23. 囲いの中で
日の当たる中庭で一仕事終えた少女は、お付きの者たちをねぎらいながら次の業務が開始するまで一息ついていた。すでに何回か設営を経験している配給所は、日を追うごとに届く物資が少なくなっている。それは配給で命をつないでいた被災者が自分の生活を取り戻しつつあることを表しているのか、はたまた都市が大規模テロに対する興味を失いつつあることを暗示しているのか。少女は特段数が減った嗜好品の品目リストを眺めながらため息をついた。
(大規模テロによってセントラルエリアにあった家を失っただけの者はまだ先を見据えている。セントラルエリアが開放される日を待つ者とすでに新しい住居を手に入れた者に二極化しているくらいだ。…問題はテロによって大切な人たちを奪われた者たちか。特に我が子を失った親の悲しみ方は、もう見ていられないくらいに……)
「……」
少女が中庭を眺めていると顔見知りの男が近づいてきた。男はどこか浮かない顔をしていたが、少女と目が合うとすぐにいつもの人当たりがよさそうな顔になった。
「改めて、お疲れ様。トバリさん」
「ヨシミツさん」
トバリと呼ばれた少女はヨシミツという名の男の顔を凝視する。彼女はヨシミツの様子がおかしいことを察して、彼に何があったのか問い詰めた。
「どうかしたのかい?何かあったのかな」
ヨシミツは表情こそ穏やかなものの、明らかに沈んだ声で答えた。
「何か、というほどのことじゃないんだけど、少し気難しい人に遭遇しちゃってね。僕は慣れているからいいんだけど、コハルさんとシグレ君に九命猫が同胞にどう思われているのかを知られちゃって。特に入隊したばかりのシグレ君は、かなりショックだったんじゃないかなって…」
ヨシミツは頬を撫でながら苦笑いをする。
「フォローしてあげたいんだけど、『そんな人たちばかりじゃない』って言葉しか思いつかなくてさ。僕の言葉だと九命猫がよくない評判を付けられている組織という印象しか与えられないんだ。…情けないよ。僕も九命猫が悪く言われていることにすっかり慣れてしまったから。不甲斐ないのだけれど、それでトバリさんに彼を励ましてほしくてね…」
ヨシミツは深くため息をついた。トバリは彼の話に眉間のしわを深くした。
「ボクたちの悪口は百歩譲ったとして、ここでそのような話をするなんて配慮が足りていないな。ボクたちは大規模テロの被害者を支援する組織でもある。そんなボクたちを愚弄しているところを被災者の方が見聞きしたらどう思うかなんて考えが付くだろうに。だいたい、各所の交番に施設への協力を命じたのは上の者だ。気に食わないからと八つ当たりをするような大人は、八咫烏の人間にふさわしくない」
トバリはとげとげしく非難した。ヨシミツは彼女の言葉に悲しそうな顔のまま頷く。
「そうだね…。同じ大人として申し訳ないよ」
「キミは彼らとは違うだろう。ヨシミツさんはいつだって思慮深いじゃないか」
ヨシミツはわずかに眉間にしわを寄せ、拳を握りしめた。まるで自分を戒めるかのように、掌に爪を立てている。
「……ヨシミツさん?」
トバリは彼の様子に首を傾げた。彼女の視線に気づいたヨシミツは静かに手を開いて、穏やかに笑みをたたえた。
「そう思ってくれているなら、救われるものがあるよ」
ヨシミツは柔らかな細い目をさらに細めて、悲しそうに笑った。
〇
僕とコハルは一時ヨシミツさんと別れ、トバリの下で仕事を行っていた。ヨシミツさんは上司である九命猫人事部に報告を行うため、少し離れるらしい。彼は後から迎えに来る旨と、彼を慕う様子を見せていたミネという名の警察官を案じる様子を残して去っていった。
「もし…もしミネ君が僕を訪ねてきたら、僕はいないことを伝えてほしいんだ。まさか連絡が来るなんて思ってなかったから、うっかり手伝うことを了承しちゃったんだよね。それと、もしトバリさんがよければ彼にいろいろ教えてあげてほしいんだ。……彼には周りの大人たちに負けないでほしいから」
そんなわけで、僕の隣ではミネがいきいきとした顔で業務に努めていた。施設の住人に真摯な姿勢で対応し、確実に信頼関係を築いているようだ。さわやかな彼は特におば様方から大人気だった。彼の様子を見ていると、先ほどの出来事で負った心の傷がわずかに癒えていくのを感じた。
「こちらがご希望の品になります!」
「あら、ありがとうねえ」
「はい!…ところで、随分荷物が重そうなのでよろしければ後ろのお連れ様のものとご一緒に施設内までお運びしましょうか?」
「あらまあ、いいの?ほら、運んでくれるって!」
「優しい子ねえ。助かるわ」
ミネはさわやかに笑うと、僕たちの研修担当であるトバリを振り返った。
「あの、勝手にご提案をしてしまったのですが、少しこの場を離れてもよろしいですか?」
トバリは機嫌が良さそうにミネの肩に手を置いた。
「もちろん構わないよ。キミの誠意は素晴らしいね」
トバリに褒められたミネは彼女に勢いよく頭を下げ、嬉しそうな顔をしながらテントを離れていった。両手に大きな荷物を抱えていてもふらつく様子はない。新人といえど、さすがは都市の治安を守る警察官だ。ミネを見送ったトバリは依然として上機嫌だった。案外彼女はわかりやすい。気に入ったものを見つけると目に見えて舞い上がるところがある。
「ふふ、彼はよくできた人だ。ボクが好きな種類の人間だよ」
トバリはより磨きがかかった対お客様用の笑顔で業務に戻っていった。トバリはヨシミツさんにお願いされたとき、僕たちにミネについて詳しく教えるよう指示した。それからミネと同じ交番で働く人たちが集まるテントに行って、僕たちに絡んできたミネの上司にあたる男を…。
(あいつがトバリのこと怖がってるところは、正直いい気味だったかも)
半ば無理矢理にミネを連れて来たトバリは、男に最後まで冷たい目を向けていた。あの男が反省するとは思えないけれど、痛い目を見てくれてちょっと心が晴れた。しかし、あの男が僕たちに放った言葉は未だ僕の心に突き刺さっている。もしかしてここにいる警察官はみな九命猫のことを疎ましく感じているのだろうか。ここにいる多くの警察官は九命猫の所属ではない。九命猫の人員だけでは人手不足であるため、配給が行われる日には該当施設から近い距離にある交番や警察署に協力の要請を上が行うことになっている…と教えてもらった。もちろん八咫烏のトップに立つ者からのお達しであるため拒否をすることは不可能だ。そのためわざわざ足を運ばなければならないことが面倒なのか、あの男は作業中も機嫌が悪そうだった。
(どうしてあの警官は九命猫を見下したような言い方をするんだろう…)
僕はそれがどうしても気がかりだった。前に八咫烏の本庁を訪ねた時、カフェテリアで職員たちから生ぬるい目で見られたことを思い出す。しかし、彼らは殺人を生業にしているR.W.M.U.に穿った見方をしていたものの、自分たちに必要であるという感想を残していた。現に九命猫はトバリをはじめとした優秀な人たちが、セントラルエリアの開放を目指して国家機密を守りながら活動している。今都市に最も貢献している組織と言っても過言ではないはずだ。それなのに、どうしてあの男はあんな言い方をするのだろうか。
「こんにちは!」
僕は向かいから子どもに声を掛けられてはっとした。今は勤務中だ。ぼんやりしている場合ではない。
「こんにちは」
僕はなるべく優しい声になるように気を付けて、子どもに挨拶を返した。彼女は机に手をかけて精一杯背伸びをしながら僕に話しかけていた。時々飛び跳ねながら、自分が所望する品物を伝えようとする。
「あの!いつもおねえさんがくれるやつ、ください!」
僕は子どもから具体的な商品名を伝えられなかったことに困惑した。いや、配給は希望者のみが受け取りに来るとトバリに教えてもらった。ならば彼女の名前と所望する品物がリストに載っているはず。
「え、ええと。まずはお名前を教えてください」
「リサ!おにいさんだあれ?おねえさんは?」
リサという子どもはどうやら誰かを探しているようだった。僕は「おねえさん」が誰なのかわからないため、とりあえず彼女の名前を頼りに望んでいる品物を特定しようとした。しかし、希望者リストには「リサ」という名の人物は載っていなかった。
(どうしよう……)
僕がひとりでに慌てているとリサと目が合った。彼女は僕を見て小首を傾げている。僕が焦っていることを知らない様子だった。僕がリサにどう答えればいいか迷っていると、後ろから助け船が出された。
「おや、リサちゃんじゃないか。久しぶりだね」
「おねえさん!こんにちは!」
「ふふ、こんにちは」
リサはトバリを見るとより元気な声で彼女に挨拶をした。リサの言う「おねえさん」とはトバリのことだったのか。トバリは僕の横に並ぶとリサに優しい声音で話しかけた。
「一人かい?お姉ちゃんはいないのかな?」
「マリちゃん忘れ物!だから先に来たの」
「そうなんだね。偉いじゃないか」
「えへへ」
トバリはリサの頭を撫でてあげた。リサは満足そうだ。トバリは何回も施設での仕事をこなしている。施設の住人達と顔見知りであってもおかしくはないだろう。彼女たちの微笑ましいやり取りを眺めていると、再びリサと目が合った。彼女は僕を指さしてトバリに尋ねた。
「ねえ、おねえさん。この人だれ?」
「この人はおねえさんのお友達だよ。少年、自己紹介してあげて」
トバリはリサに向けた優しい笑顔のまま、僕の方を向いた。僕は思わず息を吞むが、取り繕ってリサに名乗った。
「鷹崎時雨です。よろしくね、リサちゃん」
「よろしく!シグレ!」
彼女の今の一言で、僕が彼女の中でヒエラルキーのどこに位置しているのか、なんとなく察してしまった。リサの年齢特有の無邪気さに目を細めていると、トバリが僕に耳打ちしてきた。
「リストの中から『マリ』の名前を見つけてくれるかな?リサちゃんの支給品はその中に含まれているから」
「そうなんだ、わかったよ」
僕は改めて希望者リストに目を落とした。すると確かに「マリ」と読むことができる名前が記載されているのを見つけた。必要としている品物はこの場に用意されている生活必需品のほぼすべて、特に女性が必要とするものも含まれていた。僕は誰かに咎められたわけではないが、品物に触れることに申し訳なさを感じた。なるべく平常心を装って机に品物を並べていく。中身が透けない紙袋に入っていることが救いだった。作業の合間にトバリとリサの方を見ると、いつの間にか他の住人の対応をしていたコハルも会話に混ざっていた。
(……邪魔しちゃ悪いかな)
僕はまるで花が咲いているような光景に背を向け、一人黙々と作業をした。品物の用意が完了した後も、彼女たちの会話が落ち着くまで黙っていることにした。
「……そういえば、マリちゃんは後から来るんだよね?だいぶ時間がかかっているようだけれど大丈夫かな」
トバリが中庭を見渡しながら、リサに尋ねた。配給の時間は終わりが近づいており、すべての支給品を配り終えたテントはすでに片付けられている。任務を終えた警官が本部テントに終了の報告をしている様子もあった。段々と人がまばらになった中庭でも、マリという名のリサの姉は姿を見せていないようだった。
「えー!マリちゃん遅いよ!おねえさんたちもう帰っちゃうよ!」
リサは頬を膨らませて、未だ現れない姉に文句を言った。トバリに帰ってほしくないという素振りを見せる彼女はとても可愛らしい。リサの様子にトバリは目を優しく細めた。
「ふふ、ボクはここで一番えらい人だから最後まで残っているよ。だから安心して」
「ほんと?やったー!」
リサは両手でバンザイして喜んだ。トバリは「マリちゃんにも会いたいしね」と呟き、リサの掲げられた両手とハイタッチした。僕が無言で心地よい空気に浸っていると、僕の存在に気がついたコハルが話しかけてきた。
「終わったなら、一緒にお話すればいいのに」
コハルはくすりと笑って、僕の隣に歩み寄った。
「いや、邪魔しちゃ悪いかなって…」
「邪魔なんて思わないよ。ほんと可愛いんだから」
コハルはくすくす笑いながら僕の顔を覗き込んだ。
「や、やめてよ…もう…」
僕はコハルにからかわれて、首の後ろがむず痒くなった。探偵事務所でのやり取りのせいでコハルは完全に僕のことを新しいおもちゃとして見ている気がする。悪意あるものではないが、可憐な彼女に「可愛い」と言われることがいたたまれなかった。
「……リサちゃんご両親亡くなってるんだって。それで今はお姉さんと施設暮らし」
「……そうなんだ」
コハルが楽しそうにトバリと会話しているリサを見つめながら言った。僕は想像がついたはずの事実を言葉にされて、胸が刺されたように痛んだ。リサはいくつなのだろうか。テロを経験しているということは5歳以上ではあるだろう。しかし、彼女はおそらく両親がそばにいない暮らしの方が長く経験していると考えられる。今は無邪気に笑っているが、彼女が死という言葉の意味を理解したとき、きっと大きな試練が訪れるはずだ。僕は両親が死んで地獄のような苦しみを味わった。その地獄の中には確実に大切な二人を失ったことへの寂しさが含まれている。僕はリサが両親の存在に気づかない方が幸せなんじゃないかとひとりでに考えていた。
「……マリちゃん来ないなあ」
リサが僕たちが担当するテントに来てからもう15分ほど経過している。しかし、リサの姉は一向に現れる様子がなかった。そして、ご婦人たちの荷物を運びに行ったミネも帰ってくる気配がない。リサはしびれを切らしたようにうろうろと歩き回り始めた。何か気がかりなことがあるようで時々悩むような仕草をしている。
「マリちゃん~…クッキー誰かに食べられちゃったの?」
「クッキー?」
リサの独り言にトバリが反応すると、リサは「しまった」と言わんばかりに口を手で押さえた。
「何でもないよ!おねえさんにクッキープレゼントするのは、さぷらいずなんだから!」
全て自分の口でばらしてしまったリサを見て、トバリは愛おしさがこみ上げたように笑った。
「…っはは!そうだね。内緒なんだね」
リサを見つめるトバリの眼差しはまるで我が子を見守る母親のようだった。自分と同じ年齢の少女にこんな感想を抱くなんておかしいと思うが、彼女の横顔が僕の中でかつての自分の母親と重なったのだ。僕は誰かのために怒り、優しさを与えることができるトバリのことがどうしようもなく好きだ。これは恋愛感情ではないと思う。曖昧だけれど確かにそう思う。
〇
ふと鼻を甘い匂いがかすめたことに足を止めた。施設で暮らす方たちにお褒めの言葉をいただいたことで、自分の持ち場を離れてからかなり時間が経ってしまった。快く送り出してくれた九命猫所属のあの女性も、さすがにお怒りだろうか。そう思って速足で来た道を戻ってきたところだった。
「……クッキー?」
匂いの発生源を目で追うと、施設の棟と棟をつなぐ外廊下の片隅にバスケットに詰められたクッキーが放置されていることに気が付いた。バスケットからいくつかクッキーが飛び出ており、無残にもフローリングからはみ出して土が付着してしまっている。不注意で落としてしまったのだろうか。笑顔を浮かべる人型のクッキーが、ばらばらに割れてしまっていた。明らかに気持ちを込めて作られたであろうそれが、このようにぞんざいに扱われていることに、とてつもない違和感を覚えた。バスケットが転がっている先に持ち主がいるかと思って視線を向けるが、そこには施設の外壁と小さな物置の扉があるだけだった。
「……?」
なぜか物置に視線が吸い寄せられる。わずかに扉が開いていた。自分の意思とは関係なしに眉根が寄る。説明がつかないが、その扉がとてつもなく忌々しい気配を放っている気がしたのだ。あの先に足を踏み入れれば、きっと恐ろしいものを目にするだろう。しかし、自分はそんな場面に率先して立ち会うためにこの仕事を選んだ。警察官である自分が、恐怖を理由に脅威の気配から逃げてどうするのだ。
「……っ」
慎重に物置に近づく。自分が汗をかいているのがわかる。嫌な予感がすべて外れてしまえばいいと、心の底から願った。全神経を集中させる。扉に近づくにつれて犯罪の気配が強くなっていく。腰から警棒を引き抜いて万一に備えた。一歩一歩扉に近づいていくと、予感が確信に変わる瞬間が訪れた。女性のものと思しき声が物置の中から聞こえてきたのだ。明らかに、抵抗している声だった。
「……!!」
確信を得るとともに、同じ交番の仲間に緊急信号を送った。そして勢いよく物置へと突入した。
「何をしているっ!!」
思い切り声を張り上げた。犯人が凶器を持っているかもしれない。意表をついて怯ませるのが最善だと思った。しかし目に飛び込んできた光景に、自分が怯まされることになった。薄暗い物置の中で一人の男が、少女に覆いかぶさっていたのだ。全開になった扉から光が差し込んで、男のズボンのベルトが緩められていることに気がついた。その瞬間、血の気が失せて喉から情けなく空気が漏れた。
「……っ!!ふざけるな!!!」
恐怖が一瞬にして血を沸騰させんばかりの怒りに変わる。自分でも驚くほど怒気を孕んだ声が飛び出した。男は自分の突然の来訪に困惑しているようだった。男が隙だらけだと分かると、勢いよく男に飛び掛かった。今ばかりは規律も制圧のための過剰な暴力も気にしていられないと思った。全身全霊の力を用いて男を少女から引きはがした。できるだけ少女から男を遠ざけなければならないと思い、物置の外へと男を引きずる。男は痛みからか苦しさからか、うめき声をあげていた。もがいている男の下半身が露出していないことに気づき、未遂である可能性が生じたことにわずかに安堵した。しかし、この男に対する怒りは収まらない。
「峯!!何があった!」
聞き慣れた同僚の声が聞こえ、自分が冷静さを失っていたことに気が付いた。無我夢中で男の動きを封じていたせいで、物置の中に少女を置き去りにしてしまった。
「おい峯、この人は…?」
「頼むっ!押さえつけといてくれ!」
男の拘束をとっさに同僚に託し、物置へ駆け出した。後ろから切迫した声が聞こえてきたが、構わずに扉をくぐる。少女は物置の隅で体を丸めて震えていた。
「もう、大丈夫ですよ」
静かに、落ち着かせるように声をかける。少女は自分の声に反応して肩を跳ねさせた。ゆっくりと上げられた顔は涙に濡れていた。
「電気つけますね。それと、女性の警察官もすぐに呼びますので」
照明のスイッチを入れると、少女の姿がはっきりと認識できた。衣服は乱れているが、目立つ外傷はなさそうだ。
「………」
少女と目が合った。すると彼女はさらに体を縮めて呼吸を荒くした。
(怯えている…)
少女は自分を恐れているようだった。自分の動きを警戒しているようで、絶対に目を離さないように睨みつけてくる。怖くて仕方ないが自分の身を守るためにこうするしかないと、カタカタ震えながら同じ空間に侵入してきた男を監視していた。
「……っ」
少女の視線の意味に気づき、急いで物置から出ることにした。少女に軽く頭を下げて、駆け付けてくれた仲間と犯人のもとに戻る。自分は少女にとって、先ほど襲ってきた怪物と変わりないのだと、彼女の怯えた瞳がそう告げていた。
「峯、説明してくれ…」
肩で呼吸をしながら同僚が犯人の動きを封じていた。男は抵抗を諦めたようで今は大人しく地面に伏している。男を見て、ふつふつと怒りが沸き上がるが、拳を握りしめて冷静に事実を紡いだ。
「女性があの物置でこの男性に襲われていた。僕は現場を目撃している。凶器は確認していない。…おそらく女性の同意なしに性交をしようとしたと思われる」
同僚は驚いたように男を見下ろした。
「まじかよ…」
「ああ。だから女性の方に協力を願いたい。うちに女性は所属していないから…」
そこまで言うと、目立つ容姿の女性がこちらに駆けてくるのが見えた。九命猫のトバリという女性だ。彼女は自分と目が合うと、真っ先にこちらに向かってきて状況説明を求めた。
「キミと同じ交番の者がキミから緊急信号が送られてきたと。何があったのか教えてくれ」
彼女は自分を心配するような表情で見つめていた。持ち場を離れたところでトラブルに巻き込まれたと言われたら、何事かと思うだろう。
「物置でこの男性が女性に不同意性交を行おうとしていました。僕が現場から彼を連行してきて、女性はまだあちらに。…自分では彼女を怖がらせてしまうと思うので、どうか彼女を落ち着かせてあげてください」
トバリさんは信頼できると思って被害者の少女を託すことにした。彼女は地面に伏せた男を鋭い目で一瞥した後、真面目な顔つきで自分と向き合った。
「わかったよ。被害者はボクたちが保護する」
「よろしくお願いします。犯人は僕たちに任せてください」
「うん。頼りにしているよ」
トバリさんは物置に向かって歩いて行った。彼女の働きによって、被害者の少女が少しでも心休まることを願う。
いつの間にかこの場に多くの警官が集まっていた。男を押さえつけていた同僚が肩を回しながら自分の隣に立つ。
「ここから一番近い第二の車両で運んでいくってさ。お前も後で呼ばれると思うぞ」
同僚が同情するような目で見てきた。彼の態度になんとなく苛立ちを覚えて、現場を去りながらそっけなく返事をしてしまった。
「構わない」
「お、おい…どうしたんだよ」
同僚が慌てながら後を追いかけてくる。しかし振り返る気にはなれなかった。
(僕にできることは事実を説明して、非道な行いがあったことを証明することだけだ)
少女が負った深い傷を癒すことは、犯人と同じ性別である自分にはできない。だから都市が誇る保安機関の人間として、求められたことはなんだってやる。
「峯、こんなところで何をやっていたんだ」
「…先輩」
今日派遣された第三交番の人間の中で、最も年長者である先輩が自分を怪訝な目で見ていた。どうやらここでの仕事に前向きではないようで、ここに来た時から彼はずっと不機嫌に見える。特に自分がトバリさんのもとで業務に就くことになったときは、一段と苦言を呈していた。
「こんな遠いところまできてサボっていたんじゃないか?」
先輩は鼻で笑った。第三交番にきてから、唯一彼のことが苦手だった。
「ちょ、先輩!こいつが強姦未遂をとっちめたんですよ。峯が来てなかったら今頃どうなっていたか」
同僚が引きつった顔で先輩に反論した。しかし先輩が態度を改める様子はない。
「知ってるよ。それは幸運だったが、なんで職場から遠いところまでふらついてたんだって聞いてんだ」
自分が何か不真面目な行いをしているのではないかと執拗に勘ぐってくる彼に、正直不快感を覚えた。
「支給品を受け取りに来た方々の荷物を施設内にお運びしていました。九命猫の上官の方に許可はとっています」
なるべく感情を込めずに、淡々と答える。九命猫の名前を出した途端、先輩は血相を変えた。
「そうだった。お前あの女に連れていかれたんだったな。そんであいつに従順になって媚び売ってんのか」
先輩の様子に驚いて、同僚は自分の後ろに隠れた。先輩は息がかかるほどの距離まで近づいて、低い声で自分に助言をした。
「いいか?俺たちはなめられちゃだめなんだよ。あの女みたいにおこぼれをもらって生活しているような奴らにはな。自分の実力でのし上がった俺より、テロで生き残った奴らの方が上の立場にいるのはおかしいと思わねえか。お前もそうだろ?なあ」
先輩は九命猫を批判した。しかし、自分の心に彼の言葉は何一つ響かなかった。普段の先輩の言動と九命猫の方々の熱心な働きぶりを比べれば、どちらを信じるべきかなんてわかりきっていた。
「先輩のように他者を批判しているだけの人の方が、僕は気に食わないです」
そう告げた途端、先輩が唖然とした顔になった。まさか言い返されるとは思わなかったのだろう。年長者に対して失礼な物言いをしてしまったが、不思議と心の中は愉快だった。人生で初めて、自分の本心が口から飛び出した瞬間だったのかもしれない。
「お先に失礼します」
そう言って先を歩く。先輩は何も言い返してこなかった。
「おいおい、まじか。…み、峯!待てって」
先輩に楯突いた自分に驚いておろおろとしていた同僚が、意を決したように自分に向かって走ってきた。
「いいのかよ。あんなこと言っちまって…」
先輩を置いて自分についてきた同僚に、にやりと笑って返す。
「先輩の擁護をしなかったお前も、共犯だな」
同僚は呆れたような顔をして、そのまま自分の隣を歩いた。彼も先輩のことをよく思っていなかったのだろう。これから職場での肩身が狭くなったとしても、彼は自分の味方をしてくれるのじゃないかと思う。背筋を伸ばして、傾いていた帽子を被りなおした。今はあの少女のために自分ができることを全力で全うするのみだ。
2025年12月14日 誤字を修正しました




