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夜を明かすために  作者: 深鈴東
第二章
25/26

24. 再び会う

「……マリちゃんっ!」

 臨時被災者施設の保健センターにリサの姉、マリはいた。彼女はリサが病室内に駆けこんでくると、力なく笑って「ごめんね」と呟いた。リサはマリが座っているベッドに近づくと、そのまま彼女に抱き着いた。

「わっ…」

 リサはマリの腹に顔をうずめたまま、動かなくなってしまった。マリはリサの顔を覗き込むと、そのまま何も言わずに彼女の頭を撫でてあげていた。

(ずっと待っていたところに、保健センターにいるって言われたら心配になるよね…)

 僕とコハルは入り口でリサの様子を見守っていた。マリがいる病室内に入ることを禁じられたのではなく、トバリから部屋に入ってくる人を止めてほしいと、監視を命じられたのだ。病室内では姉妹二人が再会を果たしているため、僕は扉に背を向けて天井を眺めた。トバリから許しが出るまで、ここを動くことはできない。ならば少し楽な姿勢で待っていてもいいだろう。横を見ると廊下の床を眺めているコハルがいた。彼女も僕と同じように暇を持て余しているようだった。僕はコハルの隣に座り込んで彼女を見上げた。僕と目が合ったコハルは何も言わずに僕の隣に座る。マリの病室は保健センターの奥まった場所にあるため、この廊下を通る人は滅多にいなかった。

 しばらく無言で時を過ごしていたが、それでも病室からトバリたちが出てくる様子はなかったため、僕はずっと頭の中を占拠していた疑問をコハルにぶつけてみた。

「……マリ、さんさ。何があったのかな」

 僕が尋ねると、うとうとしていたコハルはゆっくりと瞼を上げた。僕は小声で続ける。

「トバリから連絡があったとき、何か言ってた?さっきは忙しそうで聞く暇がなかったからさ」

 僕たちが病室に着くや否や、トバリに「部屋の前で見張っててほしい」と頼まれたのだ。そのとき一瞬だけマリと目が合ったが、彼女はひどく暗い顔をしていた。ただの体調不良やケガではあのようにならない気がしたのだ。それこそ彼女の精神をひどく傷つけるような、心を殺すような出来事があったとしか思えなかった。

「んー…」

 コハルは考え込むように頭を捻った。会話の内容を思い出しているのだろうか。しばらく黙ったまま頭を傾けていたが、やがてゆっくりと首を左右に振った。

「ううん。『とにかく急いで来て』みたいなことしか言ってなかったよ」

「そっか…」

 コハルも事情を知らないならばトバリに直接聞くしかないだろう。テロ被害者である彼女が、あのような絶望を感じさせる表情をしていたことが気がかりだ。それにマリとも直接話をしたい。彼女はトバリと顔見知りであり、姉妹揃って懇意にしている様子だった。もしかしたらマリは僕たちも知らないトバリの「過去」について、何か知っているかもしれないと思ったのだ。

「……ねえ」

 僕が色々と考えていると、コハルが声をかけてきた。彼女の方を向いたものの、コハルは廊下の床を見つめたままで、目は合わなかった。

「どうしたの?」

「マリちゃんに何があったかは、あんまり詮索しない方がいいかもね」

 彼女の言葉に僕は目を剝いた。

「どうして?」

 僕が思ったことをそのまま口にすると、コハルはようやく僕の方を向いた。いつになく、苦しそうな顔をしていた。

「マリちゃんが酷い目に遭ったことは一目瞭然だったでしょ。あんな顔になっちゃうほど怖かったこと、個人的な興味で思い出させたくないもの」

 コハルはそう言って力なく笑った。どことなくその表情は、病室でマリがリサに向けたものと似ている気がした。

「……確かにそうだね」

 僕は彼女の言葉にハッとした。何があったのか知らない状態でも、マリが絶望していることに気づけたくらいなのに、それをわざわざ蒸し返すようなことをするなんて許される行為ではないだろう。僕は目先の欲望だけで行動してしまいそうになり、ひとりでに反省した。

「それに、きっとマリちゃんに何があったかはすぐに八咫烏間に知れ渡ると思うから…。私たちはマリちゃんに寄り添って、あの子が取り乱さずに状況を説明できるよう精神的にサポートしてあげるべきだと思う」

 コハルはまっすぐに僕の顔を見た。助言をするような口調だが、そのまなざしには有無を言わさないような圧力を感じた。

「わかった。気を付けるよ」

「うん。そうして」

 コハルはわずかに雰囲気を柔らかくした。僕はなんとなく、コハルはマリの身に何があったのかわかっているのではないかと思った。でもそれをわざわざ指摘しようとも思わなかった。つま先を遊ばせながら、誰も通らない廊下の床を眺めた。マリと接触する機会は今後もあるはずだ。今は同じテロ被害者として、彼女の心を案じることが最善だろう。僕は先ほどと同じようにうとうとしだしたコハルの顔を見つめる。そして彼女に、仲間たちに失望されないためにはどうすればいいか、ぼんやりと考えていた。




 〇




 ヨシミツは自身が運営している探偵事務所から、そう遠くない八咫烏本庁まで足を運んでいた。勝手を知っているように地下駐車場に車を停めて、九命猫の本部までエレベーターで向かう。「九命猫 人事部」と表されたフロアに足を運ぶと、人事部の職員が快く迎え入れてくれた。ヨシミツにとって彼らのほとんどは顔見知りだった。ここでの評判がいいのは、この部署のトップを務めている同期の影響が大きいのだろう。部長室と記されたガラス張りの戸を開けると、来訪者に向けるとは思えないほど不機嫌そうな顔をした男がデスクにいた。ヨシミツと同期で八咫烏の警察官になった、マサヨシが気だるげにヨシミツを見ている。ヨシミツは片手をあげてマサヨシに気さくな挨拶をした。

「や、久しぶり」

「言うほど久しぶりでもないだろ」

 マサヨシはヨシミツにそっけない返事をした。重そうに腰を上げて、愛用のコーヒーメーカーを起動させる。部長室が芳醇な香りに包まれると、彼らは揃って来客用のソファに腰かけた。

「……セントラルエリアに関わっていると、一週間顔を合わせないだけで心配になるものなんだよ」

 ヨシミツがコーヒーを一口味わうと、マグカップに視線を落としたまま呟いた。

「そういうもんか。俺は現場を知らないんでな」

 マサヨシは無感情に聞こえる声色で返した。淹れたてのコーヒーを音を立てて豪快に啜る。マサヨシのマグカップの縁に、乾いたコーヒーが付着しているのが見える。彼は今日だけで何杯コーヒーを飲んだのか、とヨシミツは怪訝な目を向けた。マサヨシはヨシミツの視線に気づかないふりをしている。

「まあ、僕も正確には『関わりがある人と関わっている』だから、知ったような口はきけないんだけどね」

 ため息をこぼしながらヨシミツは言った。彼の脳内に浮かぶのは、自分よりもはるかに若い警察官たちの顔だった。

「でも、彼らに再び会えると、とても安心してしまうんだ。『よかった。まだ生きてる』って」

 ヨシミツがそう答えると、マサヨシは眼球だけを動かし彼の顔を見た。ヨシミツは普段と変わらない穏やかな表情をしていた。しかし、マサヨシの記憶に残るヨシミツはもっと快活な人間だったはずだ。二人で馬鹿を言い合って、職場の愚痴で盛り上がるような仲だった。都市で大規模テロが発生してからは、ヨシミツは人が変わったように物静かになってしまった。友人を失い、築いてきた立場を失い、気がついたら八咫烏の温情という名の牢獄に閉じ込められてしまった。

(それは俺も同じだが。人が変わっちまったのも、仕事から逃げられなくなったのも…)

 しかし、ヨシミツは持ち前の「善の心」は失わなかった。かつては仲間であった八咫烏の警察官から指をさされて嘲笑されても、救うべき人々を救うために自分ができることをやり遂げてきた男だ。マサヨシは芯の強いヨシミツに眩しささえ感じていた。

(……じゃあ、俺は?)

「どうしたのさ、突然」

「…何でもねえ」

 マサヨシは雑念を振り払うように頭を振った。彼の突然の行動にヨシミツは細い目をわずかに見開いた。

「んじゃ、とっとと始めちまうか」

 無理やり話題を変えたマサヨシは椅子に深く座りなおして、ヨシミツと向かい合う。

「お前には定例の報告と……鷹崎クンの様子について教えてほしい」

 いたって冷静に依頼したマサヨシを見て、ヨシミツは表情を綻ばせた。

「ふ、お前もなんだかんだシグレ君のことが心配なんじゃないか。手続きのときはあんなに渋っていたのにな」

「うるせえな…」

 マサヨシはうざったいと言わんばかりにぼりぼりと頭を掻いた。照れ隠しゆえの行動なのかもしれないが、彼の態度はヨシミツの指摘が図星であることを示してしまっている。ヨシミツは不器用ながらも思いやりがあるかつての同僚を、自慢の友人だと常々思っていた。

(……テロに何もかも奪われなければ)

 マサヨシは大規模テロが発生してから随分と荒んでしまった。かつてのように笑うことは少なくなり、実年齢よりも老けて見えるほどやつれてしまっている。ヨシミツが前に冗談めいて彼にそのことを伝えた際は「お前が横にいるせいだ」と笑ってくれたが、やはりそこに以前のような明るい笑い声は存在しなかった。しかし、ヨシミツは知っている。マサヨシの中に揺るぎない「正義」が存在していることを。大規模テロで最愛の妻と娘を失い、一人運命に打ちひしがれても、彼は自分より若い者や従えている者たちを導くことを諦めなかった。ヨシミツはマサヨシを支えることを第一に九命猫で復職したつもりだったが、彼の中に何人も壊すことができない信念が存在していることに気づかされる結果となった。

「……」

 書類に黙々とヨシミツの報告を書き落としていくマサヨシを見つめながら、ヨシミツは今では上司となった友人の変わり果てた姿を思い起こしていた。悪態をつきながらも、市民をテロの残滓から救い出すための任務を指揮している。ヨシミツはマサヨシの怖いほどにまっすぐな正義感に満ちた姿に安心感を覚えつつも、彼の信念が報われる時が来た時、果たしてマサヨシは自分の足でしっかりと立っていることができるのだろうかと不安になることもあった。

(お前の正義が報われたときが、お前の最期になるんじゃないかと怖いよ。僕は)

「……なあ、おい。…ヨシミツ!」

「!」

 マサヨシが机から身を乗り出して、ヨシミツに呼びかけていた。思考にふけっていたヨシミツははっとして、目の焦点を合わせる。

「どうした。随分上の空だったぞ」

「…少し考えごとをしていただけだよ」

 ヨシミツはそう言ってコーヒーを一口飲んだ。マサヨシ好みのブレンド方法により、相変わらず舌を洗いたくなるほどの濃い苦みが口の中に広がる。

(この味にも慣れてしまったな…)

 一人で微笑みを浮かべているヨシミツに、マサヨシは再び不審な目を向けた。

「……まあいい。とにかく次は鷹崎クンについて報告を頼む」

 マサヨシは左手に抱えていた書類を机に放り投げ、足を組んで座りなおす。彼の態度からしてシグレについての報告は仕事してではなく、マサヨシ個人の依頼なのだろう。ヨシミツは心の中で微笑んで、最近自分が運営する探偵事務所に従業員としてやってきた、向上心の高い少年について話始めた。

「シグレ君はよくやってくれているよ。仕事熱心だし、何より素直だしね。僕としては人手を増やしてくれてありがたい限りだ」

「……そうか。あいつが16日にセントラルエリアに消えた人間だと、気づかれているような様子はないか?」

「ないよ。今のところはね。このままいけば彼の存在は都市伝説化するだろう」

「わざわざ上が公式に声明を出したんだ。このまま市民の興味が無くなってくれればいいんだが…」

 八咫烏はシグレがR.W.M.U.に所属することになったとき、インターネットにて公式に声明を出した。その内容は


「SNS 上にて確認されているセントラルエリアに侵入した人物については、現在事実確認をしたうえで捜索にあたっています。閉鎖後のセントラルエリアに市民の方が立ち入るという事態は前代未聞であるため、国家統率保安機関は慎重に対応にあたっております。くれぐれも市民の皆様はセントラルエリアの安全の確認が取れるまで無断で立ち入ることのないようにしてください。当該人物については調査が進展し次第お伝えいたします」


 といったもので、要するに「侵入者は現在行方不明となっており、一般市民がセントラルエリアに立ち入ることは今までなかった由々しき事態であるため、八咫烏は手を焼いている」という旨を市民に伝えるために発信した文章だ。もちろん、この声明に真実は一切含まれていない。

「あの声明によって市民のセントラルエリアに対する恐怖心は増幅したと言っていいだろう。このまま鷹崎クンが保護されたという情報が流れない限り、良識ある市民は規制線に近づくこともしないはずだ」

 そう言いながらマサヨシは胸ポケットから煙草のカートンを取り出して、中身を一本口にくわえた。するとヨシミツがノータイムでマサヨシの右手に用意されたライターを取り上げる。

「ここ禁煙。って何度言ったらわかるのさ」

「俺しか使わねえ部屋なんだからいいだろ」

「今は僕もいる。それに他の喫煙者はちゃんと喫煙所を使ってるんだから、お前もルールを守れ」

 マサヨシは不機嫌そうに口にくわえた煙草をカートンに戻した。

「ちっ。狭い場所で本庁の人間と一緒になるのが嫌なんだよ。改善してほしかったら九命猫専用の喫煙所を作ってくれ」

 マサヨシの不遜な態度に、ヨシミツは呆れたようにため息をついた。

「お前も本庁の人間だろ。身内をそんなに毛嫌いしてどうするんだ」

「俺が最初に嫌ったんじゃなくて、あいつらが喧嘩を売ってきたんだ!」

 マサヨシが噛みつくように反論すると、ヨシミツは再びため息をついた。

「お前の気持ちもわかるが、お互いに協力しないといつまでたってもセントラルエリアを解放できないぞ。それに、意地の悪い人たちばかりではないと、お前も分かっているだろ」

 ヨシミツの言葉に意地になったのか、マサヨシは身を乗り出してヨシミツからライターを奪い返した。

「お国に奉仕する組織に、所属で差別をする奴らがいることが問題だろ。俺はそんなことも分からない頭の悪い連中を絶対認めねえ」

 そして再び煙草をくわえたとき、ヨシミツが大声でマサヨシを制止した。

「ま、待て!!」

「!?な、なんだよ…」

 ヨシミツは額に手をあてて、首を横に振った。

「せめて歯を磨いてからにしろ…。さっきさんざんコーヒーを飲んでただろ」

「……」

 マサヨシは今の状態で喫煙したときの口内環境を想像した後、大人しくヨシミツに従うことにした。



 部長室に漂っていたコーヒーの香りが、煙草の臭いにかき消されていく。本庁ビルに備え付けられた優秀な空気洗浄機能によって、煙が部屋に充満することはないが、臭いだけはどうしてもヨシミツの嗅覚を刺激してしまう。ヨシミツは口から煙を吐き出しているマサヨシを見て、何回目かのため息をついた。

「お前が家庭を持ったときは、禁煙も成功したと思ってたんだがな」

「うるせえ。俺にとって今は()()()が唯一縋れるものなんだよ」

「……奥さんが聞いたら泣いてしまうよ」

「……」

 マサヨシは灰皿に吸殻を擦り付け、新しい一本を取り出した。火をつけて、煙を肺の隅々まで行き渡らせる。呼出煙を生み出した後、どこか遠くを眺めながらぽつりと呟いた。

「吸ってるときに、よく怒られたんだよ。…あいつが妊娠する前にな」

 マサヨシはそう言って目をつぶった。ヨシミツはどんな形であれ、彼が瞼の裏に愛する妻の姿を描いていることを咎めることはできなかった。

「……それでも、ほどほどにしておけよ」

 ヨシミツの忠告にマサヨシは何も言わなかった。



「今日は突然呼び出しちまって悪かったな」

 ヨシミツが部長室に到着してから一時間が経過しようとしていた。報告は完了し、すっかりくつろいでいる時間の方が長くなってしまった。

「いいよ。必要なことだからね」

 ヨシミツは人の好い笑顔をマサヨシに向けた。マサヨシは一瞬複雑そうな顔をしたあと「助かる」と言ってソファから立ち上がった。しかし、ヨシミツは椅子に座ったまま口を開いた。

「……シグレ君が入隊を決めた時もお前が上につないだんだよな」

「?そうだが」

 ヨシミツはじっとマサヨシの顔を見つめた。ヨシミツが何を考えているのか、マサヨシはわからなくなっていた。5年前からずっと、ヨシミツは同じような笑顔しかマサヨシに見せていないからだ。

「……最近、仕事を増やされすぎじゃないかな。お前が進んで引き受けたというわけではないのだろうけど、身体を壊す前にちゃんと休めよ」

 ヨシミツはどうやらマサヨシのことを心配しているようだった。マサヨシはわずかに張りつめていた心が楽になるのを感じた。

「……ああ。俺がくたばっちまったら、せっかく進展しだした調査の足を引っ張っちまうからな。自分の限界はわかってるつもりだよ」

「なら、いいんだけど」

 ヨシミツはそう言って立ち上がった。

「お前は自分のことをよくわかっている人間だけど、一応伝えておくよ。お前はお前が考えているよりずっと必要とされてる人間だ。それは仕事上の役割としてじゃなく、お前個人のことを信頼しているという意味でね」

 ヨシミツは部長室からガラス越しに見える人事部のオフィスを眺めた。人事部の職員たちが皆真面目に各々の作業に取り組んでいる。ここにいる人たちは、テロの被害を受けてなお自分の信念を貫くことを決めたマサヨシのことを慕っている者しかいない。そう言っても過言ではないほど、皆マサヨシに懐いているように感じられる。

(人事部のみんなだけじゃない。トバリさんをはじめとした一班の子たちや、九命猫の他の部署の者たち、もちろん僕も。お前が大事なんだよ、マサヨシ)

「……買いかぶりすぎだ」

 マサヨシは心底同意できないといった顔をした。ヨシミツは相変わらず自己評価が低い友人に近づいて、彼の肩を叩いた。

「でも事実を言っているのは僕の方だ。今は信じられなくてもいいから、頭の片隅にでも置いておいてくれよ」

「なっ?」と言って歯を見せて笑ったヨシミツは、わずかに昔の面影を感じさせた。彼の様子を見たマサヨシは観念したように笑う。

「わーったよ。ただそんなに俺が心配なら、ここに呼び出す頻度を高くしても文句は言わねえな?」

 マサヨシの思いがけない言葉に、ヨシミツはわずかに目を見開いた。

「っはは、当たり前だろ。お前より僕の方がずっと暇なんだから」

 ヨシミツは「遠慮すんなよ」と言いながら、出入り口に向かって歩いて行った。彼の後ろをマサヨシもついていく。彼はヨシミツが来室したときは、決まって見送りをした。彼らがガラス戸を開け部長室から出てきた途端、職員の一人がマサヨシに駆け寄ってきた。

「すみません、部長。先ほど上直属の方が部長に依頼したい仕事があると尋ねて来まして…。この資料を手渡されました。内容は部長がご覧になれば理解できると…」

 職員が手に持っている資料の束を見て、マサヨシはげんなりした。

「また人任せな…。わかった。あとで確認するから俺の机の上に…」

 そこまで言うと、ヨシミツがマサヨシに提案した。

「いや、今持って帰って確認しなよ。見送りはここまででいいからさ」

「あ…ああ。そうだな」

 ヨシミツは少し残念そうなマサヨシを見て、笑いをこぼした。

「休憩はさっきの時間で十分だろ。そろそろ僕たちも仕事に戻らないと」

「お前、さっきと言ってることが違くねえか?」

「無理をしないこととサボることは別物だからね」

 ヨシミツは一人オフィスの出入り口に向かって歩き出した。自動ドアの前でマサヨシを振り返り、気さくに手を振った。

「じゃあ、また会おう。さっき僕が言ったこと、忘れるなよ」

 マサヨシは彼の様子に表情を穏やかにして、手を振り返した。

「おう、またな」

 マサヨシはヨシミツの姿が見えなくなると、職員から資料を受け取り部長室に戻った。ヨシミツと再び会うことを想像すると、少しだけ仕事に対してやる気がわいた気がした。





 セレスチャル:イーストエリアのどこかにある探偵事務所「猫の足跡」は、九命猫の覆面事務所として置かれているが、一般市民の依頼も受け入れている。滅多に依頼が来ることはないが、実際にヨシミツは一度浮気現場の調査を依頼されたことがあった。

(けっこう時間がかかっちゃったな)

 ヨシミツは探偵事務所が所有する駐車場に車を停めると、急いで事務所への階段を駆け上っていた。

(これは車で二人を迎えに行った方がいいな…)

 臨時被災者施設に残したままの従業員のことを考えながら事務所がある階にたどり着くと、事務所の扉の前に誰かが立っていた。

「あっ」

「え?」

 ヨシミツの足跡に反応して、見知らぬ少女が声を上げた。少女はヨシミツを見るとぱっと顔を明るくしてヨシミツに駆け寄った。

「あの~、もしかしてあなたが探偵さんですか!」

「そ、そうですよ。僕がここの責任者です」

 ヨシミツがにこやかに対応すると、少女は安心したように脱力した。

「よかった~…。もうつぶれちゃった事務所なのかと思いました」

 少女は胸に手を当てて大きく息をつくと、意を決したように顔を上げた。

「お願いします!どうか助けてください!!」

(こ、これは…)

 ヨシミツは自分の手を取って懇願する少女を見つめながら、これから待ち受けている忙しい日々に覚悟を決めることにした。



2026年1月10日 一部表現を修正しました

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