3章:大切な人
向野さんの部屋で冷たいウーロン茶を飲み、ほっと息を吐く。白を基調としたこの空間は、照明が明るいおかげか、どことなく甘い香りがするからか、不思議と安心する。向野さんは僕に説明を促すことなく、コンビニのロールケーキに舌鼓を打っていた。僕の手元にも同じものがあったので、プラスチックのフォークでカットして、口に放り込む。しゅわっと溶ける生クリームとしっとりした生地のマリアージュに思わず笑みがこぼれる。
おかげで、ようやく公園での会話の続きをする余裕が生まれた。
「……帰ったんじゃなかったんですか?」
「ええ。駅の改札を出た瞬間にあのメッセージを受け取りまして、またすぐ電車に乗りました」
僕が連絡した時点で目的地に到着していたのか。それなのに事情も訊かずに踵を返してくれるなんて、器が大きい人だ。
「そのまま外で夕食をとったのですが、家に帰る前、ふと気になって立ち上げてみたんですよ」
何を、と尋ねるより先にスマホの画面が提示される。
「あ」
向野さんがにこ、と笑う。
この位置情報アプリには見覚えがあった。
約二か月前、東京女子大生・OL連続殺人事件の際、僕らは解決のために作戦を講じた。僕が向野さんの行動を尾行し、犯人が襲撃したところを現行犯逮捕するというものだ。ある程度離れた位置から彼女の動きを追うために活用したのが、互いのスマホにインストールした位置情報アプリである。
「アプリを見てみたら、束さんが集合場所からさほど離れていないではありませんか。これはメッセージにあった『急用』が関係していると思いました。おそらく束さんは私より先に目的地に到着していた。しかし他人には口外できない事情によりその場を迂闊に離れられなくなった。事件に巻き込まれているというのが可能性のひとつとして浮上します」
「……それで、わざわざ戻ってきたんですか。僕に詮索することなく」
「スマホでのやり取りは犯人に見られているという恐れもありましたしね。GPSが示している場所に行ってみたら、束さんがうなだれていたので声を掛けたというのが事の顛末です」
向野さんがちゃんと推理できている状況にも驚いたが、それ以上に僕は、他人が自分を心配してくれていたという事実が嬉しかった。張っていた肩から力が抜け、操り糸が切れたマリオネットのような開放感だった。
僕はすべてを告白した。
弟が誘拐されたこと。他にも三組、事件に巻き込まれている人たちがいること。犠牲者が出てしまったこと。僕も弟を傷つけかけたこと。向野さんは口を挟むことなく最後まで黙って聞いてくれた。
「概要は把握しました。既に怪我人が出ていることも加味すると、明日の夜六時を待つのではなく、弟さんたちが捕まっている場所を突き止めた方がいいですね」
「僕もそう思います。渦が大人しく人質を解放するとも限りませんし」
「映像を観ることはできますか?」
「録画してあります」
パスコードを解除したスマホを渡すと、向野さんはすぐに映像を再生する。収が建物内部の構造を説明し始めたあたりで、パソコンを起動して検索エンジンにぽちぽちと文字を打ち込む。左目で動画を、右目で次々とサムネイルの画像を閲覧する様子はまるで自動精密ロボットのようだ。僕はそれをただ見守っていることしかできなかった。
一時間程度の映像を視聴し終えた向野さんは、僕のと自分の、二台のスマホでさらに動画の視聴を開始する。流れているのは過去に放送されたテレビのバラエティ番組で、内容はお菓子メーカーの開発秘話のようだ。当時の責任者が、真空パックの独自構造を解説している。
「あ、あの、僕に手伝えることはありますか?」
「そうですね、ひとまずベッドで寝てもらえますか?」
聞き間違いかと自分の耳を疑ったが、向野さんはいくつもの動画を同時に目で追いながら、ベッドを指差した。
「うちに来てから少し緩和されましたが、束さんはまだ興奮や緊張の状態から脱しきれていません。肉体以上に精神が疲弊しているんです。あなたに必要なのは、睡眠による思考の強制的なシャットダウンです」
「でも、向野さんがこんなに調べてくれているのに……」
「力を注ぐタイミングが異なるだけですよ。私の頑張り時はまさに今。そしてあなたの頑張り時はその後です。某栄養ドリンクで『二十四時間戦えますか』ってキャッチコピーがあるらしいですが、そんなの疲れちゃいますよ」
向野さんは顔を上げ、僕の目を見て微笑んだ。
「ご安心ください。私とあなた、二人がいれば、どんな事件も解決できますよ」
安心、という言葉に安心感を抱いたのは初めてかもしれない。他の人に言われたとしても、素直に受け取ることはできなかっただろう。
僕は言われた通り、ふかふかの羽毛布団をめくってベッドに潜った。
温かい。肩からつま先まで、優しさに包まれているような感覚だ。エアコンで適度に冷えた室内で、厚みのある布団が身体に密着し、意識を削いでいく。
あっという間に僕は眠りに落ちた。
夢を見た。
夢というより願望、あるいはあったかもしれない未来だった。
僕は両親の切望する大学に受かり、彼らと合格祝いをした。寿司、ステーキ、ピザ、ケーキ、実家で食べたことのないようなメニューが卓上に所狭しと並んでいる。隣に座る母さんは嬉々と皿に料理を盛り、普段は無表情な父さんも口元が緩んでいた。長年の努力が実り、ようやく僕はこの家の息子として認められたのだ。僕は泣いて喜んだ。頬を伝う黒い涙は、これまで溜め込んだ悲しみや怒りの象徴だ。すべて排出して、僕は綺麗な人間になる。
ひとつ気がかりなのは、なぜかこの場に収がいないことだ。
『あなたの大切な人を助けたいですか?』
どこからか、渦の声が聞こえた。
僕は質問に答えることができなかった。




