026 キリエ先生は子どもたち文字を教えます。大きな生徒も二人います。
教会の狭い礼拝堂は満員だった。
アレクセイが用意した黒板の前では、キリエが授業をしている最中だ。
それを熱心に聞く十数人の子どもたち。
そこに交じる大人が二人――【農夫】のサブロとシロだ。
午前中は毎日ここで、キリエ学級が開かれている。
アレクセイは一番離れたところから、スージーと並んで授業の様子を見守っていた。
「それでは、今日も楽しく読み書きを学んでいきましょう! 文字を覚えれば、ひとりで本が読めるようになりますからね」
「「「「「は~い!」」」」」
「頑張るっす!」「子どもには負けないっす!」
子どもたちの元気な声にサブロとシロの声が混ざる。
サブロは植物、シロは鉱物――二人とも鑑定持ちだ。
辞典が読めるようになれば、よりギフトを活用できる。そのために子どもたちと一緒に机を並べているのだ。
リシアが教えているのは、この国の公用語である大陸共通語。
まだ、スタートして二週間なので、基礎の段階だ。
「この文字『ξ』はなんと読みますか?」
「『ル゜』です」
「そうですね」
指された子どもがハキハキと答える。
「では、『ξυ』はなんと読みますか?」
「『ル゛』……かな?」
サブロが自信なさげに答える。
「合ってますよ。『υ』がつくと音が変わるので注意してくださいね」
キリエの笑顔に、サブロは子どもみたいな笑みを浮かべる。
「テキストの次のページを開いてください」
授業で用いられているテキストは、アレクセイとスージーが二人で二年以上かけて作成したものだ。
「上手くいってるみたいですね」
「ああ、二人で頑張ったからね」
アレクセイの父であるエグムントに見せた際には一顧だにされなかった。
だが、授業風景と生徒たちの習熟度から判断するに、間違っていなかったと確信できた。
なによりも、生徒たちの目がキラキラと輝いている。
――僕が習ったときは、苦痛で苦痛でしょうがなかったからなあ。
貴族にとって識字能力は、礼法やダンスと同じく必須の教養だ。
ご機嫌伺いの手紙ひとつにしても、格調高い美文が要求される。
実務的な書類にしても、独特の持って回った言い回しで、話し言葉である口語とは別の文語が用いられる。
平民の理解できない文章を巧みに操ること。それが貴族の特権意識を支えるひとつになっている。
そして、その教育方法は、名文と呼ばれる文章を何度も何度も読んで書き写すこと。
完全に覚えるまで、鞭で叩かれながら、それを繰り返すのだ。
人の上に立つには絶対に必要だと分かっていたから真剣に取り組んだが、苦行以外のなにものでもなかった。
「次は書き取りです。『畑』、『水』、『麦』、『野菜』――この4つを石版に書いてください」
キリエの指示に従い、子どもたちはそれぞれ石版にチョークで単語を書いていく。
サブロとシロも「えーと、えーと」とうなりながら手を動かす。
二人とも真面目に頑張っているのだが、小さい子の方が覚えがよかった。
そんな中、礼拝堂の隅ではポーラが一人おとなしく本を読んでいた。
すでに字を覚え、一人で本が読めるポーラは、アレクセイが持ってきた新しい書籍に夢中だった。
この二週間、折を見てはポーラに声をかけ、少しずつ距離は縮まっている。
だが、心を開いてもらうには、もう少しかかりそうだ。
「はーい、今日はここまでです。よく頑張ったみんなにはご褒美がありますよ。順番に並んでくださいね」
キリエの前に子どもたちが列をなす。
ちゃんと小さい子を優先した年齢順。大きな生徒二人は最後尾だ。
順番に飴玉をもらい、口に放り込んでは幸せな顔になる。
アレクセイが持ち込んだもので、街の子どもがおやつに食べる、ありふれたものだ。
それでも甘味に馴染みがなかった子どもたちは大喜びだ。
「アレク兄ちゃん、ばいば~い」
「うん、頑張るんだよ」
子どもたちはアレクセイに挨拶してから出て行く。
リシアの「お兄ちゃん呼び」が広まって、小さな子どもたちの間ではそれが定着してしまった。
「アレクセイさま、この、あっ……」
子どもたちがいなくなり、キリエが近寄ってきたのだが、なにもないところでつまづき、転びかける。
アレクセイが手を差し伸べようとするが、それより先にスージーが間に入って、キリエの身体を支えた。
「大丈夫ですか?」
「はっ、はい。ありがとうございます」
キリエはわざと転んでいるわけではない。
それを分かっているので、スージーはなにも言わない。代わりに、「お姉ちゃんも転ぶ振りをしてみようかな?」などと考えていた。
「このテキストはスゴイですねっ! こんな学習法があるなんて知りませんでした」
アレクセイとスージーが語学のテキストを作ろうと思ったきっかけは『ベーシックインカムへの道』だ。
この本と出会い、ニホン語と出会った二人は、ゼロから新しい言語を習得する必要があった。
ご先祖様が遺してくれた辞書があったとはいえ、大変な道のりだった。
そして、その過程で言語を学ぶためには、従来の教育法はダメだと悟り、新しいテキストを作ることにしたのだ。
ニホン語と出会うまで気づかなかったが、大陸共通語は文字と発音が完全には一致していない。それまではそれが当たり前だと思っていた二人だが、ニホン語と出会い、そうではないと気がついた。
そこで二人はまず、綴りと発音の関係性を覚えさせるところから始めたのだ。
――地球で言うところの『フォニックス』という学習法だ。
文字を覚え、綴りと発音の関係性を身につける。そうすれば、例外はあるが、九割程度の単語は理解できるのだ。
フォニックスを学べば、始めて見た単語の読みを推測できるし、聞いた単語の綴りも推測できる。
初学者にとって最短ルートの学習法だ。
「みんな、どんどん覚えていって、わたくしも嬉しいです」
「キリエの教え方がいいからだよ。この調子でよろしく頼むね」
「はいっ!」
この教室には十五歳未満の子どもたちを全員参加させているが、どの子もアレクセイが想定していた以上の成果を挙げている。
文字を学ばせる理由はふたつ。
魔法を使うためには、文字の習得が必須だからだ。
文字を覚えれば誰でもというわけにはいかないが、文字なしでは魔法は使えない。
このうちの何人かでも、魔法を使えるようになって欲しいというのが、アレクセイの望みだった。
そして、もうひとつの理由は――。
今はまだ必要ないが、この先領土が拡大し、領民が増えれば、アレクセイ一人で回すことはできない。
読み書き計算ができ、自分で考えられる官僚が必要だ。
この子たちにはその官僚候補だ。だいぶ未来の話になるが、アレクセイは先を見越して準備している。
その先――ベーシックインカム実現を目指して。
次回――『スージーのいない夜(上):添い寝権をゲットするのは?』
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一人でも多くの人に本作を読んでいただき、ベーシックインカムを広めたいです!




