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買い物する猫

コンコンとドアをノックする音が執務室に響く、中から男が入れと声をかければノブを回して入ってきたのは黒髪を肩まで伸ばしてメガネをかけたスラリとした長身の男だった


「殿下、お呼びですか」

「クレタス、お前にタマの世話を頼みたい」

「……えっと、それはどなたですか?」


突然殿下に呼び出され何の便りかと思えば三番隊に1ヶ月ほど預けられていたという“蜘蛛猫”なる存在の世話を今度は四番隊でするようにと命じられた

奇怪な呼称で呼ばれる“彼”について尋ねればそもそも“彼”でも“彼女”でも無いと答えをはぐらかされ挙句その流れのままに話を引き受けるかどうかを答えるより早く頼むと言われてしまった

気づくと足元には可愛らしい子供が1人立っていて私の顔を不思議そうに見上げていた…子供の相手は少々苦手ですが殿下の御命令だ、従う他ない


「あなたが“蜘蛛猫”ですか、私はクレタス…どうぞお見知りおきを」

「くれ…おみ、おみおみ……?」

「…はじめまして、クレタスとお呼びください」

「うれたす!!」

「誰が野菜ですか。」


まさか初対面でウレタス(野菜)と間違われるとは思いませんでした…まぁ子供特有の未発達な舌がそう発音させたのは理解していますがそれでも気にはなる

なので彼……“蜘蛛猫”を預かり1番最初に行った世話は正しい発音の世話だった


「ク」

「く!」

「レ」

「れ!」

「タ」

「んら!」

「違います、“タ”です」

「た!」

「はい、では続いて“ス”」

「す!」

「クレタス」

「うれたす!」

「何故……ッ!!」


まさか小さな子供に名前を正しく発音させる事があんなにも難しいだなんて…

30分かけてなんとか3回に2回はクレタスと発音できるようになりましたが様子を見にきた殿下に「何かをこなせたら褒めてやってくれ、キャーキャー言って喜ぶから」と言われ、私としても出来るならば子供は褒めて伸ばした方が良いと考えて褒めた途端飛びつかれるとは思いもせず尻餅をつかされました

——子供とは皆あそこまでに騒がしく激しいものなのでしょうか…?


「では“蜘蛛猫”、次は私の部隊を紹介します」

「ぶたい?」

「えぇ、私が育て上げた兵です」


結果として“蜘蛛猫”と部隊員達を会わせたのは失敗であり大収穫であった

それは彼らはたった1人の“蜘蛛猫”に惨敗したという失敗と、彼らの大きな課題が見えたという大収穫でした

彼らは決して弱くはない、それは戦果や日頃の働きから十分理解していますしそもそも魔法や弓など遠距離の攻撃手段を用いて戦う者は総じて近接戦闘には向いていないのですよ……


「…がッ!それにしたってあまりにも一方的に接近を許し陣形を崩されあまつさえ弓の弦を切られたり杖を折られて無力化鎮圧されたのは目に余ります!!」

「おしまい?」


倒れ伏した四番隊隊員の周りには無惨に破壊された杖や弓の残骸が転がりその中央に“蜘蛛猫”が不思議そうに小首を傾げて「こんなものか?貴様の隊は」と私を嗤っていた(※被害妄想です)


「情けないですよ皆さんッ!魔法術師はまだ魔法が使えます!弓術士も弓での擬似棒術は可能でしょう!?」

「む、無理ッス……!」

「俺も……」

「周囲に同じく…」

「ッ!誰か1人くらい気骨のある者は…!!」


誰も呻くばかりで動けそうにはない、そんな事は頭では理解していた…だがあまりに呆気なく負けた事が納得できなかった


「私が倒します!!」


まぁそう言っていた私も“蜘蛛猫”に挑みかなり追い込まれてしまったため…

いえ、みっともない見栄と言い訳はやめましょう、私も負けと言っても過言ではありませんでした。

訓練用とはいえ長杖も予備の短杖も懐に入れた小型弓も予備の予備に仕込んでおいた連結杖も全てをことごとく破壊され、挙句3回も首に蜘蛛の糸を巻きつけられた私を他の隊員が止めるまで粘り続けたのです…アレが実戦なら私が戦死する回数は巻きつけられた3回どころの話ではない


「やはり訓練メニューの改善は急務ですね…私も含めもっと近接戦闘への対応力を高めなければ…!!」

『(やめてくれぇ……!)』


初対面は野菜呼ばわり、続いて惨敗…

そんな事もありつつなんだかんだと時は流れて“蜘蛛猫”を引き受けて3週間が経った時…そうまさしく今日この日、殿下は私と“蜘蛛猫”を呼び出し街に行けと突然申されたのです


「これとこれと…あぁあとこれもだな。このリストに書いたものを2人で買ってきてくれるか?タマ」

「“おつかい”…?」

「あぁおつかいだ、お願いできるか?」

「〜〜っ!!あいー!!」


何がそんなに嬉しいのかは理解できないが殿下からの頼まれ事がどうやらかなり嬉しいらしい“蜘蛛猫”は渡された財布とメモをしっかりと握りしめて視線で早く行こうと訴えてくる…

そのリストをスッと小さな指から引き抜くと“蜘蛛猫”は「かえしてー!」と飛び跳ねながらじゃれついてくる、その飛び跳ねる頭を手で抑えながらちょっと待ちなさいと宥めつつメモを見てみれば不思議な事に買う物と一緒に“買う店”まで指定されていた


「あの…殿下これは…」

「タマ、クレタスに話があるから廊下で待っててくれないか?」

「おあなし?」

「そう、お話だ。良い子にできたらアーポをおやつに買ってきてもいいぞ?」

「アーポ!わかったー!」


ドタバタとドアの向こうに消えていった“蜘蛛猫”を殿下は随分とお優しい眼差しで見送り、そして私に近づくように指で合図をしてくる

どう見てもドアの向こう側で聞き耳を立てている気配がありますが…視線でうったえるまでもなく殿下ほどのお方がそれに気づかないわけもない、私が頭を下げて耳を殿下の口元へやると彼は廊下にいる小さな隠密兵に聞こえないよう小声で囁いてくる


「……出来るだけタマに買い物はさせてやってくれ」

「……はぁ…“蜘蛛猫”に、ですか…?」

「……タマの境遇は把握しているだろう?どうやらツーカや買い物の事も知らないようでな、騎士団の中でこの手の常識を教えるのならお前が適任だ」

「……ふむ、店舗の指定は城下町の散策と外に慣れさせる訓練ですか?」

「……その通りだ、出来るだけ指定通りに頼む」


まぁ確かに二番隊では“蜘蛛猫”を甘やかすかもしくは理解レベルに合わせた教育は難しいだろうし

三番隊は頭も倫理観も軽い輩が多い故にまともな教育は確実に…確実に!!無理だろう。

五番隊では顔が広すぎてやれマケるだの持っていけだのと“普通の買い物”は恐らく学べない…


「はぁ……殿下がそう仰るのならば…」


立場上そう答えたが内心では不安が湯水の如く溢れて煮えくり返っていた、何故なら3週間を共にして“蜘蛛猫”について私が理解を示せたのはその類稀なる戦闘センスのみだったからだ


「あわー…!!」

「前を見て歩かないと転びますよ」


そんな“蜘蛛猫”は日中の喧騒に包まれた城下町を見るのは初めてなようで、あまりの感動に人の群れを好奇心に染めたキラキラと煌めく眼差しで眺め回している…一般人ならば見慣れてしまって鬱陶しいとまで考えそうなこの人混みと喧騒も“蜘蛛猫”の前ではサーカスか何かなのだろう

だが楽しいだけでは常識を学ぶことは出来ない、私は自前の財布を取り出しながら“蜘蛛猫”へと声をかけた


「“蜘蛛猫”、こちらへ」

「あい!」

「少しだけお勉強の時間です、殿下から頂いた財布を出してください」


舌っ足らずな返事も慣れてくれば愛嬌として素直に受け取れる、“蜘蛛猫”は手間取りながらも殿下から借りてきた小さなリュックに仕舞った財布を取り出して私に見せつけながら満足そうに鼻を鳴らす

まだ財布を出しただけだと言うのに得意げな“蜘蛛猫”を適当に褒めながら己の財布を開いてツーカを取り出した


「いいですか“蜘蛛猫”、これはツーカ…お金です」

「おあね」

「はい、お金です。お金は誰にとっても大事な物で、そしてコレが無ければ基本的に人から物を“買う”という行為はできません」

「おあねだーじ…!」

「えぇ、みんなこのツーカを大事にしていますし求めています。落としたり、失くしたり、簡単に譲渡…あげるのもいけません」

「わかた!!」


良い返事を返してくるのは良いことです

流石に一度で理解できるなどとは思わない、ただざっくりと金銭の大切さと無闇矢鱈に使ったり与えてはいけないという事だけうっすらとでも理解してくれれば御の字…


「そして世の中には泥棒という存在もいます」

「どろぼー?」

「はい、今言ったようにお金はとっても大事な物です。しかしお金がないと生きていけません。だから誰かのお金を無理やり奪う悪い者もいるのですよ」

「んおー…!わるい…!」


子供でも理解出来るような言葉を選ぶというのは案外難しい、だがとりあえず最低限伝えたい事は伝わったはずです


「さて次はツーカの価値ですよ、これは難しいですからしっかりと……あれ?」


ほんの一瞬、ほんの少しだけツーカを取り出して見せてあげるために視線を財布に集中しただけだというのに思いの外素直にこちらの話を聞いていた“蜘蛛猫”が忽然と消えた

買い物が失敗に終わるのは殿下もお許しくださるだろう、しかし“蜘蛛猫”を見失いあまつさえ解き放ってしまったとなれば大問題だ。もしも“蜘蛛猫”のあの幼児の様な姿がこちらを油断させる演技で、もしも虎視眈々と脱走の機会を伺っていたのだとすれば人民に危害を加える可能性だって十分にありえ………


「これください!」

「おっ!ぼっちゃん1人で買い物かい?偉いねぇ」

「へへへ〜!」


居た。普通にそこに。

しかし勝手に変な物を買われても…とリストを見れば今“蜘蛛猫”が買っているポタトはリストにある野菜だった


「(まさかチラリと見ただけの買い物リストを暗記…というかあの環境にいて文字を理解しているのですか…?)」


買い物や金銭の概念を理解していないのが演技ではないのならただ無知なだけで愚かではないのだろう、そう理解できれば多少の勝手も幼子の好奇心故に目くじらを立てる様なものでもなく仕方なしと割り切れる


「ツーカの価値もわかっていないのに離れないでください?」

「くれたすー!どれー?」

「店主、こちらのポタトを5つ…全部でいくらでしょうか」

「おや初めてのお買い物かい?ならちょっくら負けて351ツーカだ」

「いえ!148ツーカも値引きしてもらうわけには…」

「いいんだよ351で、ほらぼっちゃんお財布の中から四角いの全部出してみな?」

「しかくいの?」

「そ、こぉんな形だ」


指で四角形を描いて店主の男が教えると“蜘蛛猫”はチャリチャリと硬貨を鳴らしながら中を漁って四角い中硬貨を全て取り出して手のひらに並べて次は?と店主を見る


「よーしよし、んじゃ次は赤っぽいの一枚と…」

「ん…」

「銀色のが3枚と…」

「さん…まい…!」

「じゃあ今分けたのはおじさんが一回預かるからお財布に戻しな」

「あい…!」


言われた通りに店主へ350ツーカを渡して残りを財布へ戻す、そこで私はやっと35“1”ツーカという半端な値段に値引いてくれた意図を理解して店主に感謝を伝える


「へへ、まぁ子供のうちはとりあえずやってみるのが一番さな!

よしぼっちゃん!次はちっちゃくて丸くて赤っぽいの一個だ」

「んしょ…あか…まる…ちっちゃい………あった!!」

「よっしゃ!それが1ツーカで、さっきおじさんにくれた銀色のが300ツーカ、んで赤くて四角いのは50ツーカだ。わかったかい?」

「わかったー!」

「おぉ賢いぼっちゃんだ!ほれ、ご褒美にポタトもう一個つけてやる」

「やたー!!」

「こ、ここまで親切にして頂いたのにこれ以上は…」

「いいんだよ!いつかぼっちゃんらがウチのポタト以外も買いに来てくれりゃ利益になっからな!」


親切をあまり無碍に扱うのも良くない…私は改めて頭を下げて礼をしながらその店を“蜘蛛猫”と去り、こっそりと店名をメモしておく…あとで殿下に報告しておこう、我々の守る街はこれほどまでに親切の溢れる良い街であると伝えねば


「くれらすー!」

「私の名前はクレタスです!…それで?なんですか?」

「くれたすー!おかーものたのしいねー!」

「…そうですね、たまには良いものです」


それからは何店舗か店を回った、リストにあった物は食材から食器まで多岐に渡りまとまりがある様な無い様な…ともかく私のカバンも“蜘蛛猫”のリュックもいっぱいだ

リストも残りあと一つ、店舗もこの先真っ直ぐ行けばある…“蜘蛛猫”が勝手にリストに書いてある店の名前を探す遊びを始めたおかげで勝手に歩いて行ってしまった最初のポタト以外はリスト通りに完了できた


「さぁ“蜘蛛猫”、あと一つですよ」

「…………」

「どうかしましたか?」


話しかけても無反応な“蜘蛛猫”は少しずつ足を止めてついに完全に立ち止まる、その視線はずっと一点を見つめていて私は何を見ているのかと視線を合わせて向ける


「……だめ!」

「あぁちょっと?!」


しかし私が視線の先の正体を把握するよりも早く突然に“蜘蛛猫”が走り出した、何事かと追いかけるが訓練の時よりも圧倒的に速い…これは遠距離戦闘が主で王宮騎士団の中でも身体能力では劣る私だから感じる差ではない、恐らくあの速さに純粋な足で追いつけるのは王宮騎士団の中にも多くはないだろう


「だめ!!」


“蜘蛛猫”は見知らぬ男を追い抜いてその進路を塞いだ、どうやら視線の先に居たのはその男らしい


「っ?!なんだテメェ!?」


当然ながら男は狼狽している、言葉遣いはなかなかに粗暴だがそれだけで悪と決めつけるのは愚かな行いだ…だが勘違いにせよ何かあるにせよ、私は今一時といえど保護者として“蜘蛛猫”の行いに責任を持つ立場にある


「どうしましたか!」

「お、王宮騎士団…?!……た、助けてくれ!変なガキに絡まれてて…」

「“蜘蛛猫”、そちらの方が何かを?」

「ハァ?!」

「とった!おかね!」

「ばっ?!馬鹿野郎!そんな証拠がどこに!」


裏路地にでも姿を隠すつもりだったのであろう男は“蜘蛛猫”に行く手を阻まれて未だ大通りの上…そんな場所でこんなに騒げば何事かと野次馬が集まるのは自然の道理、今回も例に漏れずすでに包囲する様に野次馬たちがこちらを指差し好き勝手に囀っている

そんな中にいた1人の身なりの良い初老の紳士を指さして“蜘蛛猫”は叫んだ


「あのひと!!」


ざわりと群衆はどよめく、指をさされた紳士も突然に巻き込まれてかなり狼狽えている…一瞬共犯かと頭によぎるが“蜘蛛猫”の語彙はまだ未熟、早とちりで確保してからでは遅い


「彼がどうしたのですか?」

「あのひとの!あのひとのおかね!」

「なんと…?!……な、無い!私の財布が消えている…!!」

「チッ…!退けェッ!!」


やはり紳士は共犯ではなく被害者だった、懐を探り財布がない事に気づいた紳士が怪しい男を睨みつけるよりも早く彼はナイフを抜いて走り出した


「テメェのせいでぇぇぇッ!!」


真っ直ぐに“蜘蛛猫”に向かって走る男…あぁ確かにその判断は普通なら正しい

目の前にいるのは身長1メートルあるかどうかという亜人種の子供、お世辞にも正当とは言えないがその子供さえ居なければ財布も金も自分の物になっていたのだから怒りを向ける矛先としては正しい


「“蜘蛛猫”!殺してはいけませんよ!!」

「あいー!」

「なんッぐうぇッ?!」


しかしその矛先にいるのはただの幼子ではない、かつて王都を騒がせた幼き暗殺者“蜘蛛猫”だ

見事ナイフ共々街灯に宙吊りにされた男は苦しそうにもがきながら首に浅く食い込んだ蜘蛛の糸を掴もうと必死に足をバタつかせて生き延びようともがいている


「はぁ…降ろしなさい」

「いいの?」

「ォごぉぉぉっ?!」

「締め上げるのはやめて、すぐに降ろしなさい…このままだと死んでしまう」

「あーい」

「っごえッ!?」


どすん!と落下した痛みに短い悲鳴をあげた男は意図的に緩められた蜘蛛の糸と首の隙間に指を捩じ込んでコヒューコヒューと泡混じりの呼吸で必死に酸素が吸える有り難みを享受しているようだ

そんな文字通り息も絶え絶えな男を意にも介さず“蜘蛛猫”は財布を握りしめた手を強引に開いて財布をひったくる…本当に強引極まりなかった様で男はそこでも悲鳴をあげていましたが、まぁこの後に及んで放さないのもまぁ悪いでしょう


「あい!おかね!」

「あ、あぁ…ありがとうね、お嬢さん」

「あいー!」


普通ならば素直にお礼を言ってスリの男に文句でも言うのだろうが流石に宙吊りにされた男を見て同情心が湧いたのか紳士も少し引き気味ですね…


「財布の中身をご確認ください、中身を抜いてある可能性もございます」

「あ、あぁ!そうだな……いや、大丈夫そうだ。騎士団の方もありがとう、感謝するよ」

「いえ、これを生業としておりますから」

「からー!」

「……キミは騎士団ではないでしょう!」

「あれ?」


私の言葉にそうだっけ?と言う様に首を傾げていた“蜘蛛猫”だったが何かを思い出したのかピンと耳と尻尾を伸ばしてまた突然タタタっと走っていく、まっすぐ向かった先は倒れていた男…流石に自由が過ぎる


「くくっ…はっはっは!正直なところ少し怖い子供かと思っていたが、あぁなんとも不思議だ、見ているうちに絆されてしまいそうになる!」

「ははは…まったくです」


しゃがみ込んだ“蜘蛛猫”は男の首にかけていた蜘蛛の糸を切る、息がしやすくなった男は兎にも角にも酸素を求めて大きな呼吸を咳き込みながらも繰り返した

そんな男の様子を無視して“蜘蛛猫”は純粋無垢な目を向けたまま口を開いた


「あのね、おかね、とったらダメだよ?」

「ゲホッゲホッ……アァ?」

「おかね、たいせつだからとっちゃダメ」

「う、うるせえ!!お前みたいなガキに何がわかる!俺はなぁ!明日の飯が食えるかどうかすら怪しいんだよ!どうせ身なりのいい奴らなんか金を盗られたところで困りこそすれ飯は食える!服も着られるし家だってある!!」

「でも……」

「収入源だったモンスターの素材だってもう取れねえ…たった一度のヘマで負った怪我のせいで関節が変に歪んじまって戦おうにも痛くて剣が満足に触れねえ…!どの仕事でも満足に稼げねえ無能だから冒険者をやってたのに!その冒険者って仕事ですら無能だったんだ俺はァ!!!」

「あ、あわ……」


なるほど、怪我のせいで収入が絶たれてしまい、次の就職先も見つけられず盗人に堕ちる…

それ自体は実はそれなりによくある話ではあるがそれら全てを救うのは現実的に考えて不可能だろう、何故なら全員を救うためには文字通り山程の資金と時間を必要とするし彼ら全員の話を魔道具などで真偽を確かめつつ確認せねばならない、何より支援が必要な不幸とそれ以外とにボーダーラインを設けるのは救った一方以上に救わないと決めたライン近くに居る者を深く強く傷つける


「“蜘蛛猫”…ともかく彼を捕縛して……」

「聞くだけ聞いて結局は逮捕か!!良いご身分にいる奴らはいいよなぁ!他人を裁いてどうこうする権利があるのは楽しくて仕方ねえだ——

「うるさぁーーーい!!!」

——ゲフゥッ?!」

『えぇーーーー?!?!』


突然、あまりにも突然

個人的にはかなり痛い所を突かれていた真っ最中だったのだが“蜘蛛猫”的にはなんかずっと怒ってて怖いし煩いなぁ程度の認識でしかなかったのかもしれない…何せ“蜘蛛猫”は買い物という概念すらも今日知った重度の世間知らずなのだから


「おかね!!とったらだめ!!!」


そうだね、キミはずっとそれを男に教えていた

彼の境遇に同情はする、しかし同情を理由に罪を見逃せば次も、その次も、そのまた次も何度も見逃す事になる。一度作ってしまった前例は今後一生…一生どころか国が倒れるまで付いてまわる、何故ならそれが罪を犯す者にとってあまりにも都合の良い甘い蜜だから


「クソガキ…!テメェに何が…!!」

「ふぅ…彼は何も知りませんよ、今日初めてお金を学んだくらいですから」

「ハァ?!金の使い方も知らなかったどこぞの貴族の坊ちゃんって事じゃねえか!通りで王宮騎士団がくっついてるわけだ…尚更テメェは口を挟むんじゃ——

「うるさぁーーーーーい!!!!」

——ゴッホォ?!ってえなボコボコ殴るんじゃねえよタコ!!」

「タコちがう!タマ!!」

「名前を言ってんじゃねぇ!!」


なんだか茶番劇のようなやり取りを始めてしまった2人に呆れながら私は通信魔道具を起動してとある場所に通信を繋ぐ

やいのやいのと仲良く喧嘩する…ようにしか見えない2人のやり取りの中でタマがやり過ぎないかを監視しつつ通信の向こう側にいる彼に事情を話せばため息をつきながらも「しゃーねぇっスね」と腰を上げてこちらに来てくれる事で話がついた


「タマ、グーはやめなさい、せめてパーにしなさいパーに」

「ぱー?……ぱぁーーー!!!」

「いやそれグーッゴフゥ?!」

「パーはこうです、ほら私の手を見て…あぁもう違いますよ、指開いて、そう…で、こうっ」

「ぱぁーーー!!!」

「イィッテェ?!殴り直すなッ!!」

「今後はダメだよ、とする時はパーにするように」

「あーい!」


そうして男とタマがじゃれ合うこと十数分、事態も収まり野次馬も散って現場にはもうタマとクレタスと犯罪者の男だけ、被害者だった紳士は財布も返ってきたしあとはお任せしますよとだけ残して爽やかに去っていった

そろそろですかねと魔道時計をパキンと開いて時間を確認するのと同じタイミングで遠くから「おーーい!」と声が聞こえた、少しぼさっとした外ハネのある茶髪を揺らしながら走ってくる小柄な少女は王宮騎士団五番隊隊長、通称勇者のバナンだ


「何やってんスか、クレタスさん」

「来ましたねバナン、早速ですが彼です」

「はぁ…まったく、うちの隊は託児所じゃないんスよ?」

「総勢228名を抱える大部隊のうち150名以上が元は事情あって犯罪を犯した者ですしね」

「クレタスさんも38人も連れてきてるんスよ!!今回で39人目っスけど!!」

「なんだかんだと言いながらももう受け入れるつもりなのですね」

「だってあーしの選択肢に見捨てるとか無いッスもん!」

「そういう貴女だからこそ信頼できます、今回もお願いしますね」

「わかってますよ、ほら行くっスよ!キッチリ躾けてやるから覚悟するっス!」


離せ離せと暴れるが小柄な少女といえどバナンは王宮騎士団の隊長、環境故仕方ない部分あれど抵抗出来ないであろう御年配から財布を盗るような盗人では体格差も性差も意味を成さず引きずられる他ない

男を引きずっていくバナンを見送ると服の裾が控えめにクイクイと引っ張られる、何事かと視線を下げればそこには期待半分不安半分な目をしたタマがいた


「あの…えと…」

「…あぁ、そうですね。早く最後の買い物を済ませに行きましょうタマ」

「えとっ!あの…」


すっかり時刻を過ぎて薄ぼんやりと空が藍に染まる頃、ゴタゴタが思いの外長引いてしまったのは誤算でした

そして今目の前で言いたい事を言おうかどうか迷っている小さな子供が懸念しているのはもう帰る時間になってしまったのか、それとも自分の思っているアレはまだ有効なのか…といったところか


「ほら行きますよ、アーポが売り切れてしまいます」

「っ!!アーポ!!」

「美味しいアーポの見分け方もお教えしましょう、特別ですよ」

「やたーー!!!」


なるほど、何事にも全力で一喜一憂する姿というのは性別問わず母性を刺激されるものなのかもしれませんね

これもまた一つの学び、隊舎にペットを飼うのも隊員の士気向上に繋がるやもしれません

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