二十三本目 (2)
小部屋での世間話はいつも通り、時間は何事もなく過ぎた。
人差し指と中指の間に挟まれた煙草、軽く抱え込むように折られた指先。その肌の表面まで届きそうになる火を、彼は暫し眺めた。
ぎりぎりのところで、縮んだ煙草の先端を灰皿に押し当てる。
「……時間だね」
窓を閉めるために後ろを向いた彼の表情は、アメリーには見えなかった。
「では、私はこれで失礼いたします」
座っていた椅子から立ち上がり、アメリーは小部屋を出ようとした。普段であれば、ロベールはなんだかんだその後ろをついていって、図書館の出口まで彼女を見送る。
けれども、その日は少し違った。
「忘れ物だよ、アメリー」
「え?」
呼び止められた声に振り向くと、彼女の目の前には赤い花束があった。
「これは……、ナミュール家のご令嬢のものでは」
「君にだよ」
彼女の言葉が最後まで出きる前に、ロベールははっきりとした口調で告げた。
「どうして……」
花束から視線を移したアメリーが見た彼の瞳は、とても穏やかなものだった。
風のない、海。もしくは、空。もしも世界に赤い海や空があるとしたら、そしてそこに一筋の風も一縷の波も立たないというのなら、きっとこんなふうかもしれない。
驚くほど冷静に、彼女の頭の片隅ではそんな思考がなされた。
凪いだ赤の中、瞳の持ち主は言った。
「ここで会うのは今日で最後だから」
――ああ、成る程。最後だから。餞別のお花ということ。
次の面会でご令嬢との婚約が正式に決まる、彼は先週それを分かっていて、それで――。
何と返せばいいか分からない。そんな手持ち無沙汰な思いを、アメリーはひとまず目の前の花束を受け取ることで埋めた。
再度花に目をやる。薄暗い、埃っぽい廃図書館にあっても、小さな赤い太陽はやはり輝いていた。
「ありがとう、僕の我儘に付き合ってくれて。……楽しかった」
ぽつぽつと、頭上に言葉が降ってくる。それらを持て余しながら、アメリーはどうしてか顔が上げられなかった。
しばらく動かなくなった彼女を見るロベールの目元が、焦れるように一瞬歪んだ。
「ねえ、アメリー。そんな花だけじゃ不満というのなら」
一歩、彼が踏み込んだのは、家族など親しい間柄でなければ通常入れない距離。
「口づけの一つでも持っていく? ……思い出に」
気づいたときにはもう、アメリーの腰元には彼の片腕が回り、がっちりと捉えられていた。もう片方の手からすらりと長い指が伸び、彼女の顎先をつ、となぞる。
声にならない短い悲鳴が、アメリーの喉の奥に消えた。
これまで彼女が目にしてきたのとは比にならないほど、妖しい、じっとりと水分を含んだ眼差し。口端に笑みを浮かべながらも、その視線はほとんど睨め付けるようで。
されど、例えばもう半歩ずつ、互いが前に踏み出せば触れてしまいそうな距離にあって。彼はそこを無理に詰めてこようとはしない。
一方で、腰に添えられた腕には見かけ以上にずっと力が込もり、そう易々とは抜け出せない。
――怖い。アメリーは思った。
この第二図書館で初めて彼の顔を間近で見たときも思った。怖いくらい美しい人だと。
でも、それはどこか遠くで、自分とは異なる世界の存在を垣間見たような。囁かれた言葉に頬を染めるだとか、見惚れることさえ思いつきもしないような、そんな存在。
その人が、今。息遣いまで聴こえそうな場所で、アメリーを見ている。
その手には体温がある。澄んだ瞳の奥にはきっと涙が、薄く結ばれた唇には血が、宿っている。生きている。
アメリーは今、初めて彼の顔を真正面から見た気がした。
――駄目。駄目、呑み込まれてしまっては。……後でどちらが辛いかは、分かりきったことなんだから。
言うのよ、いつものように。
「……冗談は、やめてください」
静まり返った空間に、掠れたその声が、少しだけ空気を震わせた。
彼はふっと笑った。
強い視線はそのままに、ぎらぎらとした光は僅かに形を変えた。痛みを伴う、もしかしたら哭いているのではないかと見紛うほどの、切ない光。
「冗談じゃ、ないんだけどな」
「だったら」
遮るように言った。身をよじって顔を背ける。これ以上彼の瞳は見ていられない。
「冗談じゃないなら尚更……、だったら尚更、そんなこと言わないで!」
立場も、体裁も、これまでの振る舞いも――もしかしたらそれが、時に彼を傷つけていたかもしれないなどと、酌量する余地もなく。
全てをかなぐり捨て、自分勝手に、投げつけるかのように放たれた言葉。
瞬間、彼の腕の力が少しだけ緩んだ。
その隙、アメリーは咄嗟に抜け出すと、振り切るように、一切見返ることなく部屋を飛び出した。
コツコツと急くような彼女の足音、不安定な律動が図書館に響く。
ガチャンと重たい扉が閉まる音によって、別れの曲は最後を締め括った。