序 謝罪式から帰国して
◇◇◇◇
「あああああああああ…………」
口から意味のない声を漏らしながら、俺は階段を降りる。
場所は王宮内の俺の……というか俺とシトエンの屋敷。二階の私室を出て、玄関へ向かっていた。
「なんでこう……次から次へと」
絶え間ない愚痴が口からあふれ出てくる。
次兄が婿入り先から里帰りしてくるのだ。
長兄である王太子から、国境まで迎えに行き、警護をするように頼まれたのだけど……。
戻ってきたところなんだよ、タニア王国で行われた謝罪式から!
ぜんっぜんゆっくりできない! 新婚なのに次から次へと泊まりの公務だ!
時期を選んでくれ、次兄! 空気を読め!
「大丈夫ですか、サリュ王子。どこか具合が悪いのですか?」
並んでいたシトエンが心配げに顔を覗き込んでくる。
気高い紫水晶のような瞳と目が合った。銀糸のような髪は結わずにおろしていて、白く陶磁器よりなめらかな肌を縁取っている。俺の肩にも満たない小柄な彼女は、今日は夏らしくノースリーブのワンピースを着ていた。
隣からするりと移動し、俺の前に回り込むシトエン。
なんだなんだと戸惑っている間に、俺の両手を握り、パンプスを履いた足で思いっきり背伸びをした。
「あの、少ししゃがんでもらえますか?」
言われるままに腰をかがめる。
こつり、と。
シトエンが自分の額と俺の額を合わせた。
「うーん。お熱はないようですが……」
整った眉を寄せて呟くシトエン。
その声が。
呼気が。
香りが。
俺の鼻先をかすめて頬を撫でて……っ。
というかっ!!
すんごい間近なんですけど……っ!!!!
こんな鼻と鼻がくっつきそうな距離で国宝級のシトエンの顔を見ちゃってるよ、俺!!!
尊い!!
シトエンの目とか眉とか鼻とか唇とかまとっている雰囲気とかっ!!!!
後光がさしている!!!!
こんな間近で見て、目がくらみそうだ!!!!
「ど、どうしました? 気持ち悪いのですか?」
両目を閉じて、ううううううう、と呻いていたらシトエンの慌てた声がする。
「いや別に体調が悪いとかじゃなくて……」
「そうですよ、シトエンさま。サリュ王子が風邪とか引くわけないじゃない。ねぇお姉ちゃん?」
冷ややかな声に俺は即座に腰を伸ばして振り返る。
そこにいるのはロゼだ。
今日もいつもどおり髪の毛をツインテにして、タニアの民族衣装をこの国風にアレンジしたお仕着せを身に着けている。小ぶりな顔や髪型のせいか随分と幼く見えるんだけど……。
腕を組み、顎を上げて斜交いに俺を見上げるこの表情の小憎らしいこと。
「ロゼの言う通りですよ、シトエン妃。馬鹿は風邪ひかないって言うじゃないですか。あ。それは人間の話であって熊は違うのかしら」
そのロゼの隣にいるのは姉のモネ。
女にしてはかなりの高身長で、ロゼと同じくタニアの民族衣装をアレンジしたお仕着せを着ている。その服越しにもわかるほどボン・キュッ・ボンっな美人なんだけど。
ふふふふと笑い、俺に向けてくるこの視線は氷柱並みの鋭さ。
タニア王国で捕まえたこの暗殺者姉妹は、相変わらず俺に敵意むき出しだ。時々猛獣とその仔を拾ったんかなと思うときがある。
「ロゼさん、モネさん。お言葉」
そのふたりの背後で咳ばらいをして注意をしたのはシトエンの侍女であるイートンだ。
黒のお仕着せをきっちりと着こなし、先輩らしくモネとロゼを一瞥する。
「はぁい」
「失言でした」
不服そうに頬を膨らませたロゼだが、反論する気はないらしい。モネの方は背を伸ばして目を伏せた。
おお。あの腰ばっかり抜かしていたイートンが。先輩らしくふたりを躾ける日がくるとは……。なんか感慨深いな。
「サリュ王子がいつも公務のために体調管理を万全になさっているのは知っていますが……」
シトエンの声に反射的に顔を向ける。
紫色の瞳に心配の色をにじませて、俺を見上げていた。
「無理はなさらないでくださいね。大丈夫ですか?」
「ぜんっぜん、無理はしていません!」
これ以上シトエンの心を揺るがすようなことはあってはならん。男としても、夫としてもそんなことは望まない。
きっぱりと返事をすると、シトエンはようやくほっとしたように顔をほころばせた。
「本当ですか? よかった」
うがああああああああああ!!!!!
だからさあ! この笑顔だよ!!!
こんなのを見せられてさあ!!!
出張なんて行けるかよ―――!!!!
「予定では一週間屋敷を空けることになるけど、シトエン大丈夫か?」
それでも気持ちを立て直し、尋ねる。シトエンはきゅっと口端を上げてほほ笑んだ。
「もちろんです。サリュ王子が不在でもしっかりこの屋敷を守ります。その……」
少しだけ口ごもり、自分を励ますようにぎゅっと拳を握り締める。
「さ……寂しいですが公務ですから。それに」
シトエンは頬を桃色にして目を細めた。
「馬に乗って騎士団を指揮して……。公務をなさるサリュ王子ってすごくカッコいいので。いつも素敵だと思っています。頑張ってくださいね」
すまん、次兄‼
時期を選べとか空気読めとか思って、誠に申し訳なかった!!!!!
頑張る――――――――――――――!!!!!
俺、がぜん公務を頑張る!
そしてシトエンにカッコいいと思ってもらえるように努力することをここに誓います!
「あー、やだやだ。何あの顔」
「考えていることがすべて顔に出るのね。嫌だわ」
「ってかシトエンさま。センスもあるし賢いのに、なんでこんな熊……」
「なにか弱みを握られているのならご相談ください。奴めを冥府に叩きこんでやりますから」
うるさいぞ、猛獣姉妹め!
「さ。ロゼさん、モネさん。お嬢様がお見送りをされている間に準備を」
「はぁい」
「わかりました」
イートンがロゼとモネに声をかけ、俺に頭を下げる。……腹立つことにあの姉妹はあいさつなしにさっさと歩き去っているんだがな。
俺が出張の間、シトエンはシトエンで母上を手伝っていろいろ来客接待があるようだ。その準備をするらしい。
「シトエンこそ俺がいない間に頑張りすぎるなよ?」
ようやく周囲に人がいなくなり、俺はシトエンの母国語であるタニア語で話しかける。
ルミナス王国で二年を過ごし、その後婚約破棄にあって俺がいるティドロス王家に嫁いできたシトエン。
日常生活では常に外国語を話しているわけだから、ふたりでいるときだけでもタニア語で話そうと婚約中に取り決めていた。
「大丈夫です。しっかりやります」
「身辺警護についてはロゼモネに任せているけど……。ひとりで出歩いたりしちゃダメだからな?」
「もちろんです。それに、なにかあればわたしだって!」
周囲に人がいなくなったからか、シトエンもくだけた感じでにっこり笑い、冗談めかして力こぶを作って見せる。
その姿の可愛いこと……っ!!! こんな仕草を敵が見たらきっと改心してシトエンに忠誠を誓うに違いない!!
「途中で時間があればシトエンの好きそうなものを買ってくるな」
「そんな……っ。いつもいろいろいただいているのに」
シトエンはびっくりして首をふるふると横に振る。
正直、女性への贈り物のセンスはまったくない。堂々と言い切るのもどうかと思うが、皆無だ。
最初の頃はラウルに相談したりしていたが、最近は自分で選ぶようにしている。
押し付けにならないように。シトエンが喜んでくれるように。
それを一番に考えながら選んだつもりだけど、スマートかどうかはわからない。
だけどいつもシトエンは「ありがとうございます」と嬉しそうに受け取ってくれる。
そしてふたりでそのプレゼントについて会話をする。どこで買ったのか尋ねられたり、選んだ理由を話したりとか。その時間がなにより俺は楽しい。
「あ」
ふとシトエンが小さく声を上げた。
「じゃあ、公務が終わられたあと、わたしもなにか用意しておきますね。サリュ王子。なにがいいですか?」
公務のご褒美!
これは公務のご褒美と考えてもいいのか⁉
千載一遇のチャンスだ……っ!
なんだ⁉ なにを願うのがマストだ!
「あ!」
今度は俺が大きな声を上げる。
「あのさ。タニア王国に行ってからなんかうちの騎士団、温泉が流行ってて」
「温泉、ですか?」
きょとんとした顔でシトエンが尋ねた。
この前、シトエンを連れてタニア王国に行き、謝罪式に参加した。
というのも、シトエンを一方的に婚約破棄したせいで、タニア王がルミナス王家に対して激怒。無期限の石炭を含む鉱物資源の輸出を停止させた。
この措置が備蓄の少ないルミナス王家を震え上がらせたのだ。
そこでタニア王の前でルミナス王国の王太子アリオスがシトエンに謝罪をするという場が用意される。
シトエンのとりなしもあり、無事タニア王の赦しが得られ、俺とシトエンもティドロス王国に戻ってきたのだけど。
タニア王国に滞在中、シトエンの父君で俺からすると舅殿が温泉地に招待してくれたことがあった。
シトエン暗殺未遂とかもあり、結局俺やシトエン、大半の団員は温泉を楽しむどころではなかったのだが、時間帯によっては温泉につかることができた団員もいて、「いいなあ!」とみんなからうらやましがられていた。
タニア王国ほどではないが、ティドロスの一部地域でも温泉は湧く。
そこで俺がカネを出すから、慰労を兼ねて国内の温泉地に交代で行くか?とラウルに提案してみたのだ。
満場一致でこの案は受け入れられたらしく、ラウルは現在班長達と一緒にスケジュールを組んでいると聞く。
……ま。それも今回の”次兄里帰り”で少し伸びそうだが……。
俺はそのあたりをかいつまんで説明をし、シトエンに尋ねる。
「もしよかったらさ。団員たちの慰労会が終わったら、一緒にもう一回温泉に行かないか? ほら、前回は全然のんびりできなかったし」
「そうですね、ぜひ! とても楽しそうです!」
シトエンが目を輝かせるから、俺もぶんぶんと首を縦に振った。
「じゃあ、日程を調整しておくから。今度は一緒に温泉に入ろう」
するーっと口からそんな提案が出た。
……本音を言おう。
妄想はした。
シトエンと一緒に温泉に入り、夜空を見上げたりキャッキャとはしゃいだり……。
湯船の中で……その、とてもシトエンに対して言えないような、とんでもないことを考えたりもした!
だから。
きっとそんなことをしれーっとナチュラルに言ってしまったわけなんだけども!
「……一緒に?」
確認するようにシトエンが繰り返したあと、ぼんっと顔を真っ赤にする。
「あ……っ! いやあの! 嫌なら全然……っ。別々でも!!!」
しまった! ああもう最悪、俺! ここで拒否られたら……っ。
てか、ロゼ並みに『なにいってんの。やらしー』とか言われて嫌われたらどうしよう!!!
脳内ではラウルまで『そもそも好かれていることがおかしいんですよ』とか言いやがる!
赤くなったり青くなったり冷や汗かいたりしていたら。
「あ……あの。その。み……水着、着てもいいなら……」
「問題ないです!!!!!」
消え入りそうなシトエンの声に、俺は食い気味に答えた。
途端に、ふふ、とシトエンがまだ顔を赤くしたまま笑う。
「じゃあ……準備しておきますね」
よっしゃああああああああ!!!!
俺は心の中でガッツポーズをしたあと、勢いあまってシトエンを横抱きにする。
「ひゃあ! サリュ王子!」
「だったら急いで公務を終わらせて帰ってくる!」
そして1階の玄関ホールに向かって爆走した。




