一本目 (4)
二つ目の広間の右奥に、以前図書館員の執務室だった小部屋がある。
アメリーが煙草の箱を手渡すと、彼はよろめきながらその小部屋に向かった。
なんだか心配になったアメリーは、彼の後を追って小部屋に入った。
元執務室だったその場所は、がらんとしてほとんど何もない。館員が使っていたであろう椅子や机がいくつか残っているだけだ。
窓辺に置かれた椅子に腰掛け、彼は一本の煙草に火を点けた。慣れた仕草で、細く開けた窓の隙間から煙をふ、と吐き出す。
傾いてきた太陽の光が射す、彼の横顔。首の筋が斜めに浮き上がる。
アメリーは小部屋の入り口に立ち止まり、その光景をしばらく見つめていた。
斜陽に映し出された彼のシルエット。窓枠に切り取られた世界のそこだけが、まるで一つの絵画のようで。どうしてだか、目が釘付けとなって離れない。
入り口で立ちすくんでいるアメリーに気づいて、彼はそちらへ顔を向けた。ほんの少し小首を傾げ、妖しく微笑む。
「どうしたの?」
ハッと我に返り、アメリーは答えた。
「あ、いえ……。大丈夫かと思って」
「心配してくれたの? ありがとう」
今度はにっこりと、彼はアメリーに笑顔を投げかけた。青白かった顔には血色が戻り、大分回復したように見える。
「そういえば君、ここに何か用事があったんじゃないの?」
その言葉を聞いて、彼女は再びハッとした。
「あ、そうでした。本を探さないと」
そそくさと小部屋を後にし、アメリーは書籍の捜索を再開する。
目当てのものは、二つ目の広間でそれほど時間をかけずに見つけることができた。
よし、戻りましょう。
彼女は書籍を手提げカバンに入れ、図書館の出口のほうへと向きを変えた。
すると、そこには先ほどの王子が立っていた。二つ目と最初の広間を繋ぐ出入り口のあたりに、背をもたれかけてアメリーを見ている。
「用事は終わった? お嬢さん」
お嬢さん、そう呼びかけられて、アメリーは自分が名乗っていないことを思い出した。まずいわ。王子に向かって何たる無礼。慌てて頭を下げる。
「申し訳ございません、殿下。アメリーと申します。少し前から王城図書館にて勤務しております」
「あれ、僕のこと知ってた?」
アメリーが彼の正体に気づいていることは、おそらく分かっていただろうに。彼はわざとらしく、少し目を見開いてみせた。
「恐れながら……、瞳のお色から。あと、以前遠目にお姿を拝したことがございます」
アメリーが王城勤めを始めてすぐの頃、第二王子の成人、即ち十八歳を祝うパレードが行われた。パレードの最後、王子は城の前で人々に顔を見せていた。
彼女は勤務中だったが、せっかくだから見ておいで、などと館長に勧められ、同僚に連れられて見物に行った。
既に人だかりができていたので、アメリーにはその姿はちらりとしか見えなかった。
だが、王子がどのような存在かということを感じるには、その一瞬で十分だった。
よく晴れた空の下、燦然と輝く太陽にも負けないほどの光を、彼は放っていた。影など微塵も感じられない、直視できないほどの眩い姿。
「そっか。君はよくここに来るの?」
「いえ、今日はたまたま、その、お使いの帰りで」
「お使い?」
「あの、週に一度のお使いです、水曜日の」
――以前見た姿とはまるで別人だわ。パレードで見た王子を思い出し、そんな考えを浮かべていたアメリー。
そこに話しかけられたことで、彼女はしどろもどろな受け答えをすることになった。
「じゃあ、来週も水曜にここに来れば、君に会える?」
「……え?」
アメリーはぽかんと彼を見つめた。
なぜ王子が、いち図書館員に会う必要があるのだろう。
それに、この第二図書館へは毎週来る訳ではない。今日は偶然用事があっただけで、普段彼女が訪れることは滅多にない。
「特別に用事があっただけで、ここに毎週来てる訳ではないんです」
「でも、お使いは毎週なんでしょ? それなら帰りに寄ればいい」
「…………」
アメリーは閉口した。仮にも王子からの用命だ。断ることはできない。
しかし、明らかに訳有りのこの状況。お使い帰りに王子に会ってきますなどと、館長に言えるはずもない。
「煙草一本分。それくらいの時間なら、寄っても大丈夫でしょ?」
またしてもアメリーの心を読んだかのように、彼は平然と畳み掛けた。
美しい顔に浮かぶ余裕たっぷりの微笑は、全く掴みどころがない。灯を点したような赤い瞳は妖艶に光り、見つめられたものは誰であろうと呑み込まれそうなほど。
気圧されて何も言えずにいるアメリーに、彼はさらなる追い打ちをかけた。
「じゃあ来週、水曜の午後にここで。アメリー、待っているよ」