ラストパレヱド
部屋を支配しているのは、夏の熱気に晒さ
れたまま何週間もお風呂に入っていないお姉
ちゃんの汗混じりの体臭と、彼女の叩くキー
ボードの軽いタイピング音、そして床中を埋
め尽くす大量の可燃ごみだった。
「本当に、汚い。こんなんじゃ、お姉ちゃん
は一生結婚出来ないよ」
ゴミを踏まないようにつま先で歩き、なん
とか座れる場所を探しながら言うと、お姉ち
ゃんは人を小馬鹿にするような口調で笑った。
「それはどうだろうな。上辺だけ取り繕って
綺麗なふりして生きてる女より、私みたいに
自分らしくいようとする女の方がいいと思う
んだけどな」
「そんなことばっかり言ってるから、お姉ち
ゃんには恋人どころか友達の一人もいないん
だよ。あと、掃除したり自分磨きしたり、沢
山努力する女の子の方が私はいいと思うけど」
「おいおい、馬鹿言うなよ」
お姉ちゃんは愉快そうに口を歪める。
「いいか、零。そういう努力ってのはな、化
粧みたいなものなんだよ。限界があるんだ。
どんなに努力しようと、人間の本質は変わら
ない。どんな化粧も、いつかは落ちる。自分
をいくら変えようとしても無意味なんだよ」
「お姉ちゃんは、本当に可愛くないね」
冷たく言い捨てて、ようやく見つけたゴミ
とゴミの隙間に体育座りで座る。椅子に座っ
ていたお姉ちゃんが振り向き、私のことを見
下ろした。ゴミに取り囲まれているからか、
私までゴミの一部になってしまったかのよう
な感覚に襲われる。
私がこの部屋を訪れたのは、大学にも行か
ず、この部屋に閉じ籠り続けているお姉ちゃ
んを心配してのことだった。私は彼女が部屋
で、小説を書いている、ということを知って
いたが、そんなことのために大学に行かない
のは、盲目的で愚かしいことだと思っていた。
私は何気ない雰囲気で聞いた。
「そういえば、お姉ちゃん。まだ、小説書い
てるの?」
直後、お姉ちゃんは苛立ちを全く隠さず、
鋭い目で私を睨みつけてきた。
「あ?まだ、ってなんだよ」
彼女は大袈裟な手振りを交えながら、早口
で捲し立ててくる。
「いいか、私にとって小説を書くことはな、
生きることなんだよ。これは私の見つけた、
そう、いわば青春だ。人生の春。私はな、小
説を書いてる時が一番満たされてるんだよ」
私は彼女の目を見つめ、冷静に語りかけた。
「でも、それは大学に行かなくてもいい理由
には、ならないよね。私は小説を書くのを悪
いとは思わないけど、お姉ちゃんの人生が狂
っちゃったら、取り返しがつかないよ」
必死に言葉を紡ぎ、発する。が、お姉ちゃ
んは私の気持ちを鼻で笑ってみせた。
「流石、私の妹だけあって頭がいい。だが、
そんな風に生きている人間が本当に幸せにな
れるとは、どうしても思えないんだよな」
「どういう意味」
「私じゃないみたいだろ、そんな奴」
「じゃあ、もういいよ。屁理屈ばっかり」
胸の中で弾けた憤りに任せて言い放った。
部屋を出ようと一歩踏み出すと、足元に違
和感を感じると共に、視界が真っ逆様に落ち
た。痛むお尻を撫でながら確認すると、どう
やらゴミを踏んで、足を滑らせたらしかった。
次の瞬間、お姉ちゃんの愉快そうな笑い声
が部屋中に響いた。恥ずかしさと悔しさで顔
を赤くするのを見て、彼女は更に面白がった。
「流石、私の妹だけあって面白いな」
「うるさい」
立ち上がり、改めて部屋から出て行こうと
すると、お姉ちゃんは私を呼び止めた。
「なあ、零。ちょっと待て」
「何」
「お前、青春してるか」
唐突にされた質問の意味を理解しかねてい
ると、彼女は重ねて言った。
「お前は、幸せだなって実感出来るような時
間を、過ごせているか?」
「急に、どうしたの」
「いいから。考えてみてくれ」
幸せだなって、実感出来るような時間。過
去を辿り、想像してみると、私の中に、確か
にそういう時間はあった。
思い浮かぶのは、満たされたくて満たされ
たくて仕方ない、一人の少女の可愛らしい横
顔だった。花のように誘う甘い香り、サラサ
ラとした細くて長い、綺麗な栗色の長髪。少
し低い鼻に、薄くて湿った唇。いつも曇って
いる、本当は宝石みたいに素敵な目。
考えてみて初めて、彼女の隣にいる時は、
幸せだって、思えていたのだと気付いた。
「そんなの、私には分かんないよ」
小さな感動を胸の中に隠して言うと、お姉
ちゃんには見透かされてしまったようで、彼
女は感心したように笑った。
「へえ、いいじゃねえの」
「そんなこと聞いて、どうするの」
「一つ、私も立派なお前の姉として、自慢の
妹に伝えておきたいことがあるんだ」
「立派では、ないけどね」
お姉ちゃんは私の言葉を無視し、やけに神
妙そうな表情で話を続ける。
「私が話したいのは、お前の青春についての
ことなんだが」
「青春。まあ、一応、聞いておくけど」
言うと、彼女はいきなり、真っ直ぐに言葉
をぶつけてきた。
「その幸せから、絶対に手を離すなよ」
いつになく真剣な声に、私の心臓が跳ねた。
「いいか。青春って言葉はな、いつか幸せを
掴み損ねた大人達の格好悪い言い訳なんだよ。
学生から大人になって、満たされなくなって、
そんな自分達を正当化する為に、青春なんて
中身の無い言葉で誰かを特別に仕立て上げる
んだ。特別な時期はもう過ぎたから、俺達は
幸せでなくても仕方が無いって具合にな」
小言を挟まず、黙って、話に耳を傾ける。
「私は、それに気付いた時、そんな大人には
なりたくないと思ったんだ。そしてお前にも、
そんな大人にはなって欲しく無いって、思う」
お姉ちゃんは幼げな笑みを浮かべて言った。
「だから、どうか、お前もお前だけの幸せを
掴んで、幸せになってくれ。私達は一生、大
人達の言う青春を過ごして死んでやるんだ」
彼女の言葉を聞いて、物欲しそうにこちら
を見つめる少女が、私の前から姿を消してし
まった後の、色の無い世界が思い浮かんだ。
「もし、さ」
私は縋るように言った。
「世界が私の感じてる幸せを賞賛しなかった
としたら、どうしたらいいと思う?」
お姉ちゃんは乱暴な口調で即答した。
「あ?世界がどうとか関係ないだろ」
いいか、と彼女は優しげに言う。
「人の幸せってのは、誰の何にも犯されてい
いものじゃねえ。自由なんだよ。だから、そ
れがどんなことだとしても、一番強く主張し
続けなきゃいけないんだ」
「自分勝手な幸せを主張して、かえって不幸
になってしまったら、困っちゃうでしょ」
「だからって、自分の幸せを諦めちまうのか。
それじゃあお前は、何のためにこれまで生き
てきたんだよ」
何のために?考えてすぐ、衝撃が走った。
それは、私の望む未来に、栗色の髪色の彼女
の姿があることに気づいたからだった。
同時に、私は未来への期待感を燃料にして、
生きていたのだということを知った。
私は唐突に、私だけの幸せを、告白した。
自分の見出した幸せと向かい合う覚悟を、
私の中で、決めてしまうために。
「私、性的に好きな女の子がいるんだ」
高校へ行く支度を終え、姿見で自分の姿を
確認する。着慣れたセーラー服はすっかり私
に馴染んでいて、自然だった。ずいぶん前に
散髪してからしばらく経ち、楽だからという
理由でボブくらいだった長さの髪は、今では
肩の下まで伸びている。
彼氏が欲しい、だとか言って容姿に気を使
い、工夫している女子も多いが、私は元々、
男の子に興味が無いこともあって、未だに名
前も知らない化粧水を使っているし、髪型も
適当だった。
「行ってきます」
お姉ちゃんに向けて言うと、彼女はだるそ
うに返した。
「ああ、行ってらっしゃい」
玄関の扉を開け、いつもの駅へ歩く。
空は平凡な青空で、夏の豊かな緑の匂いが
風に乗って運ばれてきていた。
スカートがはためいて、制服に意識を向け
た時、お姉ちゃんの言葉が蘇ってきた。
「青春って言葉はな、いつか幸せを掴み損ね
た格好悪い大人達の言い訳なんだよ」
このセーラー服が特別に思えるのも、青春
という言葉によるものかもしれないと思うと
少し気味が悪かった。それと同時に、未来の
私が今日の私を見て、「青春だった」と諦め
たような笑いを浮かべるのを想像して、吐き
気がした。そんな大人には、死んでもなりた
くない。
何百回と歩いてきた道を辿り、通い慣れた
無人駅へ到着した。薄い壁と雨漏りのする屋
根、そして自動券売機と一つのベンチしかな
いこの駅で、私以外の人間はこれまで一人し
か見たことが無かった。
立て付けの悪いガラス戸に手を掛ける。
「その幸せから、絶対に手を離すなよ」
胸に残っていたお姉ちゃんの言葉に、体中
が強張るのが分かった。
意を決して戸を開けると、そこにはいつも
のように、ベンチに座っている彼女がいた。
柔らかい栗色の長髪が朝日に照らされて、琥
珀色に輝いて見える。頭を上げ、私の姿を認
めると、彼女は嬉しそうにこちらに手を振っ
て笑った。
「おはよう、零ちゃん」
甘く、ねっとりとした彼女の声が体の奥で
溶ける。急に、顔のあたりが熱くなって、体
全体から汗が滲んだのが分かった。それと同
時に、胸から起きた暴力的な衝動が私を掻き
立てた。こんなことは、彼女と出会ってから
初めてだった。
「お、おはよう。心ちゃん」
変に力む右手を上げて手を振り返す。
そんな私の様子に目を向けながら、心はベ
ンチに下ろしていた腰を少し横にずらした。
いつものように、私は心の空けてくれたベ
ンチの座面に座る。互いの肩と肩が触れ合っ
て、心の体温と私の体温が混ざり合う。
私たちの座っているベンチの横幅には、人
が二人座ったくらいではまだ余裕があった。
それでもこれほどまでに近くに座るのは、
それが性的なものかどうかは置いておいて、
互いが互いを求め合っていることを暗に理解
し合っているからだった。
私の火照ってしまった体からは、不快な汗
が溢れてきていた。セーラー服の中が熱く、
中に着ていたTシャツが湿って肌に張り付く。
心は私を一瞥して、小さく笑った。彼女は
右手を上にして軽く手を組み、粘り気のある
その声を囁くように発した。
「今日、暑いね」
見ると、そういう彼女は、ほとんど汗をか
いていなかった。まるでからかわれているよ
うで、余裕そうな感じが可愛らしかった。
数分後、時間通りに駅に電車が止まって、
私達を乗せてまた走り出した。車内には、同
じ高校の生徒の姿が数人確認できた。
電車に揺られている間、私の頭の中を支配
していたのは汗臭い不純な妄想だった。
心の青春とは、幸せとは、ただ、彼女自身
以外の誰かに求められることであることを、
私は知っている。
それだけに、私が彼女を求めたとしたら、
簡単に自分のものになってしまうことは明白
だった。
しかし、この感情を私の世界は賞賛しない。
彼女の未来を思い、私は性の鎖で自分を縛
り付け、愛欲をこれまで抑えてきた。
だが、このままではいつか、心は私の前か
らいなくなってしまうと気付いた瞬間から、
鎖は効力を失っている。
かくして、青春の獣は放たれたのだ。
そして今朝、私は胸の中に隠していた牙を、
心に突き立てることが出来なかったのである。
初めての心臓の揺らぎと体の火照りが判断を
狂わせ、何より、勇気が出なかった。
後悔と羞恥を抱きながら隣に座っている心
に目を向けると、彼女は霞のかかった目で流
れていく平凡な住宅街の景色を眺めていた。
セーラー服から覗く白くて薄い皮膚が食欲
を刺激すると同時に、ガラスに映った私の姿
がやけに気になった。
もし私が男の子なら、この女の子に、素直
に好きだと言えたのかもしれない。
結局、何も出来ずに一日が終わった。
「私ね、初めて、彼氏が出来たんだ」
心が口元を隠しながら、嬉しそうに笑う。
これは、あの駅の中での、一年前の記憶だ。
「良かったね」
まだ出会って間もなかった彼女に、私は形
だけの言葉を差し出す。男の子に興味の無い
私には、何が良いのかは分からなかった。
それから、心はその彼氏に夢中になってい
ったらしかった。彼女のする話は、大体が彼
が何をしてくれただの、何を言ってくれただ
のといった恋愛話ばかりになったが、話して
いる間、幸せそうな顔をしていた。私はただ、
そういうものなのか、と彼女の言葉に耳を傾
け続けた。
「彼氏に、別れたいって言われた。重いって」
二人きりの駅の中で、心が寂しそうな声を
出したのは私たちが出会ってから初めての雪
の降った日のことだった。
心を襲う計り知れない悲しみを想像し、そ
っと寄り添うと、彼女は私を抱き締めて泣い
た。思い返してみれば、この時から、私達は
肩が触れ合うほどに、互いのすぐ近くに座る
ようになっていた。
そして冬を超え、春がやってきて、現在に
至るまでに、心には二人の恋人が出来た。
心は魅力的な女の子だ。
その事実には驚くことは無かったが、その
うちの一人が女性である事を初めて聞いた時
は、流石に耳を疑った。
それと同時に、彼女の求めているものの本
質を、私は理解したような気がした。私が心
に特別な感情を抱くようになったのは、この
時からだった。
彼女はどこまでも純粋だった。愚直に、自
分なりの幸せを求めていた。だが、残酷な世
界は彼女の幸福を認めることは無かった。何
度だって、彼女は切り裂かれた。
心の、満たされない日々に悶え生きる寂し
げな横顔は、この上なく、いじらしかった。
夏の暑さを感じる頃には、新しい二人とも
別れてしまったのだと、彼女から聞いた。
姿見には、目の下に隈を作った平凡そうな
女子高生の私の全身が映っていた。私を飾る
折り目のついたセーラー服からは、汗と柑橘
類が混ざったような匂いがした。
窓の外を見ると、とっくに登ってしまった
朝日が部屋に差し込んできている。
心を私のものにする為に出来ることは何だ
ろうか、と昨日から考え続けていた。
言葉だけでは、きっと足りない。
好きだなんて台詞は、彼女はもう聞き飽き
ているはずだった。
言葉より先にある、私にしか出来ないこと。
それは、禁忌を破ってまで彼女を求める、
そういう行為だと、思った。
「お姉ちゃん。行ってくるね」
かたかたと音のする部屋の前まで行き、声
をかけると、お姉ちゃんは眠そうに答えた。
「ああ、行ってこい」
玄関から飛び出すと、そこにはいつも通り
の平凡な世界が広がっていた。青い空に、緑
の匂い、優しい風に高い気温。その中に溶け
込む女子高生は、以前までの私の姿だ。
地面を蹴り、いつもは歩いていた道を走る。
タイムリミットは電車がやってくるまでだ。
不思議な高揚感と緊張感が私を支配し、体
が火照って熱い。
青春は、いつまで続くか分からない。
だから、決行は早い方がいい。
駅にはすぐに到着し、ガラス戸に手を掛け
た。透明な板の向こうで、栗色の髪が揺れて
いるのが見える。戸は相変わらず立て付けが
悪く、何かに引っかかって開かない。緊張感
を振り払うように腕に力を込めると、大きな
音をたてて、勢いよく戸は開いた。
「心ちゃん!」
「あ、おはよう、零ちゃん」
心はこちらに、小さく手を振って笑った。
あまりにも日常的で自然だった彼女の目線
に、私は射抜かれてしまったかのようになっ
た。頭が真っ白になって、体が強張る。喉が
締められたように声が出ない。
「ん、どうしたの?」
私が立ち尽くしていると、心は首を傾げた。
何も答えられず、体中から不快な汗が噴き
出してくる。
ここまで来て、私は気付いてしまったのだ。
私が心を求めるということは、この平凡で
幸せな日常を自ら手放す事と同じである。
「青春って言葉はな、いつか幸せを掴み損ね
た、格好悪い大人達の言い訳なんだよ」
それでも、私は心に手を伸ばそうと再び奮
い立った。
世界が私達を嫌っても、日常が崩壊したと
しても、それは、私自身が見出した幸せから
目を背けてもいい理由にはならない。
聞こえてきたお姉ちゃんの乱暴な口調の言
葉から、その事に気付いた。
私はすぐさま、ベンチに座っている心の近
く歩み寄っていった。不思議そうな顔をして
こちらの様子を見ている彼女の肩を、両手で
強く掴む。
次の瞬間、私は強引に心の唇を塞いだ。
逃げられないように、彼女の頭を押さえつ
ける。
力を入れると、彼女は簡単に押し倒せた。
まるで抵抗する意志が無かった。
いつも二人で座っていたベンチの上で、一
方的に、私は心を求め続けた。
妄想より甘かった心の唾液は、私を平凡で
なくさせる、罪の味がした。
私が犯すのを止めると、彼女は物欲しそう
な目で、こちらを見た。その目には一切の曇
りがなく、輝いていた。
私が心の全てを欲するように、私も、心に
とっての青春になれているのだと思うと、嬉
しかった。
私達は電車がやってきた音にすら、気付く
ことはなかった。
指を絡ませ合う二人の薬指には、透明の宝
石が埋め込まれたお揃いの指輪が光っていた。
黒い髪を無造作に結んだ女は、隣にいる栗
色の長髪の女の頭を優しく撫でる。
「まったく、人前でいちゃつきやがって」
乱暴な口調で掛けられた声に女達は笑った。
「お姉ちゃん。もしかして、後悔してる?」
「まさか、馬鹿言うなよ」
愉快そうに、彼女は捲し立てる。
「私にはな、酔狂な読者様がいるんだ。それ
に、私にとって小説を書くことはな、生きる
ことなんだよ。これは、私に相応しい人生さ」
「お姉ちゃんらしいね」
少女達は尚も、青春の獣であり続けていた。