休日 (2)
だから、万が一。もし、もしも億が一……
このところ少し、見えるような気がしていた彼の心の一部分。それらは余すことなく、始まりと同じ完璧な笑顔の裏へと引き上げられてしまった。
寂しいなどと――。こんな微かで頼りない、胸の奥の蟠りみたいなものが、それであるはずがない。万が一、億が一そうであるとしたって、なくて構わないものなのだから。
……こうした彼女の憂鬱は、とある休日のこと。
ふと、先の水曜の、第二図書館での出来事を思い出したアメリー。気晴らしに読書でもしようと適当に開いたその本がよくなかった。
前日職場を出るときに、中身も表紙さえ見ずになんとなく借りてきた一冊。それは、恋愛経験のないまま大人になった主人公が、徐々に想いを自覚しながら進んでいく壮大な恋物語だった。
主人公の幼少期から綴られるその境遇は、どことなくアメリーのものと似ていて。自身の記憶や考えを、彼女は自然と呼び起こさずにはいられなかった。
主人公が少しずつ、とある男性への想いに気づき始める――そんな場面まで来て、アメリーはついに本を閉じた。いたたまれなかった、何かが。
知らないなら知らないでそのまま生きていけたであろうものを、未だ形をとらないその感情には名前があるのだよと、ちくちく横から誰かが突いてくるような感覚。全くもって余計なお世話。放っておいてくれたらいいのに。
アメリーは手にしていた本を、表紙を下向きにして、そっと机の上に置いた。
まだ十分日が高い時刻だが、彼女はおもむろにベッドに上がる。そして枕に顔を埋めた。平日とは違って無造作に束ねた暗めの赤茶色の髪が、首元をするりと撫でていく。
王城を出てすぐの、単身者向け居住施設。王城内で勤務する未婚の者は大抵ここに住んでいる。
アメリーはここが気に入っていた。
一人暮らしにちょうどよい小じんまりとした部屋。ベッドや簡素な机、飾り棚など、最低限の家具は作り付け。少しの着替えなどを持って、彼女はここにほぼ身一つでやってきた。その気軽さが、なんだか自分だけの秘密基地みたいで。
職場である図書館では本が借り放題、借りてきた本を部屋で一人ゆっくり読むのが、休日のアメリーの至福の時間。
仕事での失敗とかちょっとした落ち込みも、時々は実家が懐かしくなってしまうのも、現実世界でのあれこれは本を開けばさっぱり忘れてしまえた。それなのに。
忘れるために手にした本によって、反対に現実へ引き戻されてしまうなんて。
いえ、むしろ、開かなければ見なかったことにできた、そこをこじ開けられたような気も……。
一つ、アメリー自身にも不思議だったのは、あの第二図書館での時間がもうすぐ終わりを迎えるという事実、それよりも。
一度は見えていたものが見えなくなった、どうやら自分はそこに応えているらしい、ということ。透明な扉を、急にがしゃんと閉められたような心地がした。
――全て、なかったのではないか。
あの、彼の笑顔。見た瞬間に思った。
気乗りしないままに、でもどうしても振り切れずに図書館へと向かった、そこで見た、光と影。
緋く揺らめく炎、一回一回点いたり消えたりしながらも、静かに燃え続けていた赤。
届かぬはずの煙草の匂い、香ったそれが全く不快ではなく、また、手の中にある時間は存外あっという間だったことも。
内側にある表情だって――。
それら全部、全部が、本当は最初から存在なんてしなかったのでは。
そう思った瞬間何かが、彼女の喉元、肺より少し上の空気を止めた。
息が苦しくなってきたので、アメリーは枕から顔を上げた。
窓の外、少し向こうに、きれいに並んだ街路樹が見える。すっかり黄色く色づいて。照る時間が短くなった日の光を全身で受け止め、素直に、健気に一層輝く姿。
眩しい、彼女の脳裏にはそんな一言がよぎった。