調だもんな」とギソウは眉間にしわを寄せて僕を見た。
「それで気が付いたら2年が経ってて、それで……。よく思い出せないけど、なんだか急に家を出たくなって出てきた」
ギソウがまた気の抜けた相槌を打つ。
「ふーん。そんで暑さにやられて倒れたのか」
僕は叔父の家での出来事を思い出そうとする。あの時僕は何をしようとした?どうして都市をさまよっている?僕は誰かに会いに行かなければならない。頭の中が自分の使命でいっぱいになった瞬間、僕は自分が叔父の家のキッチンで喉に包丁を突き立てる光景が見えた。
「あ、僕死のうとしたんだ」
ギソウが一瞬目を見開いた。僕は突然、叔父の家のキッチンで自害しようとしたことを思い出した。しかし、何故だろう。僕の手には確実に首を切った手応えが残っていた。しかし、僕はまだ生きている。
「…へえ。そんで今は死にたいと思う?」
ギソウは僕ではなく、歩く先を見ながら尋ねてきた。僕は絶対的な確信をもって答える。
「ううん、僕は死ぬことは許されないから」
ギソウは少し間を開けてから「そう」と言った。