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保護猫

セカンド大陸の王都ミドミッテは今すこしばかり面倒な噂話が流れている

曰くとある男爵のことを探ると猫に喰われる

曰く隣人と身内の口には戸を立てねば蜘蛛の糸が首を切る

曰く暗闇で金色の瞳を見つけたら見なかった事にせよ

どの噂もそこそこに物騒でありバラバラなようでいて指している脅威は同一の存在だ、それは彼らが揃えて噂の事を“蜘蛛猫”と呼んだからだ

蜘蛛の糸を出す金色の瞳の猫…しかし魔物が出たと言う噂ではないのは話す者たちの雰囲気から感じ取れた


「…というわけです、どうしますか殿下」


殿下、そう俺は殿下だ。

俺ことアンドリュー・エルセルディティアはたまたま王族のエルセルディティアに生まれ、たまたま第一王子で、そしてたまたま武の適性もあったためこうして国民のために剣と魔法を日々磨き、そして側近のモーナと共に書類達との優雅な茶会を開いている


「黒幕の目星は付いている、だが証拠は無いし“蜘蛛猫”とやらの正体も掴めていない…どうするも何も多少強引な手段でもいいからさっさと片付けたいに決まってるだろう?蜘蛛猫が飼われている魔物だとしても凄腕の暗殺者だとしても民の脅威には違いないんだ」


ハッキリ言って王都に住む民は危機感が薄い、特に噂が蔓延る貴族街などまるでみんな自分だけは噂の外側から劇を見てる観客のような気でいる…被害者は全て貴族だというのに。

大きなため息を吐いた俺を見てモーナが苦笑する、多分彼女も俺と同じような事を考えているんだろう


「幸い不正の証拠は掴んだ、“蜘蛛猫”については監査の名目で押し入り調べてしまえばいいさ」

「平民からの評判と一部貴族からの評判に乖離があったのも助かりましたね…ただ孤児院への多額の寄付が気になります…」

「こういう時の寄付ってのはおおかた…やはり今夜にでも押し入るべきじゃないか?」

「しかし団員達の準備が…」

「だよなぁ…」


エルセルディティア家は代々武に重きを置く王族で、政治の面から国を治めるだけではなく矢面に立ち武勲で民と兵に希望を示してきた歴史があった

王族は武の適性があれば騎士団を、魔法の適性があれば魔術兵を任され国だけでなく兵を動かすための術も納めねばならない…ハッキリ言って困難な道だがこれも王族に生まれた者の務め、なんだかんだと慣れてしまった今じゃ充実感もある


「…ノックは要らん、入れ」

「やはり坊ちゃんには勝てませんな。騎士団各員、戦闘準備が完了しております」


ドアを開けて入ってきたのは副団長のエドガー・リバエック、騎士団としての俺を補佐してくれる頼りになる老兵だ

常日頃から未来でも見えているかのように先回りして仕事をこなしてくれるがどうやら今回も俺の足が落ち着かないのを見越して団員達に指示を飛ばしてくれたようだ


「持つべき者は有能な友人だな…エドガー、悪いが俺が待ちきれないから監査はこれから行くとでも兵達に伝えろ、あと馬の準備も頼む、雨が降っているから各々雨の対策を怠るなよ」

「はい坊ちゃん」

「モーナは書類をケースにまとめてくれ、荷物は俺が持つからそのあとはお前も武装してエドガー達に一時合流しろ」

「了解です、殿下の武具はどう致しますか?」

「今回は剣でいい、恐らく屋内で戦闘になるから少し短めの物にしてくれ」

「了解」


そして雨のなかを15人の兵が駆け、たどり着いたのがそれの居た屋敷…マルチネス・ゲドゥー男爵の住む屋敷だった

騎士団員が門番に書類を見せ強制監査を告げると襲いかかってきたので一瞬のうちにねじ伏せ拘束する、門を蹴り開け中へ突入すればわらわらと柄の悪そうな連中が故綺麗な鎧を着て湧いてくる…しかしそのどれもがあまりに練度が低い、鎧の汚れや傷が少ないのは手入れが入念なのではなく使用頻度が低いだけのようだ


「屋敷の扉は魔法で撃て、中に伏兵がいる可能性がある」

「手筈は整っております」

「流石エドガーだ………撃て!」

「「「『ウォーターバレット』!」」」


3人の兵がドアに向けて水魔法を放ち、中で待ち構えていた伏兵ごとドアを吹き飛ばす…外に4人ほど残しアンドリュー達は中へ突入する、何人か薙ぎ倒しながら進むとすぐに広いエントランスホールにたどり着いた

そこには身長3メートルを超える異常な雰囲気と皮の拘束具を全身に纏った大男がいた


「Grrr……ガァァァッ!!」

「…調査通りか、モーナ!」

「了解です殿下」


雄叫びを上げながら拘束具を引きちぎり拳を振り上げた大男が床を殴りつける、瓦礫が飛び散り大理石の床には大穴が開くがすでにモーナはそこに居ない

キンッと剣が鞘に収められたと同時に大男の全身から血が飛び、ガクンと脱力して床に倒れ込んだ。全身の腱を正確に切られ筋肉を動かせなくなった大男はしばらく暴れたあと騎士団の拘束を待つ事なく突然血反吐をドボドボと吐き出して事切れた


「モーナ」

「はい、私がトドメを刺したわけではありません」

「これはいよいよのんびりとしている暇は無いな、急ぐぞ」


2人1組で屋敷の中を捜索していけばあっさりとゲドゥー男爵は見つかった、どうやら自分の兵と大男がいれば逃げ切る時間はあると思っていたようで悠長にも鞄に着替えを詰めていたのだ


「き、貴様ら!?実験体はどうした!!」

「あの大男なら自慢の側近が片付けてくれたよ、次はもっと優秀な兵を育てておけ」

「くっ!『ファイ…ウギャアっ?!」

「悪いが、“次は”ってのはジョークだ、お前に次は無い。」


腕を切り飛ばされたゲドゥー男爵はピーピーとやかましく泣き喚きながら床を転がる、それから間も無く屋敷内の全員が鎮圧、何人かはあの大男のように異常な雰囲気をした者もいたが王宮騎士団の前では無力…偶然不意打ちに成功して善戦した個体も居たがその個体も数分争っているうちに突然血反吐を吐き出して事切れたと報告があった


………あー…

……にゃあー…


「っ?モーナ、何か聞こえないか」

「これは…猫、でしょうか…?それにしてはどこか人間のような…」


そこでアンドリューの脳裏に孤児院への多額の寄付の話が頭をよぎった、慌てて声の出所を探ると男爵の書斎の隣の部屋、その床からその弱々しい声が聞こえてくる

絨毯を引き剥がし現れた鍵付きの鉄扉へを剣を突き立て鍵を破壊すると鉄扉の向こうには真っ暗な闇とそこに向かって伸びるハシゴ…そして奥からは腐敗臭とそれを覆い隠そうとする香水の臭い…そしてあまりにも濃い血の臭いが吹き上がってきた


にゃあー…げほっげほっ…


暗闇の向こうから聞こえたのはさっきの猫の鳴き真似だった、それを聞いたアンドリューは光の魔法で地下空間を照らしながら中へと飛び降りる


「殿下!?あぁもうっ!」


モーナもアンドリューを追って中へ降りるとそこには何個かの扉とその対面に檻が並んだ地下空間があった、そして奥から2番目の扉の向こうからガタンと物音、その奥の檻からは弱々しい猫の鳴き真似がハッキリと聞こえてくる

アンドリューとモーナは言葉を交わさずアイコンタクトだけで分担を決めアンドリューは物音がした扉へ、モーナは檻へと走った


「王宮騎士団だ!!抵抗をやめて床へ伏せろッ!!」

「ッヒィィ?!や、やめてくれ!私はただの研究者だぁ!!」


情けなく床を転がり部屋の隅へと逃げていくガリガリの白衣の男、そしてその男とアンドリューを照らすのはエメラルドグリーンの培養液が入った巨大なカプセル型魔道具と何かの情報を計測している魔道具の光だった…

そしてその培養液の中、そこには何体かの謎の生物が蠢き、呼吸をしているのかゴボゴボとあぶくを吐いている


「これは!!吐け!!」

「し、新人類だ!私の研究は必ず人間種の繁栄に役立つ…学会や国は愚かだから知らない!人間種の力には限界がある!!いつか魔物に食い殺される運命の中で呑気に笑っていては滅びるだけだ!!!」

「…孤児院から何を受け取った」

「聞かずともわかるだろう?!孤児を何人か買っただけだ!強欲なシスターは金を積めばすぐに孤児を差し出した!非検体1匹50万ツーカ、こんなに便利な仕入れ先はないだろう!?」


子供の命がたったの50万ツーカ、それも攫ってきたのではなくよりにもよって孤児院を管理する修道女がそんな端金に目が眩んで不幸な孤児を売った

その事実にアンドリューは思わず握りしめた剣を男に向かって振り上げた


「御止めください、殿下。」

「……助かった、コイツを連れていけ。」


モーナに拘束され喚き散らしながら連れていかれる男の肩にアンドリューはポンと手を置く、何事かと振り返った男の顔面には直後拳がめり込み扉の向こうにあった檻へ体が激突していた。モーナもタイミングよくパッと男から手を離しており、彼女も冷静であろうと努めていただけで内心は怒りに震えていたのだと行動で示されたアンドリューは苦笑しながらも安堵する


「お前の罪には一体何年の時が課せられお前の命には何ツーカの価値がつくか…今から楽しみにしておけこの愚かな外道が。」


愚か、という言葉に男は激昂するがモーナによって足を刺されるとすぐに悲鳴をあげるだけになった


「…モーナ、奥の檻はどうだった」

「小さな子供がいます、安易に動かすのも危険なのではないかと思いヒールの使える団員を呼びます」


その言葉は突然に男から飛び出した、奥の檻の子供という言葉で最後の希望を思い出したのだろう


「47番!!()()()()だ!屋敷の中にいる者を全員殺せェッ!!」


ピリピリと地下空間に響くほどの声量、アンドリューとモーナは剣を抜き身構えるが檻の方から聞こえてくるのは変わらず猫の鳴き真似だけだった

早くしろ!と喚いている男を殴って気絶させモーナにアイコンタクトで確認を取る、どうぞと返されたアンドリューは慎重に檻へと近づき中の光景を見て息を呑んだ


「…こんな、こんなの…」


血まみれの子供だ、身長は1メートルあるかないか程の小さな子供が猫の鳴き真似を繰り返している

キャット種の半獣人なのであろう事がわかる特徴的な頭の三角耳は片方が千切られ焼け爛れた痕がある、服として着せられているのであろうマントの下は何も着ておらず痩せ細った身体とあちこちの傷と傷跡が生々しい…そしてそれら全てが血に塗れて薄暗い地下空間のわずかな光を反射して痛々しく反射していた


「殿下っ!」

「急いで治療にあたれ、この子は一時的に騎士団で預かることにする」

「し、しかし…!」


駆けつけた団員もモーナも、そしてアンドリューも察したのだろう…何故か目の前で酷く痛めつけられている子供が噂の“蜘蛛猫”本人なのだと

しかしアンドリューの強い意志により推定“蜘蛛猫”である子供は治療を受けて王宮騎士団の本部であるアンドリューの屋敷へと運び込まれ…やがて猫の鳴き真似をやめて静かに寝息を立てたのだった


「孤児院を調べたところあの男に買い取られた孤児は13名、内どうなったかが判明したのは6名でした」

「半分も満たないじゃないか…」

「推測を含むのならば12名は死亡…研究材料として解剖された子供が6人と屋敷の中で戦った大男を含む人間種に似た何か達の死体の随所に見られた特徴から見て恐らく6人の子供が…」

「……そして最後の1人が“蜘蛛猫”である、と」

「あくまで推測ですがほぼ間違いないでしょう」


次の日、アンドリューとモーナは報告をまとめていた。孤児院の修道女達は取り調べの後全員が事件に関与していると判明、今はゲドゥー男爵達と共に牢の中だ

新たな管理人が見つかるまでは王宮から人材を派遣する許可を得たがいっそこのまま王宮の人間を使い続けた方が下手な事件は防止できるかもしれないと大臣はこぼしていた


「それで、“蜘蛛猫”はどうなった」

「魔法と医療、両方での治療を行いましたがあまりにも負傷が重く古いため全快には至らず…」

「それは日誌の方にあったな…反吐が出るような話だ…」


アンドリューはゲドゥー男爵と研究者の男が残していた日誌も確認していた、正直あまりに醜悪で下衆な内容に読みたくないという気持ちが強いがまだどこかに支部などが残されていては困るため読まないわけにもいかない


“蜘蛛猫”は実験体の中で唯一肉体を維持している個体であり、また記憶を消す薬品のせいか生物として当たり前な本能の一部が欠落した

鉄の棒で殴り続けてみたが逃げたり抵抗するそぶりは無し、増長した部下の1人が熱した鉄を耳に流し込んだが悲鳴こそあげたものの冷めた鉄を引き摺り出した時でもこちらの様子を伺うような顔をする。試しによくやったと声をかけて笑いかけてやると愚かな事に鉄を流した部下の上司に当たる私に安心し切った笑みを返してきた

ただし片耳が完全に機能しなくなってしまったのは少々痛手だ、屋敷にいる部下たちではオペレーションヒールほどの魔法は使えないためとりあえず耳の形だけはある程度ヒールで整えた

なかなか愉快な個体だ、量産に成功すれば一部のもの好きな貴族には高く売れるだろう


日誌を書き写した資料を握る手に力がこもる、グシャリと潰れた紙を見てモーナは静かに机の上に置かれたコーヒーをアンドリューの前に押し、落ち着いてくださいと嗜める


「しかし栄養失調や魔力が枯渇して弱っており、全快させるために治療を続けるのはかえって不安定な可能性のあるあの身体には負担になると判断して中断、今は眠っています」

「ありがとう、拘束はしなくていいが寝かせている部屋には逃走防止のための魔道具をしておいてやってくれ、もしかしたら()()()()とやらが仕込まれているかもしれん」

「それは滞りなく…おつかい、十中八九暗殺などの指令なのでしょうがあの時動けなかった事を考えると魔法や魔道具で縛り付けるのではなく芸として仕込んでいたのでしょう」

「だから孤児院の幼い子供を狙ったんだろうな、アイツらの研究資料に目を通したが強い薬品で人間種としての記憶は全て飛ばして無理やり魔物の遺伝子と融合させた実験体を教育するらしい。」

「つまりあの子供はキャット種ではなく純粋な人間種の…?!」

「いや一応は獣人の血ではある、ただせいぜいが1割程度のものでほとんど人間種…そこへさらにキャット種の遺伝子を足したせいで眠っていた血が力を持ったのかスパイダー種の遺伝子以外はほぼ特性を発揮出来ず、とあった」


アンドリューは怒りを沈めるための大きく深いため息を吐き黙ってコーヒーを一口飲んだ

その時だ、アンドリューの耳が何かが床に落ちる物音を感じ取った…小さな音だったが確かに聞こえる、次いで何かが慌てて動き回る音と小さくだが子供の声がして2人は廊下へ出て“蜘蛛猫”を寝かせた客室へと急いだ


「どうした!?」


モーナを廊下で待機させながらアンドリューが勢いよく扉を開けて中へ飛び込む、そこには“蜘蛛猫”の姿がなく驚くがさらに部屋の至る所が血で濡れていた


「なぜ血が!?」


驚愕に叫ぶ声に驚いたモーナも部屋の中の惨状を見て驚く、だがすぐに正気を取り戻しアンドリューに小さく「“蜘蛛猫”が居ません…!」と耳打ちする、それにハッとしたアンドリューによって部屋の中の捜索が始まった

家具やカーテンの裏を確認するが姿が見えずあちこちを確認していると床に落ちた血がベッドに向かって掠れて伸びているのに気づいた…


「にゃ……にゃあー…」

「っ!そこか!!」


アンドリューがベッドに駆け寄り下を覗き込むとぼろぼろと涙をこぼすあの小さな子供がいた、両手から血を流してはいるが怪我の様子からして何故か自分で傷をつけたようだ


「居た!……ほら、おいでっ…大丈夫、痛いことしないから…」


何やら動揺している様子の“蜘蛛猫”をこれ以上怯えさせないように努めて優しい声色を出す、おっかなびっくり少しずつ手が伸びて来てアンドリューはその手を掴んだ


「捕まえた!!」

「ひっ!!」

「ほらおいで…」


思わず声を出してしまったからびっくりさせてしまったと反省してアンドリューは努めて優しく丁寧に声をかけ、怪我を悪化させたりしないようにベッドの下から引き摺り出して抱え上げる


「にゃ…にゃあー…」

「な、なんだ?」


抱え上げた“蜘蛛猫”は困惑の表情のままこちらをチラチラとアンドリューの顔色を伺いながら猫の真似をする、当然困惑するアンドリューだがさらに困惑する事となる

突然腕の中からするりと抜け出し飛び降りた“蜘蛛猫”はよたよたと数歩進んで突然服を脱ぎ捨てた


「えっ?!ハァ?!ど、どうした!?」


突然の奇行に驚くアンドリューを無視しておもむろに“蜘蛛猫”は腕を振り上げた、止める間も無く振り下ろされた拳はせっかく治療した腕の骨を容易くへし折った


「お、おい!?」


しかし“蜘蛛猫”はチラリとアンドリューを見ると慌てて己の腕に噛みついた、肉を噛みちぎろうと力を込めるのがわかったアンドリューは慌てて顎を掴み口を開かせながら“蜘蛛猫”がこれ以上自傷を繰り返さないようにしっかりと抱き上げ直す


「なにをやっているんだ!!」


思わず怒鳴ってしまった、その瞬間“蜘蛛猫”の表情が怯え一色に変わりか細い声で「ちがう、ましたか…?ごめん、なさい…」と拙い言葉で謝罪してくる…その姿があまりに痛ましく、そして歪でアンドリューは声を荒げてしまった自分を心の中で責め立てた

悪辣極まりないゲドゥー男爵一派の思考に資料という形で触れているうちに荒んでいた心を“蜘蛛猫”の奇行に対する動揺から他でもない被害者である彼にぶつけてしまったとアンドリューは反省する


「もういい、そんな事しなくていいんだよ…」


目の前で本当に何が何なのか訳がわからないという表情をしている“蜘蛛猫”を見てアンドリューは涙が出そうなほど怒りに震えた

親を失い、人間種としての生も奪われ、複数の遺伝子が混合させられてしまってはまともな獣人として扱う事もできず、そして何より彼が心の拠り所としたであろう者たちは人間種だった時も“蜘蛛猫”となってからも彼のことを微塵も愛してなどいなかった

ただ今出来る事をと思ってアンドリューは優しく“蜘蛛猫”の頭を撫でる、親が子を宥める時のように出来る限りの慈愛の心を込めて撫でる…


「???」

「…ッ!」


だが撫でられた“蜘蛛猫”はそれがどういった行為なのかを全く理解していない、それどころかあれだけ暴行を受け耳に熱した鉄まで流されたというのに頭を触られる事を恐れない

アンドリューは思わず怒りに拳を握り締める、すると途端に“蜘蛛猫”は尻尾を揺らしてあまつさえ頭を差し出してくる


「ごめんな…」


おかしいだろうそれは、頭を撫でられるという行為と拳に対するリアクションがこれではあべこべだ。小さな子供が撫でられる事の意味もわからず困惑して殴られると感じて頭を差し出すなんて本能の欠如だけじゃ起こり得ない

アンドリューの中で一つの予想が浮かぶ…きっとゲドゥー男爵たちの暴行とその時の反応を見て“蜘蛛猫”は他者は自分に暴行をはたらく事で喜んでくれると学んでしまったのだ

だんだんと自分を律しきれない己が情けなくなってきたアンドリューは再び困惑する“蜘蛛猫”の頭を撫でる…すると“蜘蛛猫”は何をしているの?と言いたげな様子で「うっ…うっ…はやく…」とアンドリューの手を取り拳を無理やり作らせて頭へ戻すのだ

“蜘蛛猫”が殺した人数は2桁になる、だがそれが信じられないほど彼の手は細く弱々しい、アンドリューが“蜘蛛猫”をベッドに座らせ不慣れながら治癒の魔法をかけようとするがするりと脇を抜けて床にぺたんと座り込んで腕を差し出してくる。アンドリューにはその行動の意図が分からなかったが“蜘蛛猫”を再びベッドに座らせてやると今度はハッとした顔で羽毛布団にくるまって怪我をしていない手を差し出してくる…優しく怪我している方の手を引っ張り出してヒールをかけてやる


「あんまり治癒の魔法は上手くなくて、ごめんな…」


本能の一部が欠如しているだけで痛みを感じていないわけではない、痛みが引いた“蜘蛛猫”がそこでおもむろに口を開く


「…だれ?」


突然見たことのない部屋に連れてこられ、見たことのない男に話しかけられているのだからその疑問は正しいのだが今更が過ぎる、その疑問を抱くのはもう流石に今更が過ぎる

思わず小さく笑ってしまったアンドリューに“蜘蛛猫”は嬉しそうに「だれ?だれ?」と何故アンドリューが笑ったのかも理解しないまま「だれ?」と繰り返す


「そうだよな、訳わかんないよな

俺の名前はアンドリュー、キミを助けるのが遅れてごめんな」


一国の王子がこんなにも謝罪を軽々しく何度も行うのはいけない事かもしれない、何より“蜘蛛猫”は一応人を殺してじまっている…それでもアンドリューは腕の中で気持ち良さそうにゴロゴロと喉を鳴らす小さな命に罪を問う気にはどうしてもなれなかった


「だれ…?」

「誰ってアンドリューだって、フルネームも言うか?アンドリュー・エルセルディティア、このセカンド大陸で第一王子をやってるんだ」


ぴんっと“蜘蛛猫”の耳が反応する、ここに来て新しいリアクションにアンドリューはおや?とは思いながらも口を僅かに開けたまま何かを考えているのかフリーズする“蜘蛛猫”の頭を撫でる手は止めない


「なぁんだよお前ぇ〜さっきから喉ゴロゴロ鳴らして猫みたいなやつだなぁ?」


可愛さに思わずうりうりと撫で回しながらアンドリューはふと気づく、よく見れば“蜘蛛猫”の容姿は中性的で可愛らしい印象を受ける…そんな“蜘蛛猫”を保護した時、マント以外の衣服を着ておらずさらに先ほどは自ら衣服を脱ぎ捨てた…?


「……えっ?!まさかアイツそういう趣味だったのか?!」


ゲドゥー男爵一派はいたいけな少女のような容姿をした子供を裸にむいて嬲る趣味だったのではないか?という仮説が浮かび上がればもういよいよ許せる許せないじゃなく直通でギルティだ、個人の趣味趣向をとやかく言う気は無いが限度とモラルってものがあるだろう

アンドリューが妄想を暴走させ戦慄していると“蜘蛛猫”が突然威嚇するように唸り出した


「(……怖い、というよりは可愛らしいな…)」


血に塗れた無慈悲な暗殺者な側面を見せられれば話は別だろうが現状アンドリューから見た“蜘蛛猫”は変態男爵と不快な仲間たちによって人生を滅茶苦茶にされた可哀想な可愛い子供だ、威嚇された程度では微笑ましいとか可愛らしいという感情こそ湧いても恐怖は無い


「…ウゥ?」


寝ている間に爪が整えられたらしい、鋭い爪を武器にするのは資料にあったからだ。丸っこく整えられた爪でムニムニと己の腕を撫ぜていた“蜘蛛猫”はおもむろにギュッと力を込めて引っ掻く、痛々しいミミズ腫れが出来たのでアンドリューがすかさずヒールで治す

ならばと蜘蛛の糸を出そうとしてきたがそれも発射口である手のひらを塞げば多少粘つくがそれだけだ


「…知ってるよ、あのクソ野郎が俺の暗殺計画をお前に漏らしてたんだろ?」


少々鈍いところがあるアンドリューでも己の素性を明かしたタイミングでわたわたと暴れ出せば流石に意図は察する、そもそも王族というだけで命を狙われる事くらいは日常的にあるのだ


「もういいんだ、あのクソ野郎は俺が捕まえて…」


そう言葉を続けた瞬間だった


「ッ!!パパ!!」


腕の中で可愛らしく暴れていた子供の殺気が膨れ上がった、ぞわりとしたその予感に戦闘慣れした身体は自然と動き“蜘蛛猫”をただの保護猫ではなく何十人と人を殺めた暗殺者と認識を改めて素早く拘束する


「フシャーッ!!」


ぞわりと殺気が頬を撫ぜるといつの間にか頬に熱が残っていた、たらりと流れ出した血に扉のところで待機していたモーナが剣を抜こうとするがそれを手で制して暴れる“蜘蛛猫”の攻撃に耐える…

腕の中で暴れる暗殺者の身体は少しでも拘束する力を強めればぐちゃぐちゃになってしまいそうな程か細く華奢だ


「ウゥゥゥゥッ!ガァッ!!うあああっ!!はなす!はなす、して!パパぁっ!!!」


“蜘蛛猫”はゲドゥー男爵一派を“パパ”と呼ぶ、そう仕込まれたのだろうがアンドリューにとってそれが何より腹立たしかった。どうせ子は親に従うものであり、自分たちがその親であると教えたのだろう、無垢な“蜘蛛猫”は疑うことなくそれを信じ、学び、そして言われるがままに人を殺めた

さぞ都合が良かっただろう、戯れに痛めつけても自分を害されていると認識できないのだから

さぞ扱いやすかっただろう、何も知らない子猫に暗殺者という芸を仕込み無垢につけ込み親と騙ったのだから


「ぱ、パ……」


暴れに暴れ何時間も暴れて、ついに体力が尽きて眠りに落ちた“蜘蛛猫”をベッドに寝かせる…アンドリューは己の中で燃え上がり続けていた怒りの感情が突然に凪ぐ感覚に襲われた、怒りも過ぎれば冷静で冷たくなるものだとは知識として知っていたが体験するのは初めてだ

眠りに落ちるほど疲れる前に休む、そんな当たり前すらも知らないほど無垢で幼い子供はたったの数時間で気絶するように眠るほどに衰弱している…その事実がやるせなかった

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