3. 家出少年
僕が目を覚ますと、すでに日が昇りかけていた。傷一つない首筋を撫でて辺りを見まわす。僕はまた夢を見ていたのだろうか。先ほどまで誰かに話しかけられていた気がするのだが、記憶が曖昧ではっきりと思い出せない。実を言うとキッチンに倒れていた見当もついていない。僕は立ち上がり伸びをする。不思議と体の調子が良かった。昨日叔父に殴られたのが嘘みたいだ。僕はキッチンを後にする。なぜか壁掛けラックから包丁が一つ床に落ちていたが、特段気にすることはなかった。廊下を進み玄関に向かう。この家の住人に気づかれたら大変な目に遭うことは理解しているが、自分の部屋に戻るという選択肢は僕にはなかった。玄関から外に出ねばならない。この考えに僕は支配されていた。靴箱を漁り、奥に眠っていたサンダルを拝借した。そしてそれを身につけた後、当然のようにドアノブを回し、僕は外へ飛び出した。僕がこのドアノブに触れたのは、今回が初めてのことだった。
盛夏の都市は日差しがとても強い。まだ早朝に分類される時間だというのに、危険な暑さが僕に纏わりつく。叔父の家に連れてこられたときに持参していた冬物パーカーを身につけているため、体から生じた熱が襟ぐりから上って頭が茹った。歩き始めて数分だというのに体が汗まみれになり、不快だった。しかし僕は歩き続ける。あの家に戻るつもりはない。頭が働く前につま先が向いた方向へ進み続ける。僕には会わねばならない人がいる。
2年ぶりに見る都市は、最後に見た時とあまり変わっていないようだ。どこまでも続くビル群、歩くのが速い市民たち、セレスチャルの公道の役割を果たす人工河川。最後に僕が車に乗ったのは叔父に臨時被災者施設から連れてこられる時だ。他とは違う妙なデザインの叔父の車は、車に明るくない僕でもわかるほど高級車の匂いをさせていた。人工河川には透明な水が穏やかに流れている。時折通過する車によって水が左右にかき分けられていく。道行く市民が僕に注目している。声をかけられることはないが、すれ違う者はみな不審な目で僕を見た。無理もないだろう。僕は最後に風呂に入った日を思い出せないし、服だって自分で持ってきた数着を着まわしているのだから。僕は時折路地に潜り込んで嘔吐した。熱中症となった体が危険信号を出している。嘔吐するたびに酸っぱい臭いの胃液だけが吐き出される。吐けば吐くほど脱水状態が加速するが、吐き気にあらがうことは叶わなかった。
僕は都市を歩き続ける。今いる場所はどのあたりだろうか。僕がいた臨時被災者施設はセレスチャル:ウエストエリアにあった。僕のかつての家もそこにあるはずだ。叔父の家は比較的都市の中心に近いところにあった。移動してきたルート的にセレスチャル:サウスウエストエリアあたりだろうか。僕はおそらくそこから北上している。つまりセレスチャル:セントラルエリアに向かっているということだ。僕には僕のものではない意思が存在している。さすがに気づいていた。かつての僕なら考えようもない行動を僕自身は起こしている。自室から抜け出すことも叔父の家から脱出することも、どちらも僕にとっては意味のないことだった。しかし現状僕は都市をさまよっている。僕じゃない誰かの意思に従えば、彼の正体が判るのだろうか。今の僕には彼の目的が見当もつかなかった。セントラルエリアは5年前の大規模テロにより現在も全域立ち入り禁止となっている。そんな場所に行って何か得られるはずもない。それでも僕と彼は都市を歩き続ける。
ごうごうと奔流が僕の足元で唸る。ここは都市で一番大きい人工河川だ。その上に跨る歩道橋を僕は渡る。歩道橋から人工河川を眺める。遠くで河が湾曲し、行く先がビルに隠されている。この人工河川はセレスチャル:セントラルエリアを取り囲むように位置し、セレスチャルの全エリアへと枝分かれしている。「主要道川の名称くらい覚えておけ」と誰かに言われた記憶がある。僕は車を運転しないのだから、そんな必要はないと思う。河の上は地上よりも涼しい風が吹いている。当然のことだが、大きな人工河川の近くに来ればより一層水の匂いを強く感じた。僕は上を見上げる。正確にはセレスチャルの中央にそびえ立つ高い建造物を見上げる。高さ1000mの巨大な塔、かつて観光地としても名を馳せたセレスチャルのすべての水を管理する都市の心臓。「アクア・コントロール」内に設置されている「アクア・トゥール」が僕の視線の先に鎮座していた。5年前の煌びやかさは影もない。所々が爆発によって損傷し、倒壊する不安は感じないものの完全に廃れた印象を持たせる。まるで眠っているかのようだ。それもずっと深く。あの塔が目覚める日は二度と来ないんじゃないかと僕は思う。光を失ったアクア・トゥールは今や僕らに日陰を作るだけの存在だった。
僕は再び日陰を歩き始める。すると突然目の前が回り、僕は床に倒れこんだ。膝と顎に鋭い熱を感じる。どうやらサンダルの底が剝がれてしまったらしい。僕は舌打ちをして起き上がろうとする。しかしどうやっても体に力が入らなかった。腕を動かそうと、足を動かそうと僕は懸命になるが、指の関節をわずかに曲げることしかできない。一向に起き上がらない僕の様子を見て通行人がざわめき始めた。数人が僕のもとへ駆け寄ってくる。
「どうした。大丈夫か」
「ひどい顔色…。熱中症?」
いつしか僕は大勢に囲まれていた。僕に献身的な人間は3名ほどで、その他はただの野次馬でしかないが。しかしまずいことになった。このまま救急車を呼ばれて病院に運ばれでもしたらここまで歩いてきた意味がなくなる。あの家の住人が僕を捜索しているのか知らないが、病院で確実に身元を確認されるだろう。叔父の家に連れていかれることは何としても避けたかった。僕の中にいる彼がそれを激しく拒否しているからだ。僕は何とかして声を出そうとする。しかし、空気が吐き出されるだけで慌てている彼らには気づかれもしなかった。
「君、聞こえるか?今から救急車を呼ぶからな」
かすんだ視界に男が電話をかけている様子が映った。「やめてくれ」と彼が悲痛な叫びをあげた。僕は歯を食いしばることしかできなかった。
(邪魔をするな…!!)
「あー、失礼。ちょっとどいてくれ」
電話をかけていた男の手から、何者かの手によって携帯が取りあげられた。流れるように携帯の電源が落とされる。電話をしていた男がわずかに抗議の声を上げると、それを制するように何者かが僕に近づく。
「やっとみつけたぜ…。ちょっとはしゃぎすぎだな」
サングラスをかけた男が僕を覗き込んだ。