8話 いつか姉さまを守ってあげたい
「な……、なあ、シトエン」
「はい?」
今晩さ、と言いかけた時、がちゃりと治療室の扉が開いた。
「シトエンさま?」
「ひゃあ!」
「がふう……っ!」
いきなり呼びかけられて驚いたシトエンが飛び上がったもんだから……。がつん、って。
がつんって……。俺の顎……。顎にシトエンの頭直撃……。
なにこれ……。不埒なことを考えた俺への天罰か……。
反射的に顎を押さえたら、シトエンがパパパッと俺から離れる。
「お、おおおおお水をくみに行ってきますね! サリュ王子がご飯を運んできてくださったようなので、ロゼちゃんは先に食べててください!」
言うや否や、脱兎のごとくシトエンは走り去ってしまった。
「……こんばんはー、サリュ王子さま」
シトエンさま? のときと明らかにテンションが違う声で、どちらかというと「サリュおーじさま」という平坦な発音でロゼに挨拶された。
顎を撫でながら視線を移動させると、開けたドアに背中を凭れさせたぞんざいな態度で俺を見ている。
服は代えたらしいが、やはりタニアの衣装だ。髪の毛はふたつに分けて耳の後ろで束ねている。年は18と聞いたが、童顔のせいで随分と子どもっぽく見えた。
「王子さまだなんて全然わからなかったから、いろいろとごめんなさい」
不承不承仕方なく言っていますという感じで謝られる。
「俺もあんまり王子らしくないから別にいい」
「だよね」
あは、と笑うからつられて笑ってしまった。
「おう。差し入れ。喰うだろう?」
バスケットを差し出すと、近づいてきた。
上にかけていた布巾をぺろん、とめくって中を確かめ「果物がある」と屈託なく笑って腕にくっついてきた。姉の方は随分と色っぽいが、こっちは子猫みたいな感じだ。気ままなくせに、ときどき人懐っこい。
「それより、パンやサラダを喰え。ソーセージもあるぞ。好き嫌いしているとあれだ。貧血になって大変だ。俺がよく知る男はそれで悩んでいたらしいからな」
「ふうん」
ロゼを腕にしがみつかせたまま、室内に入る。
中は、俺が予想していたよりは広かった。
簡素なものだが、ベッドが2つ。
奥にモネが眠り、手前のベッドには誰もいない。ただ、さっきまでロゼがゴロゴロしていたのか、シーツはぐっちゃぐちゃで脱ぎ捨てたと思しき衣服が足元にあった。
これまた質素な椅子が3つ。
こちらにはシトエンの革製の鞄がきちんと置いてあり、その傍には丸テーブルがあって、水の入った金盥とタオルが準備してあった。
テーブルらしきものが他にないかな、と室内を見回す。
あったあった。
文机らしいものが窓際にある。
あれを持ってきてロゼに食事させよう。
「おい、これ持ってろ」
腕にぶら下がるロゼにバスケットを渡して突き放す。うっとうしくてかなわん。おまけにこどものくせにそれなりに胸があるんだからびっくりだ。また「さわった」だのなんだの言われても迷惑だ。
ロゼからはできるだけ距離を取ろうと思いながら、文机に近づいて持ち上げた。そんなにいい木材を使っているわけじゃないのだろう。存外軽かった。
それを空いている場所に置き、ロゼを見る。
「ほれ、椅子持って来てここで喰え」
手招くと、なんだかじっとりとした顔で俺を見る。
「なに」
「……いいなぁと思っただけ」
ぶっきらぼうにそんなことを言い、ててて、と近づいてきてバスケットを文机の上に置いた。
「この机さ、この部屋に案内されたとき、ちょっと使い勝手の悪いところにあったから……。あたしとシトエンさまで移動させようとしたんだけど重くって」
「なんだよ、だったら誰か呼べばよかったのに。団員のやつとか、俺とか」
「そうじゃなくって……」
ロゼは口ごもってから、じっと俺を見た。
俺というか……俺の腕?
「あたしも男に生まれたかったなぁ」
なんだそりゃ。
「そしたら、そんなに大きな身体で、ふっとい腕でさ。きっと姉さまのことも守れるのに」
束ねた毛先を人差し指に巻き付けては解きながらぼそりとそんなことを言った。
姉さま。モネのことか。
ベッドで眠る彼女を見る。
熱のせいか顔が赤い。ぴくりとも動かないのでなんだか怖いが、定期的に胸は上下しているし、乾燥した唇がわずかに開いて呼吸音のようなものも聞こえる。
「ふたりで仕事に行ったのか?」
椅子を引き寄せ、ロゼに座るように促す。俺もひとつ持って来てついでに座った。
「仕事はいっつもふたり。姉さまはひとりでしたがるけど……心配でしょう?」
上目遣いに言われ、まあそうかな、と頷く。
今回のように賊に襲われることもあるのだ。安全とは言えまい。
「小さなころからいっつも姉さまにかばってもらっているから……。いつか姉さまを守ってあげたいけど」
ちらり、とやっぱり俺の腕を見る。
「いいなあ、その腕」
「なんか怖いな、そのいい方。千切られそうだ」
そう言うとロゼは無邪気に笑った。
「両親は?」
あれだけの幌馬車を準備できるのだ。かなりの大店だと思ったが、違うのだろうか。椅子の背もたれに上半身を預けて尋ねると、ロゼはバスケットの中からりんごを取り出した。
「母さまは、あたしが小さなころに亡くなったって。父さまは元気みたい。ときどきしか会えない」
「そりゃ寂しいな」
「ううん。姉さまがいるもの。それに父さまは嫌い」
りんごを両手で持ち、そのつややかさを楽しむようにロゼは笑った。
「姉さまは父さまに感謝しているみたいだけど……。あたしは、姉さまがいればいい。だから姉さまのこと、もっと助けてあげたいんだけど……」
その瞳が少しだけ陰るから、俺は「うーん」と唸る。
「俺には兄がふたりいるが……。きょうだいなんて、持ちつ持たれつだ。そりゃ長兄の負担が一番でかいのはわかっているから、俺も次兄もなんとか手助けしてやろうと思うし、それを知っているから長兄も無理はしないしな。だから、ロゼがモネのためになにかしてやりたいという気持ちがあるのをわかっていたら、きっと自分から『これしてくれ』っていうんじゃないかな。なにも、肩ひじはる必要はない」
そう言ってやると、ロゼは少しだけ意外そうな顔をした。
「なんだよ」
「あんまりそういうこと考えないタイプだと思っていた」
「誰が脳みそまで筋肉だ」
「そんなこと言ってないじゃん」
りんごを持ったまま、ロゼは脚をバタバタさせて笑う。よかった、なんか気持ちが明るい方に向かったようで。
「ねぇねぇ、それよりシトエンさまって、あのシトエンさまよね?」
急にそんなことを言い出す。
「どのシトエン?」
多少警戒しながら尋ね返す。
なにしろ、ルミナス王国にいたころは、アホ王太子とメイルのせいでシトエンにまつわる変な嘘が流れていたからな。
「ルミナス王国に嫁いだものの大変なご苦労に遭われたうえに婚約破棄され、その後ティドロス王国に嫁ぎなおしたら、さまざまな病をたちどころに治してしまわれた……」
「そのシトエン」
語尾を食い気味に言ってしまった。
「やっぱりそうなんだ!」
きゃあ、とりんごを握りしめてロゼが頬を紅潮させる。
「姉さまと『すごい姫さまねぇ』って話をしてたの! わー! 出会えるなんてすごい奇跡!」
相変わらず足をパタパタさせたあと、いきなりぐいと俺の方に身を乗り出してきた。
「やっぱり王子さまはシトエンさまみたいな方が好きなの?」
「……まあ……」
口ごもったものの、心の中では『ドストライクです!』と断言していた。
「ねぇねぇ。じゃあさ、あたしみたいなのはどう?」
「は?」
驚いて背をのけぞらせるが、ロゼは逆に目をきらきらさせてさらに身を乗り出してくる。
そんな姿勢をすると大きく開いた襟ぐりのところから胸の谷間が見えそうなんだよな。
「若いしぃ、かわいいしぃ、ほら、胸もそれなりに……」
「若いってお前……。子どもなだけだろう。だったら新生児がこの世で一番若いわ。それより乳をしまえ、乳を」
「乳って! さいてー!」
「自分で晒しておいてなに言うか」
「盗賊に襲われた直後は、背中を見ようとしたくせに!」
「あれはシトエンが見やすいようにしてやろうとしたんだって!」
「嘘だあ! エロ熊の顔だった!」
「見たことあるのか、エロ熊を!」
「まあ、廊下まで騒ぎが聞こえていますが……。けが人がいるんですよ?」
コツコツコツ、と三回ノックをしたあと、「めっ」と言いたげな顔でシトエンが入ってきた。
「あたしのせいじゃないです、シトエンさま」
「俺のせいじゃない、シトエン」
同時に言い放ったもんだから、水差しを抱えたシトエンは目を丸くしてから、小さく吹き出した。




