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3章:収の兄貴

 モニターの横に設置してある長方形のデジタル時計が、午後の二時を指した。タイムリミットまで残り四時間。


「あれからお兄さんは一度も連絡してきませんね~。頭を冷やしすぎてシャーベットになっちゃったのかもしれませんね」


 渦さんが俺の口に一口大のシャーベットを放り込んだ。ブドウ味だ。


 廃工場とはいえ空調は機能しており、屋内は涼しい。暇なのとお尻が痛いことを除けば、この環境に取り立てて文句はない。少なくとも家にいる時よりは気が休まる。


「お兄さんはこのままあなたを見捨てると思いますか?」


 今度はミカン味。瑞々しくて表情が緩みそうになる。


「必ず連絡してきますよ。あの人は」

「……そうですか」


 渦さんは感情の読み取れない声色で、「皆さんのおやつも持ってきます」と出ていった。背後にある重そうな扉から光が差し込み、すぐに閉ざされる。


 兄さんはミカン味が一番好きだった。俺も同じだったのだが、それを口にしたら全部譲ってくれるとわかっていたから、味の好みが被った時は黙っているようにしていた。それでも俺の表情や声の雰囲気から悟って、「もう飽きちゃった」と差し出してくれるのが観崎束という人物だ。


 俺の成績が伸び悩んでいる時も、兄さんはわざと悪い点数をとって、両親の怒りの矛先を自分に逸らしてくれた。


 良く言えば弟想い、悪く言えば自己犠牲。


 ただ、あれは無意識に行っていたのではないかとも思う。調和を重んじるがゆえに、自分自身は意思を持たない人形になってしまったのだ。


 兄さんには自我がない。彼は両親の傀儡で、勉強以外に居場所を見いだせないようだった。だからこそ、第一志望の大学に落ちた翌週には家を出てしまったのだろう。勉強で親の望みを叶えられない自分にはこの家にいる資格がない、と。




 あれから死体はふたつに増えた。


 昨日兄さんがログアウトした直後、ケンジ・実紗夫妻で再び口論が起きたのだ。どうやら実紗さんは束縛が激しい性格と見受けられる。かつて十年近く付き合っていた恋人に、何度も浮気をされた過去があるらしい。その元恋人は最終的に、アメリカ人の女性と結婚して国外逃亡したという。


 誘拐事件が起きる直前も、二人はケンカをしていたそうだ。火種はケンジさんのスーツの胸ポケットに入っていた女性の名刺。彼曰く、営業先で受け取った時に名刺入れを持っていなかったので、ひとまずのつもりでしまっておいたものを忘れていたということだが、実紗さんはまったく信じていなかった。


 実紗さんの怒りと嫉妬のボルテージは最高潮に達し、ついに禁じ手を用いてしまった。あの顔は今でも脳裏に焼き付いている。


 耳に届きそうなほどに唇を歪め、こう言ったのだ。



「アンタなんか……渦なんか、死んでしまえ」



 紛れもないNG行動だった。口を滑らせたのではなく、わざとそう呟いたのだ。


 背後から近づいてきた渦さんは、ケンジさんのうなじに迷いなくナイフを突き刺した。


 実紗さんは壊れたからくり人形のように高笑いをしていたが、一瞬の静寂の後、画面の向こうで崩れ落ち、号泣した。人でなくなった夫の名前を何度も呼び、やがてスマホのバッテリー切れとともに姿を消した。



 残る生存者は俺を含めて二人。



 ただ、隣の金髪少年も生還できるとは正直思えなかった。父親である眼鏡の男性が今日も何度かログインしているが、そのたびに苛立ちが増しているのが見て取れる。睡眠不足からか人知れず落涙していたのか、瞼は腫れ、目も充血している。精神的な部分では、被害者であるはずの金髪少年よりも弱っているのは明らかだった。表面的には不良息子を毛嫌いしている風だが、完全に見切っているわけではなさそうだ。


 俺はこのまま見捨てられるのだろうか。


 それはそれで、悪くないかもしれない。


 おかしいな、さっき渦さんに「兄は必ず連絡してくる」と宣言したばかりなのに。俺も情緒不安定になっているのかもしれない。


 再び、背中越しに光が入ってきた。渦さんが戻ってきたらしい。


「食事の時くらい、拘束を外してくれませんか。せめて足だけでも。今さら暴れたりしませんから」

「ちょっと待ってろ。すぐに両方外すから」

「……え?」


 耳なじみのある、落ち着いた声。


「怪我はないか?」

「……どうして、ここに」


 ロープが解け、手足が自由になる。手首に残った跡は、呪いの刻印のようだ。


「それは僕が、収の兄貴だからだよ。それと……」


 観崎束は、決意を固めた様子で言い放った。




「お前たちの計画を、叩き潰すためだ」

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