3章:誰のために
瞼を開けると、カーテンの外からは光が漏れていた。腕時計の針は朝の七時を回っていた。仮眠のつもりが深く眠ってしまったらしい。
向野さんはどこで寝ているんだ。
上半身を起こし、室内を見回す。
最後に見たのと変わらない姿勢で、向野さんは動画を視聴していた。まさか、一晩の間ずっと観ていたのだろうか。
「あ、おはようございます♪ よく眠っていらっしゃいましたね」
寝不足を感じさせない、屈託のない笑顔になんだか恥ずかしくなる。
寝起きだが、思考は非常にクリアだ。靄はすっかり晴れている。
「何か手がかりはありましたか」
「ばっちり……と言いたいところですが、さっぱりですね。仮説はいくつか立ててみましたが、的外れも甚だしいでしょう。少なくとも、素面の私では」
向野さんが立ち上がり、バスルームに向かっていく。僕は後をついていく。
この後の展開は容易に想像できる。いや、本当は昨日、向野さんに公園で声を掛けられた時から知っていたはずなのだ。僕が現実から目を逸らしていたに過ぎない。
浴槽の上の換気扇には養生テープが張られている。そして出入り口に置いてあるクーラーボックスには、大量のドライアイス。
「ドライアイスが溶けると二酸化炭素が発生します。大気中の濃度が高くなると頭痛や吐き気を催し、やがて失神します。いわゆる中毒状態ですね。それが続くと、人はどうなると思いますか?」
向野さんの問いに僕は答えない。無言こそが正解の返答だ。
「細かく砕いてありますから、浴槽に投入した瞬間、ドライアイスは一気に気化し霧のように広がるでしょう。束さんはすぐ浴室を出て、扉を閉めてくださいね」
工程を説明するための、何の感情もこもっていない口調だった。
身内を助けるために、僕はまた向野さんを殺すのか。
誰かを犠牲にする正義なんて、やはり正しいとは思えない。
そんな薄っぺらい僕の価値観を、向野さんはとっくに見抜いていたのだろう。
「私が初めて殺されたのは、今から十五年前です」
「……え?」
「ある日の真夜中、家族三人で川の字で寝ているところ、突然窓ガラスが割れて、外から男たちが押し入ってきました。彼らは布団から起き上がろうとする私たちを踏みつけ、持っていたナイフで次々に刺していったんです。心臓に異物が突き刺さる感覚は今でも忘れられません」
嘘だろう、と話を止めたくなる。
僕の見せた動画には、人がナイフで刺されて死ぬ場面があった。あれをどんな心境で眺めていたというのだ。
「ところが私はいつまで経っても死ぬことはありませんでした。一度意識が途絶えたものの、目を覚ましてからは痛みもなく流血もすっかり止まっていたのです。この時は家探しをする強盗たちに生きていることを悟られないよう、ひたすら両目をぎゅっと閉じていました。十分もしないうちに静けさが戻り、恐る恐る目を開けると、両脇にいたのは虚ろな目をした両親でした」
それは、向野さんの不死身の力のルーツだった。
「両親はそのまま帰らぬ人となりました。この能力は私特有のものです」
「心当たりはあるんですか?」
「いえ、まったく。突然変異か、強力な守護霊がついているのか、先祖が人魚か不死鳥の肉でも食べて隔世遺伝が生じたのか、あるいは私自身が宇宙人か悪の組織にでも改造されたのか。少なくとも、脳や身体に異常がないことは搬送された病院で検査済みです」
「……知りたいですか? 力の起源を」
向野さんは静かに首を横に振った。
「不死身であることに意味は求めていません。大事なのはこのスキルとどう付き合っていくかです」
ずいぶんあっさりした感想だと思ったが、もし僕が同じ能力を手に入れたら、いずれは同じ結論にいたるかもしれない。現代科学で証明できない以上、どのような理由を突き付けられたところで心から納得することは不可能だ。
「……犯人は捕まったんですか?」
「全員逮捕され、今も塀の中です。私の両親を殺めた男は無期懲役になりました。逮捕にあたっては、私の証言も有力な手掛かりになったそうです。暗闇の中、一瞬の出来事だったというのに、私は犯人の顔や身体的特徴をはっきりと記憶していましたから」
まさに、不死身探偵誕生の瞬間だ。
「……せめてもの幸いは、ご自身の手でご両親の敵が取れたことですね」
しかし、向野さんの瞳は曇っていた。
「犯人たちは向野家の後も同様の手口で犯行を重ねていたそうです。犠牲になった方も複数いると聞きました。あの時私が目を閉じず、襲撃者の様子をつぶさに観察していればもっと早く解決につながったかもしれません」
「そんなこと……。急に強盗が入ってきて刺されたんです。怖いのは当たり前じゃないですか。向野さんが責任を感じる必要なんて微塵もありませんよ!」
「ありがとうございます。ですが私が抱えているのは責任ではなく、希望なんですよ」
「希望?」
両手を胸に当て、向野さんは目を伏せる。
「私に助けられる人がいる。この先何十年と続く誰かの人生を拓くことができる。これ以上のやりがいなんてありません。痛いのも苦しいのも確かに辛いですが、私は絶対に負けません」
負けない。
言葉以上に、輝く双眸が本心を訴えていた。
「それは、いばらの道ですよ」
「わかっています。肉体以外にも、傷を負うことは決して避けられないでしょう。ですが、一緒に蔦を取り払ってくれる人を私は知っています。その人はどんなに落ち込んでも悔やんでも、歩みを止めることだけはしません。自分にできる最善を追求し、誰であろうと常に本気で向き合います。そんな方と一緒なら、私は何も怖くない。……そうでしょう? 束さん」
期待。自信。信頼。尊敬。様々な色が希望を形成していた。
差し伸べられた手を、僕は両手で包み込んだ。
「……収だけじゃない。他の生存者たちも、必ず助けましょう」
「はい、必ず」
これは僕だけの事件じゃない。ましてや向野さんの事件でもない。
僕たちの、生きるための戦いだ。
向野さんはバスルームに入り、中央の椅子に腰かける。僕はクーラーボックスを抱えて浴槽の前に立った。ドライアイスの冷気と風呂の湯気が、交互に肌を撫でる。
クーラーボックスを傾け、氷塊を熱湯に滑らせていく。たちまち玉手箱のように、気化した二酸化炭素が湧き上がってきた。僕は空気を吸わないように息を止めながら、すべてのドライアイスを投入した。
バスルームの扉を閉める直前、向野さんと目が合った。これから死に向かうどころか、死神すら殺してしまえそうな、生に満ちた力強い瞳だった。
三分もしないうちに、擦りガラスの向こうの人影が前のめりになる。頭痛や吐き気と戦っているのだ。向野さんは生死の境をさまよいながら推理をしているというのに、見守ることしかできないのが歯がゆい。
「……束、さん……」
扉の下部に、向野さんの手のひらが当たる。僕は開けたくなる気持ちを必死に抑え、こちら側から手を重ねた。
「向野さん……!」
こんな時、何を言えば励ましになるのだろう。何を伝えても付け焼刃の表面的な慰めにしかならないような気がする。
だからこそ、どんなにくだらないことでも本当の気持ちを吐露するのが一番だと思った。
「事件が解決したら、今度こそ焼肉行きましょう」
「……特上コースにしましょうね……」
ずるずると、反対側の手が滑り落ちていく。
人影はやがて、完全に動かなくなった。
さらに三十分の時間を置いてから、バスルームの扉を開放する。まるでプロレスラーの登場シーンのように、スモークが室内になだれ込んでくる。僕はクーラーボックスと一緒に用意されていたゴーグルを装着し、中へ進む。
まずは天井の養生テープを剥がし、換気扇を起動させる。そして横たわった向野さんを抱きかかえ、リビングまで移動した。
「向野さん、聞こえますか」
真っ白な頬を優しく叩くが、反応はない。
今度は肩を強く前後に動かしてみる。カフェオレ色の髪が箒のように細かく揺れるだけで、身体はぴくりともしなかった。
「早く……起きて……!」
向野さんが息を引き取るたびに、二度と目を覚まさないのではないかという不安は拭えない。しかしそれ以上に僕の胸中を占めている想いがある。
僕は、向野さんのころころ変わる表情が、柔らかく軽やかな声が、楚々とした立ち振る舞いが、好きなのだ。
生きている向野さんに、僕はまた会いたい。
「向野さんっ!」
「…………はい」
命の証が、かすかに耳に届いた。
瞳が、指先が、徐々に活動を取り戻していく。
今回も、無事に戻ってきてくれた。
その事実がたまらなく嬉しくて、小躍りしたくなる。
「……束さん、ごめんなさい」
だが対照的に、向野さんの声は暗く重かった。
「この謎は、私には解けません」




