21話 シトエンに誤解されたらどうしよう⁉
「呑んでんのか? ひとりで?」
「ここなら誰も何も言わないし。それに、この時期、ようやく虫にも悩まされないもの」
けだるげにアンナは言いながら、手酌でだぼだぼとグラスに酒を注いだ。
「呑みます? 王子」
「いや、いい」
首を横に振って断ると、はは、と笑われた。
「大事な奥さんのところに早く帰らないといけませんからね」
その言い方。俺は首をかしげる。
「お前、そんなやつだったか?」
ついそんなことを言ってしまった。
ラウルはさっき、『あの女のどこが良かったのか』とか『どうせちょっと優しくされて、ちょっと笑いかけてくれたぐらいでひっかかったんでしょう』とか言っていたが。
よく笑う娘だったんだよ。
女子どもといえば、俺の前では恐怖するか泣き出すかのどちらかだったのに、アンナはころころ笑って、俺とも普通に話してくれる稀有な存在だった。
……こんな、嫌な笑い方をするやつじゃなかったんだよなぁ。
「どういうことです?」
「いや……なんか雰囲気変わったな、と思って」
「サリュ王子ほどじゃありませんよ」
ぷ、と吹き出し、そのあとはおなかを抱えてアンナは大笑いした。持っていたグラスから酒がこぼれ、とっさにグラスを受け取ってやろうとかと思ったが。
野生の勘が警告を鳴らした。俺の中のクマが『それ以上近づくな!』と立ちふさがる。
同時にラウルの声がよみがえった。
『そのギャップに勘違いする女もいるんですから! 気を付けてくださいよ⁉』
……これは、動かない方がいい。
別にグラスが一個割れようが、酒で服が濡れようが。そんなのシトエンじゃないから別にいい。
「あーあ、濡れちゃった」
アンナはひとりごち、こぼれた酒で濡れた手をぼんやりと見つめている。
「サリュ王子は、あの姫君と結婚してそんなふうに変わられたのですか?」
酩酊した声。ぼやりした調子でそんなことを尋ねられた。
「俺自身、変わった自覚はないが」
「だいぶん変わりましたよ!」
アンナは喉をそらして大声で笑う。
「その格好で私に恋文をくださったら、喜んで受け取りましたのに!」
「たぶんだが、シトエンなら以前の俺からでも喜んで受け取ってくれる気がするが」
途端にヒステリックな笑い声がぴたりとやんだ。
とろんとした目が俺に向けられる。
「シトエン妃、シトエン妃、シトエン妃……。もう、国中の男が恋をしてそうですね」
そうしてアンナは意地悪そうに目を細めた。
「ねぇ、サリュ王子。もしシトエン妃があんなに美しくなければ……結婚なさっていましたか?」
「そもそも婚約式まで俺はシトエンの姿を知らなかった」
「え?」
「タニア王国の風習で、花嫁の姿は白いベールで覆われているんだ。だから婚約式でベールを取って、初めて顔を見た」
……もともと、ルミナスの王太子が婚約を反故にしたのは「その容姿が気に入らないから」と聞いていたから、まあ……あんまり期待はしてなかったんだよなぁ。
それがベールを取ったらあんなきれいな娘が出てきて……。いやあ、びっくりした。
「そう」
沈んだ声。
アンナに目を向けると、椅子に深く背を預けたままぼんやりしている。なんだか抜け殻のようにも見えた。
「お前、どうした?」
ついまたそんな言葉が口から出る。
「どうしたか、ですか? そうですね、たぶん結婚相手を間違えた」
あはははは、とアンナは笑う。随分と皮肉気な笑い。
それを見て感じるのは。
シトエンを彼女みたいにしたくない、ということだ。
「サリュ王子と結婚しておけばこんなことにはならなかったのになぁ」
「俺はいまのお前とは結婚しなくてよかったと思うし、お前は昔の俺とは結婚したくなかったんだろう?」
「人生はままならないですね」
「なにがあったか知らんが、いまからでもやり直せるんじゃないか?」
「やり直し……。どうでしょうね。きっと私はもう、夫に見限られてますよ」
「見限られるって……」
そんな風じゃなかったぞ、と続けようとしたが、アンナは酔いの回った瞳を俺に向けた。
「結婚して、きっと私は変わったんですよ。王都にいたから魅力的にみえただけ。だから、夫は私に飽きてしまった」
「そんなことはないだろう」
「だってなにかといえば、シトエン妃、シトエン妃ではないですか。優秀で、美しくて、家柄も素晴らしくて。その上、医療にまでお詳しいとは」
くっと喉の奥で笑いをつぶした。
「もうずっとシトエン妃の話ばかり」
「……誰かひとを呼んでやろう。呑みすぎだ」
そう言ってから、俺は一歩後退する。
「なにがあったか聞いてくださらないんですか? 結婚生活の不満とか」
「それは俺の役目じゃない」
「やっぱり王子は変わりましたね」
くくく、とアンナが笑う。その語尾に重なるのはふたつの足音だ。軽い。聞き覚えのある足音。
「王子!」
「ちょっとなにやってんの!」
案の定、姿を現したのはモネとロゼだ。
「おお、ちょうどよかった。お前ら、アンナ夫人を……」
「ちょうどよかったじゃない!」
うお、なんだよ! ガウッと噛みつかんばかりにロゼがとびかかってきやがる。
「戻りが遅いからシトエン妃が気になさって……。迎えに行くというのを押しとどめたら、『バルコニーから様子を見たい』とおっしゃってね」
背中に勝手におぶさるロゼを振り払おうとしたら、カチリと硬質な音がする。
モネが鯉口を切っている。
「そしたら庭の暗がりの。ガゼボにいるじゃない。女とふたりで」
「勘違いだ、モネ! ちょ……ロゼ、離れろ!」
「こんな浮気男だと思わなかったよ、サリュ王子! 斬って、お姉ちゃん! 大事なところを!」
「手を離すんじゃないわよ、ロゼ」
「どこ斬る気だ、お前ら! 誤解だって!」
焦っていたら、また笑い声が響いてきた。
「王子のおっしゃる通りよ。なあんにも誤解することなんて起こりもしない」
アンナだ。
テーブルに手をついて、ゆっくりと立ち上がる。……のだけど、だいぶん足元が怪しい。そりゃワイン3本をひとりで飲んでりゃなぁ。
「昔の王子なら私のことを心配してくれたんでしょうが……いまは違うみたい」
「心配はしている。だが、それはまず夫婦間で話し合うことじゃないのか?」
そもそも俺の出る幕か? 領主のところに行って、「奥方とは顔見知りでな、なんか悩んでいるようだぞ」というのも変じゃないか?
「もう私のことなんて興味もないのに」
アンナが独り言ちる。モネとロゼが鼻で笑った。
「そうね。こんな飲んだくれはね」
「あたしもそう思う」
おいこらっ! 仮にも領主夫人だぞ!
やめろ、と俺が姉妹をにらみつけるのに、あいつらはしれっとした顔で無視をした。
「ひとりで帰れないだろう? おい、お前達。領主夫人を屋敷まで送ってやれ」
「なんで私たちが」
「いや!」
姉妹が拒否ったとき、アンナが思い切り転倒した。
モネは舌打ちし、ロゼは大ため息をつく。
「いいわよ別に。メイドを呼んでくれない?」
アンナは芝生の上に座り込んだまま、気だるげに言う。同調しようとしたモネロゼに、俺はきっぱりと首を横に振った。
「メイドや執事はここの領民なんだろう? 領民の前でそんな姿を見せるな」
アンナに近づき、俺はひざを折ってしゃがんだ。顔をのぞきこむ。まだ落としていない化粧がだいぶん崩れているのが夜目にもわかる。
「夫婦の間でなにか問題があるのかもしれんが……。領民にとっちゃそんなこと関係ない。自分たちが誇れる代表であるかどうかが重要だ」
少なくともシトエンはそうだ。
なにか悩みを抱えていても、身体がしんどくても、団員や王都民、国民の前ではそんなことをみじんにも見せない。モネロゼやイートンの前でも、だ。
「誰かの妻である前に、まずは領主夫人としてしっかりと振るまえ。領主は領民のために必死だぞ」
アンナはじっと俺の顔を見つめているが、無言だ。
たぶん、数年前の俺なら、その視線におじけて何も言えなかっただろうが……。今は違う。誰かが注意してやらなきゃいけないことがわかる。
「お前ならできる。なにしろ昔、俺が心惹かれた女なんだからな」
そう言って笑うと、アンナは苦笑を漏らした。
「まぁ。知らぬうちに、王子は饒舌になられたこと」
「そうか?」
「昔は、大きな身体をしておられるのに、ドギマギと……挙動不審でしたわよ?」
「言うなよ、あの頃のことは!」
モネロゼに聞かれたらどうするんだ!と焦るのに、アンナはころころと笑った。
その笑い方が、昔みたいで。
だから、余計なお世話だとおもいつつ、つい言ってやる。
「あのな、これ以上嫌われたくなくて黙ってるときもあるんだよ。興味がないわけじゃない。男はみんな、臆病なんだ」
「臆病?」
アンナが小首をかしげた。小鳥のように。
「もちろんそれじゃいかんということを、俺は学んだ。きっと領主も勉強中なんだ。だから少し歩み寄ってやれ」
そう言うと、アンナは俺をじっと見つめたあと、やっぱりころころと笑った。
「本当に王子は変わられたわ。人生ってわからないものね」
そして、座り込んだままの態勢だが、ぺこりとモネロゼに頭を下げた。
「申し訳ないけれど、手を貸してくださる? 確かに使用人たちには見せられない姿だわ」
ちゃんとお願いしたからなのか、モネロゼは不承不承ながらも近づいてきた。
「仕方ないわね。王子、さっさとシトエン妃のところに行きなさいよ」
「ずっと心配して待ってたんだからね⁉ シトエンさまにちゃんと謝ってよ!」
ぷんすかしながらも姉妹はアンナに手を貸し、立たせる。
「悪い。よろしく頼む」
俺は声をかけ、別館のほうに向かった。
足早に、というか。もうほとんどダッシュで別館に向かいながらも、頭の中はモネロゼがガゼボに来た理由について整理をする。
俺の帰りが遅いことを心配し、シトエンが「迎えに行く」と言い出した。
それを押しとどめたら、「せめてバルコニーから様子をみたい」とシトエンが言った。
ロゼはともかくモネのことだ。
狙撃や襲撃のこともある。シトエンだけをバルコニーに出すことは危険と判断し、みんなでバルコニーに出た。
そして。
俺が見えた。
……正確には、見えたのはモネとロゼだろう。この暗がりだ。シトエンには人影ぐらいに見えたのかもしれない。
だけど、モネとロゼの動きで「俺が暗がりで領主夫人と会話をしていた」ということには気づいたかもしれない。
……まずい。
いや、やましいことはなんもしていないぞ⁉ 実際、近づきもしなかったし! 話というか愚痴を聞いただけだからな⁉
でも……シトエンが誤解していたらどうしよう……!




