赤い花 (3)
しかしながら、彼女の決意は一瞬のうちにさっぱり忘れ去られることとなる。
覚悟を決めたアメリーが、強い眼差しを以て応接間の出入り口を凝視した、ちょうど次の瞬間。
――扉が開いた。
現れたのは、剛健な騎士でも偉そうな大臣でもない、一人の美しい青年。
癖一つなく真っ直ぐに輝く黄金の髪、琥珀に火を灯したような珍しい緋の瞳。
身に纏うは純白の騎士服、金や王家の象徴である赤にて煌びやかな装飾がなされたそれは、高位貴族の正装。
物語から抜け出てきたかのような見目麗しい王子は、冬の終わりを告げる一陣の風にも似た清爽な笑みを湛えて言った。
「やあアメリー、久しぶりだね」
アメリーは息を呑んでその姿を見つめ――、そして、どなた様ですか? 思わずそう問いたくなる気持ちをぐっと抑えた。
こんな人は知らない。なんとも爽やかな笑顔を携えて、世界中の光を全部集めたみたいに輝いて。
……いや違う、見たことがある。昨年王城勤務を始めてすぐ、成人を祝うパレードで遠目に姿を見た。
彼はこの国の第二王子ロベールだ。
応接間に現れた彼の出で立ちは、アメリーのよく知るものではなかった。
彼女が廃図書館で目にするロベールはいつも、黒に近いグレーや濃紺など、暗めの色の衣服を身に付けていた。
その彼が今日は白を、それも式典など公の場に出るような礼装をしている。
――今日は何か催しがあるのかしら。もしかして、例のご令嬢との婚約が決まったお披露目、とか? それにしても、その姿をわざわざ見せにくるなんてどうして――。
ちくりと、忘れかけていた痛みが胸に戻る。
思わず俯いて、彼女は手入れの行き届いた応接間の床へと視線を落とした。
「……なんて顔してるの」
アメリーがそうして邪推を働かせる間に、ロベールは部屋の中央、彼女が立ち尽くす辺りまで歩を進めていた。
頭上に降ってきた言葉に、彼女は恐る恐る顔を上げる。
目が合うと、ロベールはふっと微笑を浮かべた。
とても穏やかな――けれども、一度は凪いだ赤い海を細波が撫でるが如く、その緋の瞳に静かに広がってゆくのは妖艶な――
……あ、これは知っている。茫然とアメリーは思った。
あの場所で何度も見た、消えることのない火。呑まれまいと抗うこちらの気持ちなど簡単に飛び越えて。
彼女の両眼にしっかりと赤色が映ったのを認めてから、ロベールは先に続く言葉を降らせた。
「せっかく君に結婚を申し込みにきたっていうのに」
「…………は?」
彼女の眉間に寄った皺を解くように、ロベールは指先でそっとその額を撫でた。されるがまま、アメリーはぽかんと彼を見つめている。
そんな彼女の様子にはお構いなしに、ロベールは流れるように説明を始めた。
「ナミュール家のご令嬢は別の男性との結婚が決まったよ。ベルナール、僕の側近なんだけど、さっき会ったでしょ?
彼女は実は、元々ベルナールに気があったんだ。もちろんそんな気配は微塵も見せてない、一見ね。高い教育を受けたご令嬢、政略結婚の重要さを彼女は理解している。だけど僕、そういう勘は鋭いから。
ベルナールに打診したら満更でもなさそうで、ちょうどいいと思ってうまく纏めたよ。両家の立場だとか諸々も調整済み。
権力に物を言わせた、といえばそうかもしれない。今回の件、政治的な立ち位置調整には少し陛下の力も借りたし。
でもこれは皆にとって良い話だ。それに父上は、僕が常日頃裏で兄上を補佐しているのを知ってるから。多少の我儘は許される。
という訳で、心置きなく僕は君に求婚できるということ」
――どうやらこの人は、結婚の申込みをしに来たらしい。それも、私に向けて。
物柔らかな微笑と共に淡々と説く彼の顔を見ながら、アメリーはようやく少しずつ状況を理解し始めた。
とはいえそれは、文章を読んで表面上の意味を一応は解したようなもの。実感は一切伴っていない。
それに、いくらご令嬢との縁談がなくなったからといって――。