28. 失われた傷心
「今日はもう戻っていい。…気を引き締めておいてくれ」
八咫烏本庁に存在する九命猫の人事部にて、マサヨシは招集をかけた警察官に帰宅を促した。その顔に生気は宿っておらず、平生と変わらぬ声色を作ってはいるがかなり無理をしていることが、他人から見ても明らかだった。解散を言い渡された三人の少年少女は顔を見合わせながらその場にとどまっていた。何やらこそこそと話をしているようだが、マサヨシは彼らに状況を尋ねるだけの気力もなかった。心の中で「早く帰ってくれ」と思いながら、机の上にある資料をうつろに眺めていた。そんなマサヨシの様子を目を細くして観察していた少女が、何やら二人の少年に耳打ちする。そして一人マサヨシのそばに近づいていった。その後ろで少々強面な少年が彼女の行動に不服を訴えていたが、もう一人の少年に制止させられてしぶしぶ人事部長室を出て行った。マサヨシは自分のデスクの前に立ち、顔を覗き込んでくる少女に不機嫌に対応した。
「……まだ何か用があるのか、トバリ」
トバリと呼ばれた少女はマサヨシの態度を意に介していないようで、彼に笑いかける。彼女の様子を見てマサヨシは諦めたように項垂れた。
「……話があるなら手短に頼む。新たな作戦の件で、俺たちにも仕事が大量に回ってきているんだ」
トバリは項垂れたマサヨシを下からのぞき込むようにしてデスクのそばにしゃがんだ。上目遣いになった彼女はいつもより幼げに見えた。
「慰めてほしい」
トバリはそう言って机の上に顎を乗せた。舌の動きが制限されたことにより、彼女の声がたどたどしくなる。
「……親しかった者が亡くなって、心が苦しいんだ。でもボクは仲間たちに泣き言を言いたくない」
マサヨシはトバリの言葉にわずかに顔を上げた。
「俺には聞かせてもいいのか」
マサヨシが尋ねるとトバリは控えめに頷いた。
「迷える部下を助けると思って、少しお話しようよ。マサヨシ人事部長」
マサヨシはトバリを対面式のソファに座らせると、愛用のコーヒーメーカーを起動した。
「コーヒーしかねえが飲むか?砂糖はいくつ欲しい」
トバリはこちらを振り返らずに尋ねてきたマサヨシの背を見ながら答える。
「ありがとう。砂糖は必要ないよ」
やがて運ばれてきたコーヒーを見て、彼女は少し驚いた。
「……こういうときは砂糖と同時にミルクも入用かどうか聞くものじゃないかい?」
机に置かれたカップのうち、トバリに用意されたものはマサヨシのものと比べて、明らかに乳白に近い色をしていた。
「ガキのうちはブラックなんて飲むな。どうせそのうち嫌になるほど浴びる羽目になるからな」
トバリはむっとした顔でコーヒーの味がするミルクを啜った。
「キミはブラックしか飲まなそうだし、まさかミルクと砂糖が常備してあったなんて思わなかった」
トバリは子供向けのおもてなしをされたことが気に食わなかったようだった。マサヨシは彼女の意表を突いたことに少々気分がよくなった。
「部下が勝手に持ち込んでそのままだったんだよ。『ブラックの飲みすぎはやめろ』ってな」
マサヨシは「まさかこんなところで役に立つとは」と、純粋なコーヒーを味わった。トバリはわずかに口角が上がったマサヨシを見て、とある確信を得た。
「そうか。ヨシミツさんの親切心だったのか」
「……何でそう思った」
マサヨシはわずかに目を見開いた後、静かに尋ねた。トバリは得意げに答える。
「あたりかな。ヨシミツさん本人からキミの話をよく聞いていたんだよ。かつて、ボクたちがマサヨシ人事部長の世話になっていると話したら、彼は目を輝かせて『彼は僕の同期なんだ』と教えてくれた。キミたちは素敵な友人同士だったんだね。ヨシミツさんがキミの仕事場に足繁く通っていたことも、納得がいくくらいに」
マサヨシは頭を抱えてため息をついた。
「あいつ…好き放題しゃべりやがって…」
眉間にしわを寄せるマサヨシに、トバリは追い打ちをかけた。
「ヨシミツさんのもとで働くコハルとシグレ少年からも、キミとヨシミツさんが親しい間柄にあることを聞いていた。キミたち二人が気心の知れた仲であることは、ボクたちの周知の事実さ」
マサヨシはとうとう仰け反ってソファの背もたれに全身を預けてしまった。
「…俺がただの上司と部下に見せようとしてた努力は何だったんだ……」
トバリは普段通り優位に立つと、マサヨシに見えないところでいたずらっぽく笑った。
「なにも恥ずかしがることはないじゃないか。信頼を寄せる友人が部下であるなんて、頼もしいの一言に尽きるだろう?」
「俺は立場を考えたうえで隠していただけだ!上司が一人の部下を『友人だ』なんて言っちまったら、他の奴らが気を遣うだろう」
そこまで言うとマサヨシは友人が一体どんなつもりで自分たちの関係を彼らにばらしたのか、途端に不安になった。
(こいつらにプライベートまで握られるのはごめんだ…。というか、あいつは自分の上司が友人であると周りに聞かせることに、抵抗はなかったのか…?)
トバリは何やら考え込んでいる様子のマサヨシに、再びしたり顔になった。
「キミとヨシミツさんがただならぬ関係であることは、人事部の皆さんも気づいていたみたいだね。以前コハルから聞いたのだけれど、本庁でキミに報告をしに行った際人事部職員の方々からこぞって尋ねられたそうだ。『部長と一体どんなご関係ですか?』と。ふふ、普段活力を感じられない上司が途端に元気になるものだから、ヨシミツさんのことが気になって仕方なかったみたいだよ」
トバリは各自仕事に取り組んでいる人事部の老若男女をガラス越しに眺めた。彼らはマサヨシのことを特段慕っている。彼が心の安らぎを得られる方法を見つけてからは、彼らもヨシミツさんのことを歓迎するようになったのだろう。トバリは指先でガラスの向こうをなぞりながら告げた。
「ヨシミツさんとキミはただの部下と上司である…そう思っていたのはもはやキミだけだよ。マサヨシ人事部長」
マサヨシはトバリの言葉にぽかんと口を開け、やがて頭を掻きむしった。
「……言いたいことはあるが、あいつらが無駄に気を使っていないならもう何でもいい…」
トバリはそんな部下想いの人事部長を見て、にやにやと笑った。マサヨシは彼女の様子に気づくと、いつもの調子でトバリに食って掛かった。
「おい、何の顔だ?何を考えている」
「キミは相変わらず部下思いだな、と思っていたんだ」
「だから俺はそんなつもりはないと、何度も言っているだろ…」
そこからの時間、二人はしばらく談笑をしていた。いつものような軽口の応酬や近況報告、関わった事件に関する意見交換など、立場を逸脱することはなくともお互いに気兼ねなく会話をした。
トバリはこの穏やかな時間を享受していた。そして会話の合間にしきりにマサヨシのことを観察する。目の下の隈、やつれた顔。なにもかもいつも通りで、どんなに話をしたとしてもやっぱり彼は言葉に弱音や不安を含ませることはしない。
「……というか癒月隊員はなぜヨシミツの話を逐一お前らに共有する…」
「コハルは、ヨシミツさんのことが大好きだからね。彼の喜びは彼女の喜びに等しいんじゃないかな。ボクも喜ばしい出来事は人に共有したくなるよ」
トバリが何気なく口にすると、マサヨシは一瞬言葉に詰まり悲しそうな顔になった。
「そうか…じゃあ悲しい別れになっちまったな……」
トバリは彼の言葉に、一瞬大きく目を開いた。急に黙り込んだトバリをマサヨシが一瞥する。
「……そうだ、そもそもお前の傷心をどうにかするために時間を取っていたんだったな」
マサヨシは両膝に肘を置いて前傾姿勢になった。
「俺が何かしてやれるとは思えないが、話を聞くぐらいならできる。…こういうときは気持ちを口に出させて受け止めてやるのがいいんだったか?まあ、なんだっていい。お前が満足するまで俺は付き合うよ、トバリ」
マサヨシは眉尻を下げて、穏やかな表情を作った。
「お前が元気になったら、癒月隊員含め仲間を元気づけてやってくれ」
その言葉にトバリは唇を震わせながら返した。
「……コハルなら、大丈夫だ。ボクが居なくても……大丈夫だ」
マサヨシは彼女の言葉に肩眉を上げた。トバリが泣きそうになりながらそんなことをいう意味が分からなかった。
「お…おい、どうした?何か気に障ったか…?」
マサヨシがおずおずと尋ねると、トバリは揺らいだ瞳をマサヨシに向けた。
「あの子は……きちんと『助けて』と言える。対等な立場で接することができる仲間が周りにいる。彼女は助けを求める相手を選ぶことさえできる」
そしてきっとした顔でマサヨシを睨んだ。
「ではキミは?今のキミは誰かに助けを求めることを、手段として用いることを忘れていないか?知っての通りキミとヨシミツさんが親しかったことは、ボクだって他の班員だって知っている!皆キミを心配しているんだ、マサヨシ人事部長…!大切な人を亡くすことの苦しさはボクだってわかっているはずだ。だからキミが抱え込んでいる気持ちをボクは受け止めることができる!…それなのにキミはボクのことは気にかけるくせに、自らの傷心を労わる素振りは全く見せない…!」
トバリはマサヨシにまくし立てる。マサヨシは豹変した彼女を見て固まったまま何も言わない。
「…ねえ、マサヨシ人事部長。キミにとってヨシミツさんは心の拠り所に等しかったんじゃないかい…?『悲しい別れ』という言葉を、他の人の慰めに使っても正気でいられる?彼がいなくなってしまって、一番苦しいのはキミであってもおかしくないんだよ」
トバリは胸に手を置いて、悲痛な顔で訴えかけた。
「今、本当に傷心を癒すべきは、キミだ」
「…………」
マサヨシは彼女の言葉に目を見開いた。目の前に、動かなくなった友人が横たわっていた、あの狭い部屋の映像が流れ込む。耳鳴りとともに、雑音に混じった友人の最期の声が響く。あのときどんなにこちらから叫んでも、あいつに声は届かなかった。端末から聞こえる情報に呆然とし、そしてあいつの命が消えた音を聞いた。それが「聞き間違いであってくれ」と願いながらすべての作業を放り出して覆面事務所に派遣部隊を送った。そして血濡れのあいつが運び込まれたとき、どこかしらの血管が破裂したと錯覚するほどの強い怒りで目の前が真っ赤に染まった。しかし、あいつが帰ってくることはないと分かってしまった以上、嫌に心が落ち着いた。激情とともに流れるはずの涙は過去にすべて流してしまい、もう一滴も残っていなかった。微塵も濡れない目に気が付いたとき、自分はもともと喪失に慣れていたことを思い出した。あいつがいなくなった今、孤独にさらに近づいただけだ。湧かされる感情が底をついた中年では、こんな風にしか友人の死を捉えられなかった。
「…………俺は……」
マサヨシは静かに口を開いた。目の前の苦しそうな少女を救うため、言葉を送らねばならないと思った。
「…俺は、大丈夫だよ。お前みたいなガキが、こんなおっさんのせいで不安にならなくたっていい」
マサヨシにとってこの言葉は本心だった。マサヨシは自らの意思で組織のために犠牲となった友人に、背中を押された気がした。そうだ。犠牲になるのは、俺たちのような大人からでいい。友人がそうしたように、今度は自分が若い奴らを守らねばならない。それが彼らに対する贖罪になると信じて。
「おっさんは自分の機嫌は自分でとれる。でもまあ、お前が心配してくれてるのは嬉しいよ。ありがとな、トバリ」
マサヨシは穏やかな笑顔をトバリに向けた。すると、トバリの瞳から大粒の涙が零れた。
「!?」
マサヨシはぎょっとして思わず立ち上がった。マサヨシがおろおろとトバリの周りをうろつく間にも、彼女はすんすん泣き続けている。
「お…おい、どうし……」
「ボクじゃ、力不足なのかい……?」
聞こえてきた声は、蚊の鳴くようにか細かった。しかし、マサヨシの脳内に響き渡った。
「ボクは…ボクですらヨシミツさんが奴らに殺されたことにひどく打ちひしがれた。そのときはっとしたんだ。『ボクですらこんなに心が苦しいのに、彼と特別な関係にあったキミは?』って……」
トバリは濡れた双眸をマサヨシに向けた。
「ねえ、ボクはキミまで失いたくないんだ。ボクは知っているよ。大人だって、誰かに心のケアをしてもらう必要があるんだ。『自分の機嫌は自分でとれる』?あれだけの喪失を経験してそんなことを言えるなんて…そんなの、感覚が麻痺してしまった者の考え方だよ!キミがこのまま向かう先は破滅以外の何物でもない!」
トバリは立ち上がってマサヨシに詰め寄った。
「キミにとってのヨシミツさんの代わりになれるとは思っていないけど、ボクだってキミの話を聞くぐらいできる!このまま気持ちを一人で抱え込むなんて、許さないよ!!」
トバリは泣きながら力強く言い放った。マサヨシは自分を見上げている少女の言葉に、目頭が熱くなった気がした。
(俺は…こいつにそんなに大事にされていたのか……)
「…………」
マサヨシは息をついてソファに座りなおした。そして観念したように笑った。
「…そうか。そうだな。お前の言うとおりだ。ガキに頼るなんぞ情けない…なんていう妙なプライドが邪魔して認めたくなかったが、俺はもっと誰かを頼るべきなんだな」
マサヨシは困ったように笑って、トバリを見上げた。
「いっちょ頼まれてくれないか?トバリ。俺が自分の気持ちを認められるまで…慰めてくれ」
マサヨシの言葉を聞いたトバリは少し固まった後、濡れた瞳を輝かせて意気揚々になって着席した。
「……うん!まかせておくれよ!ボクは班長として仲間のメンタルケアもこなしているんだ。キミもボクの手腕に満足してくれるはずだよ!」
マサヨシは急に上機嫌になったトバリに少々面食らいつつも、思わず吹き出してしまった。子どもというものは大人に頼られると妙にやる気を出すことがある。マサヨシは過去にそう教えてくれた、大切な記憶の中にいる我が子の顔を思い出しながら、トバリに他愛のない友人との思い出を語った。
マサヨシは思い出話に夢中になっていたようで、ふと気が付くと部屋の外が騒がしくなった。先ほどまで黙々と作業に取り掛かっていた人事部職員が、思い思いに息抜きをし始めている。話し込んでいるうちに昼休憩の時間が来たようだ。マサヨシはいつまでも向かいの席に座る少女を拘束するわけにはいかないと思い、やんわりとトバリに帰宅を促した。
「…そろそろ帰れ。他の奴らも待ってるだろ」
マサヨシが立ち上がると、トバリもしぶしぶ部屋の出口へ向かう。彼女は扉の前でマサヨシを振り返り、むっとした顔を見せた。
「なんだ?…俺はもう大丈夫だよ。お前がおせっかい焼いてくれたおかげでな」
マサヨシが笑って見せると、トバリは結んだ口を解いてマサヨシに忠告した。
「これからは、ちゃんとボクを頼ること!キミが言うプライドとやらに自分の心を殺されないようにすること!それから…本当はホムラとカスミも残ってキミと話したがっていたこと、知っていてほしい」
トバリは扉を開け、マサヨシに手を振った。
「…じゃあね、マサヨシ人事部長!また会おう!」
そのまま颯爽とオフィスを進んでいくトバリをガラス越しに見つめながら、先ほどの彼女のセリフを噛み締めていた。
「『また会おう』か…」
マサヨシは友人との最後の会話を思い出す。
「……お前が俺についた嘘は、あれが初めてだな」
滞った仕事を再開するため、マサヨシは自分のデスクに座った。積み重なった紙の束のうち一つを手に取り、文書に視線を落とす。
「…………?」
紙の束にいくつか雫が落ちた。じわじわと滲んでいくインクに、一瞬何が起こったのかと困惑した。しかし、頬に何かが伝う感覚に雫の正体を知る。目元に触れた指先は確かに濡れていた。
「……俺はまだ、泣けるんだな」
一度湧いた感情が目から溢れていく。
「ヨシミツ…………」
手の甲に額を押し付け、止まらない涙をただ机の上に落としていく。マサヨシは静かになった部屋で、自らの震えた息遣いと鼻をすする音だけを聞いていた。
〇
僕とコハルは八咫烏本庁のカフェテリアで三人の帰りを待っていた。遅めの朝食はすでに食べ終えて、食後のお茶をしているところに、ホムラとカスミが合流した。カスミは僕たちが飲食をしているところを羨ましそうに眺めて、限界と言わんばかりに腹を撫でた。
「腹減ったなー…なあ、俺らも飯食わねえ?トバリはまだ時間かかりそうだしよ」
カスミは隣にいるホムラに提案した。ホムラも空腹だったようで、すぐに了承する。
「そうだな。…トバリには申し訳ないが、先に済ませてしまおう」
二人は僕らに手を振って朝食を買いに行った。先ほどまで食後の眠気に負けそうになっていたコハルは、二人が来たことですっかり目を覚ましたようだった。
「……そういえばもう午後になっちゃうね。お昼休憩まではまだあるけど、人が多くなる前にここを出た方がいいかも」
コハルは腕時計を確認して、周囲を見渡した。僕たちが来た時より人がまばらに増えてはいるが、それでも自分の食事をする音が聞こえるくらい静かだ。多くの職員を抱えている本庁なのに、こんなに時間帯によって混雑する時間が違うのか、と驚きを覚える。
(……人が多いところは苦手だ。前にカフェテリアに来た時みたいに、また嫌なことを言われるかもだし……)
僕は前回のように八咫烏職員から指さされることが怖かった。コハルの言う通り本庁が昼休憩になる前に退散したい。僕がそわそわしているとカスミとホムラが戻ってきた。彼らは空いている席に座ると、手を合わせて食事に取り掛かった。コハルは隣に座ったカスミが食べているカレーに興味を持ったようで、にこやかに彼に話しかける。
「それ、おいしそうだね。ちょっと辛そうな見た目してる」
「これな、すげえうまいよ!やっぱ店で出してるカレーはスパイスとかたくさん使ってるんだろうな。家でもこういう感じのやつ作ってみてえんだよなー」
「いいね。今度色々なスパイス買いに行こう。辛すぎるのはダメだけど、カスミが作ったやつなら食べてみたいな」
コハルの提案にカスミはあからさまに嬉しそうにした。
「いいなそれ!じゃあ次の休みに新しくサウスエリアにオープンしたモールに行こうぜ!……あ、あ~…つっても、次の休みはいつになるかわからねえけど…」
カスミは申し訳なさそうに頬を掻いた。彼の反応にコハルは少し悲しそうに笑う。
「そっか…、そうだよね。気にしないで、カスミ。これから色々体制が変わっていくだろうし、皆も新しい任務で忙しくなるよね。………私はこれからどうなるんだろう」
コハルは笑顔を浮かべてはいるが、沈んだ声をしていた。僕は彼女の発言にはっとする。ヨシミツさんが亡くなった今、九命猫の覆面事務所は一体どうなるのだろう。主に情報戦に関わっていた僕とコハルは、この先どこで任務にあたることになるのだろうか。
「……『猫の足跡』はこれからどうなるの?」
僕は仲間たちを上目に見ながら恐る恐る尋ねた。職場が想定外の事態に陥ったのだ。僕はこれから組織のお荷物になってしまうのではないかと不安だった。僕の質問にホムラとカスミは、お互い顔を見合わせて答えを思案しているようだった。特段悩んでいるカスミがしどろもどろに意味を持たない言葉を発している。
「あー…、それはだな……なんていうか、俺の口から言っちまっていいのか……」
うんうん唸っているカスミを横目に、ホムラがいつもと変わらない無表情で答えた。
「それは後の作戦共有のときにトバリから詳しい説明があるだろう。俺たちも上の決定は知っているが、俺たち個人の説明によって双方の内容にずれが生じることを防ぎたい。だからより正確な情報共有のために今は言及しない判断をさせてほしい」
ホムラは僕が欲しい答えはくれなかった。しかし、理知的な彼の考えも納得ができる。
「……分かった。ありがとう」
「……ただ、国の機関が設けた、機密を管理する施設が最大の敵に存在を知られてしまった…という事実から、大方予想は着くと思う。覚悟はしておいてほしい」
僕の反応が微妙だったからか、ホムラは遠回しに答えをくれた。
「っ…うん」
予想はついていたけれど、いざ事実として認識してしまうと辛いものがある。
(これから僕はどうなるんだろう……)
これから訪れる変化に不安を覚えながら、トバリが戻ってくるまでの時間を過ごした。
本庁が昼休憩の時間になっても、トバリは現れなかった。しかし、トバリどころかカフェテリアに人が増えることもなかった。
「今日は随分空いてるね」
僕があたりを見渡しながら言うと、二人で仲良く一つの携帯を覗きながら、スパイスの種類について調べていたコハルとカスミが、同じようにあたりに視線を向けた。
「確かにそうだな。なんでだ?」
カスミが首を傾げると、僕の隣でアイスティーを味わっているホムラが口を開いた。
「今回の襲撃で、八咫烏は燦然世代の掃討に本腰を入れた。新しい任務を与えられたのは俺たちだけではないはずだ。……今まで九命猫に一任されていた任務が他の部署にある程度回されることになる。休憩時間を割いてしまうほど戸惑うのは、まあ無理もないだろう」
僕はホムラの皮肉めいた発言に、僕は心臓がきゅっとした。
「そうだよな……。なんせ今回の襲撃で『司教』の存在が明らかになったし、どこから手をつけていいかわからねえのは理解できるぜ」
僕はコハルがなぜカスミのことを気に入っているのか、少し理解できた気がした。
「あっ、そういえば…襲撃者が言ってた『司教』って何?僕そのあたりの話理解できてなくて…」
カスミが話題に出したことで、今回の襲撃者の正体である燦然世代の『司教』がどういったものなのか聞くきっかけができた。僕の言葉にカスミがはっとした顔をする。
「そうか、シグレはまだ燦然世代についてあんまし知らねえのか!これからの作戦にでかく関わってくるし……ここらで一回勉強会でもしようぜ!安心しろ!先輩として俺がしっかり教えてやるからよ」
カスミは歯を見せて笑った。「先輩」という単語をやけに強調された気がする。
「まずは『司教』についてだな。あいつらはいわゆる燦然世代の…………」
「人に何かを教えるときは、自身の知識を検めてから行うべきだよ。カスミ」
「ぎゃっ」
意気揚々としていたカスミは背後からの声に驚いて、向かいの席に座る僕に倒れこむようにして抱き着いてきた。彼の体重に僕が耐えられるはずもなく、カスミの所業はテーブルに叩きつけたも同然だったのだが、コハルからの視線がすごく痛かった。
「な、なんだよトバリかよ。危うくビビるところだったじゃねえか」
先ほどまで音沙汰がなかったトバリがようやく合流した。彼女はカスミの発言に特にツッコミを入れることなく、僕に抱き着いているカスミに怪訝な顔を向けた。
「それにここは本庁に招かれたお客様も利用するんだ。関係者以外がいる場でする会話じゃないだろう。……勉強会は、おうちに帰ってからだ」
トバリは見慣れた笑みを浮かべて、僕とカスミにウインクした。カスミは僕を解放して「やったな!」と親指を立てた。
「もう用事は済んだのか」
「うん。ようやく帰れるね」
トバリは大きく伸びをして、あくびを一つこぼした。早朝からこの時間までずっと仕事をしていたのだろう。いくらトバリとはいえ、その疲労は相当なはずだ。その証拠に彼女の目が充血していた。
「トバリ、ご飯食べなくて平気…?」
僕が尋ねるとトバリは顔を綻ばせて僕に近寄った。
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう少年。実はマサヨシ人事部長が帰りの車を手配してくれてね。約束の時間がもうすぐだからボクは家に帰ってから一息つくよ。キミたちも用事は済んだ?これから忙しくなる、今日のうちにやるべきことを済ませておいてくれ」
彼女の言葉に僕たちはそれぞれ頷いて、帰宅の準備を始めた。
マサヨシが地下駐車場に車を用意してくれているようなので、僕たちは揃ってカフェテリアから移動していた。廊下を歩いていてもすれ違う人が前よりも少ない。本庁全体に指令が行き渡ったため、多くの部署が今後の方針について会議しているとトバリが言っていた。僕たちが堂々と歩いても騒ぎにならないのはいいのかもしれない。エレベーターの到着待ちの間、カスミがトバリに小声で話しかける。
「なあトバリ、マサヨシさんは…」
「とりあえずは大丈夫そうだ。無理をしたら承知しない、と言っておいたよ」
「俺も今度会ったときは力になれっかな…」
肩を落としたカスミをトバリは笑みを浮かべながら小突いた。トバリはマサヨシの所でずっと仕事をしていたのだろうか。
(ヨシミツさんはマサヨシさんと仲が良かった…。マサヨシさんは友達を亡くしたことになるのか)
今回の事件で八咫烏は大きな影響を受けた。それは長年足踏みしていたという九命猫にとっては大きな進歩なのかもしれないけれど、大事な人が亡くなってから動き始める組織に、憤りを抱いてもいる。マサヨシも同じ気持ちなのだろうか。
「………」
エレベーターが現在通過している階を知らせるランプが点灯していく。そのランプをぼんやりと眺めていると、少し遠くから僕たちを呼ぶ声が聞こえた。
「やあ!親愛なる一課のみんな!」
明るいその声に振り向くと、一人の女性が僕たちに手を振っていた。
「ミナミ先輩!」
女性がいることに気が付いたトバリが、嬉しそうな顔で彼女に駆け寄った。女性も笑顔で僕らに歩み寄ってくる。ミナミと呼ばれた女性は他の皆とも知り合いのようで、彼らと親し気に話している。
(先輩か…この人も九命猫の人なのかな)
ふとミナミという名の女性と目が合った。彼女は僕を見ると興味深そうに目を細めて、僕に近づいてきた。
「おや、随分見違えたね。もうこの組織には慣れたかな?」
ミナミは僕を知っているかのように話しかけてきた。しかし、僕は彼女と面識はないはずだ。
「え、えっと僕を知っているんですか」
戸惑いながら尋ねると、ミナミは目を丸くした後快活に笑った。
「あはは!君を知らない人なんて八咫烏にいないと思うけど、それはそうとしてあたしは君に直接会ったことがあるじゃない。…もしかして覚えてない?」
ミナミの眉尻が大げさなほど下がるものだから、なんだか申し訳なくなって必死に記憶を辿った。しかし、どう考えても彼女とは初対面だ。僕がたじろいでいると、後ろから控えめなため息が聞こえてきた。
「……ミナミさん。あなたがシグレと初めて会った時、彼は気絶していたでしょう」
ホムラがどこか呆れているような口調でそう言った。彼の言葉にミナミはわざとらしくはっとして、再び大きな笑顔を見せた。
「いや~そうだった、そうだった。それじゃあ覚えてないのも仕方ないよね」
ホムラが言うには、僕は意識がない状態で彼女と接触したことがあるらしい。
(気絶していたのなんて、いつの話だ…?)
僕が再び記憶を辿ろうとしていると、ミナミが僕の手を取って固く握手をした。そのまま上下にぶんぶん振られるものだから、思わず体勢を崩してしまった。
「じゃあ、今が初めましてってことで!あたしは楠南!九命猫の『対最優先事項部二課』でそこそこ偉い人をやってるよ。君が新しく一課の一班に配属されたって聞いて、すごく嬉しかったんだから!」
ミナミは僕の両手から手を離した後、頷きながらしみじみとする。
「あのときボロボロだった君がすっかり元気になって、しかもあたしたちの仲間に加わってくれるなんて!ああ、あの時を思うと涙が出ちゃうよ。君はホムラ君におんぶされてる間、ずっとぐったりしていたからさ。もうこのまま目を覚まさないんじゃないかって、不吉なことも考えちゃったんだよね」
わざとらしく泣き真似をしたミナミは、彼女の勢いに気圧されている僕をちらりと見て、それから全身をくまなく観察してきた。
「うんうん!制服も似合ってるし、今の君はすごく立派だよ!あの時より少し太れたみたいだね。これなら市民に存在を悟られることもほぼなし!」
僕に眩しいほどの笑顔を向ける彼女は勢いよく僕の肩を掴んで、そのまま僕を反転させた。正面にいつの間にか到着していたエレベーターが僕たちを迎えていた。
「お見送りさせてよ、後輩たち!…シグレ君!セントラルエリアで行動する者同士、仲良くしてね!」
そのままミナミに背中を押されて僕と仲間たちはエレベーターに乗った。まだ彼女の詳細は把握できていないけれど、底抜けに明るいことは確かだと思う。
(……トバリとも知り合いみたいだし、もしかしたらトバリの過去について詳しく知っているかもしれない)
僕はエレベーターの中で楽しそうにトバリと談笑するミナミを見つめながら、わずかに希望を見出していた。
2026年3月17日 誤字を修正しました




