Epilogue. ――零本目
半分ほど開け放たれた窓を通って、部屋に一筋の風が舞い込む。同時に、早春に咲く花のような淡黄の光が流れ、柔らかな午後の温もりを窓辺に届ける。
アメリーはふと顔を上げると、机に向かって何かを書き付けていた手を止めた。ペンを一度置いて、椅子に座ったまま小さく伸びをする。
――条件、だなんて。
あと少しだけ、気を落ち着けて状況を整理する時間が欲しかった。自分でもなんだか分からないままに、その場しのぎで咄嗟に零れた言葉だった。
けれど、迫り来る彼の動きが鈍ったことに一旦は安堵し、深呼吸の一つでもしてみれば大分心も落ち着いて、この際だから気になっていたことを告げてみた。
煙草をやめてほしい、と。
煙草の流行が去り、今では限られた人しか喫煙していないとはいえ、根強い愛好家は多い。そのため技術開発が進んで、健康被害は最小限らしいというものの。
ちょっと“息抜き”時に持ち歩くのを忘れたくらいで中毒症状を起こすほど常用していれば、身体に良いとはいえないだろう。
「なんだ、そんなことか」、拍子抜けしたように彼は言って、いつか見た木漏れ日みたいな笑顔を浮かべた。
「別に好きで吸ってた訳じゃないんだ。気紛れに手を出したら予想外に、体質的に手離せなくなっちゃって。良い機会だからきっぱりやめるよ」
それからもう一つ。
図書館員の仕事を続けるだとか、今の生活を全く崩さぬまま王子からの求婚を受けるなどという話は流石に憚られると。
そんなこと気にしなくていいのに、言いつつ彼は少し考える素振りをして――良いことを思いついた、とでもいう表情を見せた。
「じゃあ、週に一度だけ王子妃として過ごしてもらおう。正式に婚姻を結ぶまでは妃見習いとして、勉強に来てもらう。毎週、水曜日に」
二つの条件はあっさり満たされ、それ以上、アメリーに彼の申し出を拒否する理由はなかった。
こうして彼女は、今日は初めての妃見習いとして、王宮の片隅にて勉学に励んでいる。
内容は、例えば王子妃として過ごすための礼儀作法の見直しに、政務に係る書類の読み方や外国語の勉強など。
礼儀作法は堅苦しいけれど、仮にも領主の娘であるアメリー、最低限の土台はある。また、元々読書家である彼女にとって、机に向かう勉学は特に苦でもなかった。
一息ついた後、再び与えられた課題を進めようと彼女がペンを取ったとき、部屋の扉が開いた。
「初日はどう? アメリー。そろそろ休憩して一緒にお茶でも」
朗らかに微笑むのは、彼女の婚約者となった王子。
あのあと諸々の手筈を整えるのにひと月近くかかったので、しっかり顔を合わせるのはわりと久しぶりだ。
彼は医師の指導の下、禁煙を進めていたというが。
「体調は大丈夫ですか?」
多量喫煙者が禁煙するのはかなり辛いらしいと、アメリーは以前聞いたことがあった。
頭痛や身体の怠さ、不快感等。初めて第二図書館で会った彼を思い起こせば、青ざめ、ふらふらして今にも倒れそうだった。おそらくそれに似た症状が出るのだろう。
「あー……、実はちょっと」
アメリーの座る書物机の前までやってきた彼は、言いながら少しふらついた。項垂れて、机に手をつくようにして身体を支える。
アメリーは慌てて立ち上がり、彼に駆け寄った。心配と、禁煙を請うたのは彼女自身、申し訳なさもある。
が、しかし。
俯く彼の前髪の隙間から惑わすような光が一瞬煌めいて――あ、まずいわ。思ったときには既に遅く。
瞬く間にアメリーは彼の両腕の中に抱え込まれていた。
彼の肩越しに、控えていた侍女が耳まで赤く染めて部屋を出ていくのが見える。
「……騙したのですね」
「人聞きの悪いことを言うね」
悪びれる様子など微塵もなく、彼はにこにこと愉しそうにアメリーを見下ろしている。
「それに、騙したわけじゃない。重症だよ。煙草の離脱症状はもうすっかり治まったけど」
首を傾げるアメリーに向けて、彼は事もなげに言い放った。
「僕は今、別の中毒に悩まされてる。君に触れていないと途端に具合が悪くなるんだから。煙草なんかよりずっと厄介だ」
思わず、アメリーは頭を抱え――こんな甘ったるく胸焼けするような言葉を吐かれて、世の女性はうっとりするものなのだろうか? 脳裏に半ば呆れたような疑問がよぎる。
けれどもそんな一般論など何の役にも立たないことは、彼女にもよく解っていた。
その心の内を知ってか知らずか、彼女を襲うはさらなる追い討ち。
「ああでも煙草とは違って、君には気紛れで手を出したわけじゃない。この中毒症状が治まることはないよ、永遠にね」
在るはずのない煙が彼女の鼻先を掠めて、そのまま喉元へと流れ、絡みつくような錯覚を覚える。
苦く、焼けるほどに熱く、ざらざらとまるで砂糖菓子のように甘い。
――これを快いと感じてしまうのだから、私も相当に重症だわ……。
そんな自分自身に狼狽えつつ、彼女はもはや逃げ出そうとも思わなかった。彼を前に、下手に抵抗したところで意味はない。
抗うことを諦めた彼女は、恥じらいを残しながらも顔を上げ、一対の緋い瞳に存分に見惚れた。
そこに差すのは慈しむような光、心臓はうるさく悲鳴を上げている。
瞳の炎は空気をはらみ、世界のあらゆるものを呑み込んで、大きく燃え上がって。
彼女はそこから視線を逸らすことなどかなわず、ついには――
目の前が真っ赤になった。
彼女の、中毒王子との水曜日の逢瀬は、どうやらもうしばらく続く。
――fin.
これにて完結です。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました!!
5/17(水)、次ページにおまけの番外編+イラストを追加しました。