序 ルミナス王国にて
宰相は直立不動で、敬愛すべきノイエ王を見ていた。
ノイエ王は今、返書に目を走らせている。
待ちに待った、タニア王国からのものだ。
ルミナス王国国王であり、カラバン連合王国代表のノイエ王は、絹で裏張りされた巻物に無言で視線を走らせている。
(随分とおやつれになられた……)
重厚な樫製の執務机を挟み、黙って控えている宰相は目を伏せる。
無理からぬことだ。
王太子アリオスがシトエン・バリモアとの婚約を一方的に破棄してからこちら、常にその尻拭いに追われている。
カラバン連合王国は5つの王国からなる。それぞれの王国が結束を固めるため、連合王国内で王族同士が婚姻を結ぶのはよくあることだ。
このたび、ルミナス王国の王太子アリオスと婚約を交わそうとしていたのは、タニア王国王族のひとりであるシトエン嬢だった。
その婚約式で、あろうことかアリオスは破棄を宣言し、自分の恋人であるメイルを新たに婚約者として迎えようとしたのだ。
当然タニア王国国王は激怒。ルミナス王国への石炭を含む鉱産物の輸出を停止させた。
ルミナス王国としてはなんとかことを穏便に収めようとしたのだが、タニア王の怒りは一向に収まらない。
冷ややかに見つめる他の連合王国からの評判も散々だった。「あの古豪の国に対してなんと無礼な」「連合の枠組みをなんと考えているのか」。
そんな言葉は憚らずにルミナス王家に向けられた。
シトエンを取り戻そうにも、彼女は婚約破棄のその場でティドロス王国王妃が即座に名乗り出て、「我が子である第三王子の正妻に」と迎え入れてしまった。
そんなルミナス王国をあざ笑うように、その後に聞こえてくるシトエンの評判は華々しいものばかりだ。
夫であるサリュ王子の親友、ヴァンデル・シーン卿の長年の不調を快癒せしめ、彼の領地にて発生した病をたちどころに治したとのこと。
サリュからは溺愛されており、彼が持つ騎士団団員たちは女神のように崇めていると聞く。
近隣国から「つきあいが難しい」と言われる王妃からの覚えもめでたく、王太子妃からは実の姉妹のように扱われているとか。
舅であるティドロス国王は「このような素晴らしい姫との婚姻が結べたこと、本当に感謝いたします」と改めてタニア王国に礼を述べ、タニア王国にも利となる貿易を持ちかけたらしい。
(本来であれば、その栄誉も国益も我が国が手にすべきであったのに……)
宰相は奥歯を噛み締め、斜め前に控えているアリオスの背中に鋭い視線を向ける。
母譲りの端整な顔と、父に似た引き締まった体躯。頭脳明晰で、誰からも愛された我が国の王太子。
こいつが、婚約破棄などしなければ。
(だが、起こってしまったことを悔やんでも仕方がない。手は打ったのだ)
このままではシトエンを介し、タニア王国とティドロス王国の関係が強固となる。
そのため、宰相はルミナス王国の暗殺集団である〝清掃人〟たちにシトエン暗殺を命じた。
だが、シトエンの夫であるサリュにすべて妨害される。さすが〝ティドロスの冬熊〟と名高い男だ。冬の辺境を守る騎士団員たちだ。隙がない。
「父上。タニア王はなんと……」
焦れたのか、それともノイエが読み終わったと判断したのか。アリオスがそっと声をかける。
「正式にシトエン妃に謝罪をするのであれば、輸出を再開する、と」
ノイエは巻物を机の上に置き、目頭を指で揉んだ。ほう、と重い息を吐く。
「いままで、返事もいただけなかったのです。これは僥倖」
アリオスが強張らせていた表情を緩める。その元凶を作ったお前が言うな、と宰相はその頬を張り飛ばしたい衝動に駆られた。
「タニア王の気が変わらぬうちに謝罪の場を……」
「タニア王の気が変わらぬうちに、ではございません。我が国に冬が訪れる前に、でございます」
アリオスの語尾を食いちぎり、宰相は声を発した。だが、表情にも態度にも烈火のような怒りはにじませない。
「そうだ、その通りだ」
ノイエが深く頷く。
石炭が問題だった。
鉱物資源だけならばなんとか持ちこたえられるが、そこに石炭が含まれていたことにノイエも宰相も震えあがった。
このままでは冬が越せない。
もちろん、備蓄分はある。なんなら王家の石炭を民のために放出させてもいい。だが、それでも間に合わない。
連合という枠組みを使ってタニア王国以外の国から融通してもらってもいいが、他の三王国は傍観を決め込んでいる。タニア王の怒りが飛び火することが恐ろしいのだろう。
このまま進展がなければ、越冬するために民が必要以上に薪を焚き、木を倒し、草原を焼くかもしれない。そしてそれが今後、どんな事態を引き起こすか想像もできない。
なんとしてもタニア王の怒りを解き、冬までに貿易を再開させねばならない。
「もとはといえば、わたしが引き起こしたこと。シトエンに謝りにまいります」
アリオスが切迫した声を発する。
「……そうだな、それがよかろう」
ノイエは重々しい息を再び吐いた。
「タニアもティドロスも義を尊ぶ。心から謝罪すれば最悪の事態は免れるやもしれん」
ちらり、とノイエが視線を宰相に向けた。
顎を引くようにして宰相は無言で頷く。
立地だ。
ルミナス王国は、タニア王国とティドロス王国に挟まれるようにして存在している。
もちろん、ルミナス王国もタニア王国も「カラバン連合王国」というくくりの中にいる。いかに大国とはいえ、ティドロス王国が正面切って戦いを挑むことはないだろう。そんなことをすれば、他の四か国が黙っていない。
だが、タニア王国がティドロス王国の国力や武力を背景に、ルミナス王国に圧力をかけてくることは今後ありうることだ。
ノイエの言う、最悪の事態、とはそのことだろう。
だからこそルミナス王家では、折を見てティドロス王家と婚姻を結んできた。実際、現ティドロス王妃はノイエの遠縁にあたる。
しかしいまや、そんな家系図をたどるような血縁よりも、シトエン・バリモアという才媛を楔としたタニア王国とティドロス王国の関係の方が強い。
(もし、シトエンとサリュ王子の間に子ができようものなら……)
両国間の関係性はさらに強固なものとなる。
「宰相、至急タニア王への親書を用意する。シトエン妃へ正式に謝罪する場を設けることと、その場に王太子を遣わすことを明記したいと思う」
「かしこまりました」
宰相は頭を下げた。ノイエはその瞳を息子に向けた。
「アリオス、心を込めて謝るのだ」
「肝に銘じます。このたびは、わたしの軽率な行動で国を危うくさせたこと、本当に申し訳なく思っております」
深々と頭を下げるアリオスを見て、宰相は吐息を漏らした。
(あの結婚式がよほど堪えたのだな)
サリュとシトエンの結婚式に、アリオスは出席したのだ。
それはノイエの提案であり、宰相も同意したことだった。
ようやく、自分の息子の頭の中がお花畑状態であり、病的な世間知らずだと分かったのだろう。
自分のしでかしたことがどのようなことなのか、身をもって知れ、とノイエはティドロス王国で開催された結婚式にアリオスとメイルを送り出した。
帰国し、アリオスは変わった。
自分の気持ちに忠実であろうとするよりも、国に対して誠意を示そうとした。社交界には楽しみに行くのではなく、貴族たちの人間関係やパワーバランスを見極めるために行くようになった。
なにより、妃には「最低限の条件」が必要であり、それが達せられないのであれば努力や勤勉さが求められるのだと理解した。
この王太子は、まだ育てられる。
宮廷や王の親族たちは胸をなでおろし、王太子が望むのであれば惜しみなく協力の手を差しのばした。
アリオスは国難を引き起こしはしたが、血族の結束を強めるという結果は生み出したようだ。
(だが、シトエンの存在は厄介だ)
宰相は控えめながら、そっと執務机に一歩踏み出す。
「僭越ながら、タニア王国との交渉事、このわたくしめにお任せいただけますでしょうか」
「もちろんだ、宰相。いまそのことを頼もうと思っていたところだ」
ノイエが立ち上がる。宰相はさらに腰を深く折った。
「では、陛下の御心に添えるよう、精一杯尽力いたします」
不安要素は一掃されねばならない。この、ルミナス王国のために。
そのためには……。
「宰相」
アリオスから声がかかり、宰相は背を伸ばして彼を見た。
「なんでございましょう」
「わたしが引き起こしたことだ。わたしが対処をする」
緊張した表情をアリオスはしている。宰相は、にっこりと微笑んで見せた。
「なんと頼もしい。この宰相、深く深く感じ入って言葉もございません」
再び頭を下げながらも、アリオスの声をあっさりと聞き流し、別事を考える。
ああ、そうだ、と宰相は思った。
清掃人の中にいるあの姉妹がいい。あれを使おう。
ふたりとも組織から抜けたがっていた。抜ける条件として、シトエン殺害を命じれば必死にやるだろう。
女なら、あの忌々しいティドロスの冬熊も篭絡できるやもしれん。それに、シトエンも同性なら心を許すだろう。
(妹を組織から逃がすためなら、あの姉は命をかけてなんでもしそうだ)
そうだ、それがいいと宰相はほくそ笑んだ。




