18話 死神の鎌
同じようにカップを持ち上げたシトエン嬢が動きを止めた。
「病って……。なんの」
おれが尋ね返すと、ヴァンデルが呆れたようにため息をついた。
「理由がわかれば、謎の、なんて言うか」
「患者は?」
カップをソーサーに戻すが、おれの隣ではシトエン嬢が微動だにしない。両手でカップを包み込むようにして持ち、湯気をくゆらせている。
大丈夫かな、と少し心配になった。
あの襲われた一件以来、ちょっと彼女は情緒不安定だ。
とにかくおれから離れたがらない。
当初は、怖くておれに一緒にいてほしいのかと思っていたが。
違う。
逆だ、と気づいた。
なぜだか彼女は、「おれを危険から守るつもり」で、離れない。
不思議なことに、彼女はおれが危ないと思っている。
王都を出立してからこちら、彼女は侍女と共に馬車に乗り、おれは騎士団のやつらと騎乗で移動しているのだが、それも不安げに窓から見るので、仕方なく馬はラウルに預け、ここまでは一緒に馬車移動してきた。
馬車の中でも彼女はおれにぴたりと寄り添い、それでようやく安心した顔になる。
「患者は、いまどこにいるんですか?」
シトエン嬢が静かに尋ねる。
「隔離した建屋の中に」
マーダー卿が答える。
「え? 病院じゃないのか」
驚くおれに対し、シトエン嬢の眉根が寄り、目に険しさが増す。
「ひょっとして感染症ですか?」
彼女の言葉にぎょっとした。
「そうなのか」
ヴァンデルに顔を向けると、きっぱりと首を横に振られた。
「わからん。ただ、似たような症状の患者が多いため、一般人がいる病院には近づけられん。もし、感染症なら……」
ヴァンデルがそこで口を閉じる。
なるほど。
機密事項とはこれか。
領内で発生した、感染症かもしれない病。
「ぜひ、シトエン嬢の意見が聞きたいのです」
ヴァンデルは真剣にシトエン嬢をみつめたが、おれは思わず立ち上がる。
「断る! そんな危険なところに彼女を送れるか!」
貧血や体調不良の相談にのるわけじゃない。
なにかわからないものが蔓延している建物の中に乗り込むのだ。
「シトエン嬢になにかあったらどうする気だ!」
「まだ、感染症と決まったわけじゃない」
ヴァンデルが立ち上がる。
「実際、ぼくも患者に会った。だが、このとおりだ」
「わたくしもです、殿下。患者と共に数日生活を共にしました」
マーダー卿まで立ち上がる。
「わからんのです、殿下。同じような症状を示すものと、まったく健康なものと……。この違いがわからんのです。だが、これは一大事だ」
「そりゃそうだろう! 患者をしばらく閉じ込めて様子を見るしかないだろう!」
「そういう話では終わらん」
ヴァンデルが凄む。
「なぜだかわからんが、亡命者の居住区にだけこの病は発生するんだ。こんなことが公になってみろ。壮絶な差別がはじまるぞ」
おれは息を呑む。
まさか、とは言えない。事実おれだって今、『閉じ込めて』と言ったじゃないか。
「亡命者と領民の関係はいまのところ良好だ。だが、こんなことが漏れて見ろ。いさかいがはじまる」
ヴァンデルが親指の爪を噛む。ああ、こいつの悪癖だ、とどこか懐かしく思った。
「うちは他国との境にある。こんなことで領内で内乱が起こってみろ。すぐに知れて最悪、攻めて来るぞ、ミラ皇国が。しかも大義名分がある」
「感染症が発生し、消毒のため村ごと焼いた」
マーダー卿が淡々と言うが、おれはぞっとする。
「うちがモタモタやっているから、代わりにやってやったのだ、とか言いだすに違いない」
ヴァンデルが吐き捨てるから、おれは口を挟んだ。
「いや……、いくらなんでもそれは……。だって、同国人じゃないか」
うちに来たとは言え、元は同じ国の民だ。それを、焼くか?
「同国人ではありません。我々は、亡命者だ。あの国を捨てたのです。彼らにとっては、裏切り者だ」
マーダー卿の言葉には重みがある。それが現実であり、真実だからかもしれない。
「お前だってわかるだろう。ぼくたちの最大の任務はなんだ」
じろりとヴァンデルに睨まれる。
国境を、守ること。
安全に国を保つこと。
ヴァンデルに言われずともそんなことは分かっている。
「そのために、秘密裏に対処せねばならん」
誰にも知られてはならんのだ、とヴァンデルはおれを睨む。
「お前の婚約を祝うふりをして王都に赴き、高名な医師を呼び寄せようと思ったが……。『なんのために医師派遣を願い出たのか』と、そのことが知れたら、いらぬ詮索を生む。それで悩んでいたのだが……」
ちらりとヴァンデルがシトエン嬢を見た。
「運がいいことに、彼女は医師じゃない」
なるほど、とおれはようやく納得する。
彼女には、医療の知識がある。だが、医師じゃない。
新婚夫婦が、婚約祝いのお礼を兼ねて親友を尋ねに領にやってきた。
表向きはそれで通るだろう。
内密にことをおさめるのに、好都合、というわけか。
「実際に、どのような症状なのですか?」
シトエン嬢の鈴のような声は、だがすぐに、くすりと笑いに変わった。
「まずは皆さま、着席なさっては?」
促され、おれたちは顔を見合わせる。
男三人、阿呆みたいに立ち上がり、顔を突き合わせて唸っていたのだから恥ずかしい。
互いに咳ばらいをし、ソファに座りなおす。
「患者のほとんどは、下痢をしたことがきっかけになり、重症化しました」
マーダー卿が説明し始めた。なるほど、腹を壊すのか。
「その後、胃の痛みを訴え、倦怠感が続きます。そして、だんだん肌が青黒くなり、最後は死にます」
「待て待て待て!」
マーダー卿の声を遮っておれは声を張る。
「淡々と言っているが、めちゃくちゃ怖い! なんだ、それは!」
「だから困っている」
ヴァンデルが牙を剥く。そりゃそうなんだろうが、明らかにもう無理だ。
「こんなもん……。感染者が全員死に絶えるまで待つしかないんじゃないか? どうやって今は対処しているんだ」
おれがマーダー卿を見ると、彼は顔をしかめる。
「さっきも申し上げましたが、空いている建物に患者を運び込んでいるだけです。どうしようもない」
まあ、そうだろうなぁ。
「かん口令を敷いているが、周辺の村から噂が出始めた。また、悪いことに病の発生に、ミラ皇国の行商人が関わっている。それがあちらに漏れ伝わってもかなわん」
なんじゃそりゃ。
まばたきをすると、ヴァンデルが深くため息を吐いた。
「腹を下した患者たちが、行商人から干物の魚を買って喰ったらしい。そこから、腹具合の悪いものが増え始めた」
「じゃあ、その干物の食中毒じゃないのか?」
ヴァンデルは苦虫をかみつぶした顔で、おれに向かって首を横に振る。
「同じように腹を下したのに、症状が出ない者もいる。それに、家族全滅のところもあれば、男だけやられたところもある」
「なんなんだそれは」
まったくわけがわからない。むやみやたらに死神が鎌をふるっているように見える。




