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エピローグ

 暦の上では秋になって一か月以上経つというのに、陽が落ちても外はいまだサウナのように蒸し暑い。汗はいくら拭いても無限に出てきて、僕は早々にコンビニへ避難した。約束の時間にはまだ四半刻あるから、相手を待たせることはないだろう。


 アイスコーヒーを持って窓際の席に腰を下ろす。店のイートインからなら、待ち合わせ場所の様子をうかがえる。ここにコンビニがあるなんて前回は気づかなかった。




 今日は待ちに待った、焼肉のリベンジである。




 以前、キャンセルの連絡を入れ忘れていた僕は、身のまわりのことが一段落してから『水山園』に謝罪の電話を入れた。受話器を取ってくれたのは、先日僕の予約を担当してくれた女性だった。


 彼女は平謝りする僕を責めることなく、「わざわざお電話ありがとうございます」とお礼まで言ってくれた。曰く、当日に何度か連絡を入れたもののつながらなかったため心配していたという。その電話番号を確認してみたら下一桁が間違っていた。


 奇跡は重なるもので、この謝罪電話の直前にまた予約の取り消しが発生したらしい。通常は半年以上待たなければならない人気店に二か月後に行けるとなれば、お願いしない理由はない。快く了承してくれた店員さんには頭が上がらない。


 スマホがぴこん、と光った。向野さんがもう到着したらしい。早かったな。


 イートインから待ち合わせ場所を観察するが、人の姿はない。


 不思議に思っていると、左隣の席から人の気配がした。


「あ」

「どうも♪」


 向野さんが悪戯っぽい笑みを浮かべていた。


「いつからいたんですか」

「どのように推理します?」


 瞳を細め、試すように見つめてくる。


 暑がりの向野さんなのに、汗一滴すらかいていなかった。駅からこの店までは横断歩道を渡らないといけないので、早歩きでも二分はかかる。僕は手元のアイスミルクに着目する。Mサイズのカップの中身は八割ほど減っていた。僕のアイスコーヒーがまだ半分以上残っていることを踏まえると……。


「……もしかして、僕がここに来た時点で隣にいました?」


 向野さんは「正解」の代わりにとびきりのスマイルを見せる。


「全然お気づきにならないのでびっくりしました。事件ならば些細な出来事も見逃さないでしょうに。普段は存外ポンコ……天然なんですね」


 まさか向野さんからこの言葉を聞かされることになろうとは、不覚。


 お互いドリンクを飲み干してから、コンビニを出た。並んで歩きながら僕は近況を報告する。


「ようやく住所変更手続きが終わりました。真夏に引っ越しなんてするものじゃありませんね」


 費用を抑えるために梱包やトラックへの積み込みを業者に頼まなかったのだが、大間違いだった。いくら二人でやるとはいえ、荷物を持ってアパート三階から上り下りするのは苦行以外の何物でもなかった。プロの方々を尊敬する。


「収さんのお仕事も決まったんですよね。ダンススタジオの事務員でしたっけ?」

「ええ、契約社員ですけどね。試用期間でまずは二か月。これまでバイト経験はないそうですけど、要領がいいからすぐに慣れると思います」

「信頼されているんですね」

「ま、経験則ですよ」


 今年の夏、世間を賑わせたトップニュースが集団連続自殺事件であることは間違いない。関係者の自宅には連日マスコミが押し掛け、うちの実家も悪目立ちしてしまった。


 自殺とはいえ、殺す側と殺される側がいる以上、収もお咎めなしとはいかなかった。結果的に不起訴だったものの、大学は退くことになった。


 緊急家族会議は大荒れだった。母さんは泣き叫び、ポーカーフェイスの父さんでさえ狼狽していた。自慢の息子が自殺未遂とあらば、驚かない方がおかしな話である。ここは僕がしっかりしなければと、収に「これからどうしたい?」と訊くと、意外な返事がきた。


「家を出て働くよ。一人暮らしはこれまで何度も反対されてきたけど、父さんたちには迷惑かけたくないからさ。兄さんさえ良ければ、一緒に暮らしたいな」


 家族がリスタートするにはちょうどいい機会だし、僕は快諾した。兄弟の新居は実家から電車で行ける距離なので、僕もたまには家に顔を出そうと思っている。きっとろくな会話もなくて、いるだけで窮屈なのは間違いないだろうけれど。でも嫌なことはちゃんと嫌と発信して、意志を伝えることが大事なのだ。たとえケンカになるとわかっていても。




 予想よりも早く、事件は風化に向かっていた。




 理由は大きくふたつ。ひとつは渦が行方をくらませていることにある。少なくとも二人の人間を手に掛けた張本人が捕まらないことには、全容が明らかになることはない。彼女が運営していた自殺サイトは閉鎖され、足取りはまったくつかめていないという。


 代わりにというわけではないが、僕が関わった事件で最近新たな逮捕者が出た。


 名前は斑目社。キャバクラ店・ユーフォリアの店長に暴行を働いた犯人として自首したのだ。


 週刊誌の編集長による暴行及び暴言動画の影響で、一時期本社ビルの前ではデモが行われたり、リアリィにあることないことを書かれた犯罪被害者が続々声を上げたり、芸能人がそれを援護射撃したりとカオスな状況だった。肖像権やプライバシー権などの法改正に向け、タレント上がりの政治家が動き始めているとの情報もある。その情勢で動画に映っていた人物が逮捕されたとなれば、再び世論は活発になるだろう。これが、連続集団自殺事件が埋もれつつあるもうひとつの理由だ。


 収も金髪少年も、渦と顔を合わせたのはあの日が初めてで、ベネチアンマスクの下は見たことがないそうだ。


 人の負の感情を巻き込んでいき、本人は飲み込まれたように消えてしまった。それこそ渦のように。

あれは人災ではなく、きっと天災だった。僕たちが人とわかり合おうとする姿勢を崩してしまえば、いずれ自然現象のようにまた現れるのかもしれない。


 だから僕は、人の心を知ろうとすることを止めてはいけないのだ。


「……ずっと気になっていたことがあるんですが」

「はい、何でしょう?」


 僕も向野さんも、前を向いたまま歩いている。


 遠くで焼肉店のネオンサインが煌々と光っている。


「公園に僕を迎えに来てくれた後の向野さん、普通に推理してましたよね?」


 GPSアプリで位置情報を確かめていたとはいえ、平常時の向野さんが「僕がトラブルに巻き込まれている」なんて正解を導き出せるとはどうしても思えなかったのだ。片道一時間近くもあるのに、わざわざ戻ってきてくれたからにはよほどの確信があったに違いない。これは過大評価でも過小評価でもなく、等身大の彼女を知っているからこその疑問だった。


「推理と呼ぶほどのものでもありません。あなたが待ち合わせ場所周辺にいたという事実から過程を逆算しただけですよ」


 向野さんはなぜか早口だった。


「約束が急に面倒くさくなったとか、別の人との予定を優先したとかの方が、まだ可能性は高いと思いますが」

「束さんはそんな不誠実な人ではありませんから」

「褒めていただけるのは嬉しいですが……」

「以前のあなたなら、『僕はそんな評価に値する人間じゃない』なんて自分を卑下されていたんじゃないですか?」

「……そうかもしれませんね」


 変わっていく、少しずつ。


「つまり、私も成長しているんですよ」


 えへん、と向野さんが胸を張る。


 さあ、目的地に到着だ。


「……それに」


 向野さんが背伸びをして、僕に耳打ちする。


「私、居酒屋さんでも言ったじゃないですか」


 両手で包み込まなければすぐに霧散してしまいそうな、か細く小さい声。くすぐったさに僕は耳元を押さえる。

 隣を見やると、向野さんは耳を赤くしてはにかんでいた。



 さて、どのことを指しているのだろう。



 思い当たる節はある。二度目に店を訪れた時、向野さんが名言たらしく述べた言葉だ。




『人が人を想うのに、推理なんて要りません。恋愛が絡んでいれば、女はみな探偵ですよ』




 このフレーズを、僕はどのように解釈するべきか。


 勘違いならものすごく恥ずかしいが、曖昧な態度で引き延ばして取り返しがつかなくなるのは二度とごめんだし、そもそも答えははじめから決まっていた。


 伝えるのはたった二文字だけでいい。犯人の説得や事件の推理より、よっぽど単純明快だ。




 それでも、返事をするのは、極上の焼肉に舌鼓を打ってからでもいいだろう?


(了)

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