3章:ストレス
生存者は三人になった。
響人さんは上の空でぶつぶつと呟いていたが、やがて映像を切ってしまった。後追いなんて最悪な手段を選ばなければいいが、行方を確かめる術はない。
僕と他二人の視聴者で相談した結果、しばらくはログアウトしようという結論にいたった。渦の言うことを信じるなら、明日の夜六時に三人は解放される。怪我人がいるのは心配だが、このまま緊張状態が続くと、互いに疲弊してうっかり暴言を吐いてしまう可能性もゼロじゃない。今は落ち着くための時間が必要だ。
拘束された三人にそれを伝えたところ、収と金髪の少年は了承してくれた。この中で唯一の女性、実紗さんの夫であるケンジさんは不安からか最後まで頷いてくれなかったが、実紗さんは振り切るように通信を断った。
あっという間に夜の八時だ。僕も映像を切ると、急に疲労が押し寄せてきた。
「何か、食べるか……」
今日は焼肉に一点集中のつもりだったから、朝と昼の食事を抜いていたのだ。さすがに丸一日胃を空っぽにしておくのはまずい。
そういえば、ここはどこだ?
オフィス街の外れにある公園なのは確かだが、慌てて移動したから駅がどっちかもわからないし、コンビニや飲食店も見当たらない。
動く気力が湧かなかったのでタクシーを呼び、駅前のファミレスまで送ってもらった。カルボナーラを食べながら、これからすべきことを整理する。
もっとも安全な方法は、このまま明日の夜六時まで何もしないことだ。それまでアプリには一切アクセスせず、時間になったら『あなたの大切な人を助けたいですか?』という問いに対しイエスと答えれば解決する。
だが渦がこんな単純な必勝法を見越していないはずもない。あるいは冷静に待つことなど不可能であると侮っているのか。少なくとも、金髪少年に傷を負わせてしまった眼鏡の男性には難しいかもしれない。
僕だって収を放っておきたくない。弟は今でこそ常識的な判断ができているが、このまま拘束が長引けば、禁止事項を破って渦に殺されてしまう危険だってある。彼らが捕まっている場所さえ特定できれば、助けに行けるのに。
腹は満たされたが、靄がかかってうまく思考が働かない。こんな感覚は初めてだ。僕も少なからず参っているらしい。
家に帰る気にもなれず、そのまま二時間ほどファミレスでぼうっとしていた。ラストオーダーのタイミングで店員に声を掛けられてから会計し、隣のコンビニで充電器を買った。
結局同じ公園のベンチに戻ってきてしまった。近くに人がいると相談したくなるし、助言を求めたところで「警察に頼れ」と突き返されるだけだろう。
このまま一人で悶々としていても埒が明かない。前に進むためには話し、考え、動くしかないのだ。
アプリにログインすると、衝撃の光景が飛び込んできた。
ケンジさんが左肩から血を流して呻いている。
ワンペナ。ケンジさんあるいは実紗さんがNG行動を起こしたのだ。
「実紗……ひどいよ……」
傷口を押さえることもできず、ケンジさんがパイプ椅子に座りながらうなだれている。
「こっちだって辛いのに、こうなったのはまるで全部アタシのせいみたいに言うから……。そもそもアンタが浮気して夜中に家を飛び出したのがいけないんじゃない!」
「だからそれは誤解だって何度も説明してるだろ! ボクが家出したのは君がそうやって事あるごとに癇癪を起こすのがいい加減耐えられなかったからだ!」
「また責任転嫁するのね。離婚しないのだって、どうせアタシから切り出すのを待ってるんでしょ? おあいにくさま、アンタの思うようにはさせないわ」
「くそ……。ここから出たら許さないからな……」
「ふん、本当に出られたらね」
「……っ、お前……!」
まさに恐れていた事態に陥っていた。
ストレスがこの夫婦喧嘩を引き起こしているのは明らかだ。何分前から言い争っていたのかはわからないが、ワンペナという大きな代償をもってしても、まだ実紗さんの熱は引いていない。このままでは伝馬・響人親子の二の舞になってしまう。
「実紗さん、ひとまず落ち着いてください。このままじゃ渦の思うつぼです」
「うるさいわね! マスク女の思惑なんて知ったことじゃないわ! アタシは夫に反省してほしいだけなの。アンタたちみたいな仲良し家族にはわからないでしょうけどね!」
僕と収の会話を中途半端に耳にしていたのだろう。兄弟間はまだしも、家族全体にスケールを広げると、円満とは程遠いというのに。
「さっきその子から聞いたわよ。兄弟そろって有名大学の学生だそうね。アンタは『東大生』なんですって? 弟クンよりランクが下の大学に通うってどういう気持ちなのかしら?」
「……学歴の話は関係ないでしょう」
「そう? あの女も最終的には身代金を要求してくるんじゃないの? それなら優秀な弟クンを人質にした方がいいものね。捕まったのが逆だったら、むしろ始末してほしいくらいよ。劣等生の兄なんて存在価値がないわ」
心の底に落ちた一滴のどす黒い感情が、瞬く間に広がっていく。
なぜ収は大学の話題なんて口にしたんだ。兄弟がそろっていたら、比較されるなんて容易に想像できるだろうに。
『お兄ちゃんと違って収は頭の出来がいいから』
『よくやった、収。お前は観崎家の誇りだ』
『兄弟なのにどうしてこんなに差が出るのかしらね』
『心底がっかりした。お前にはもう期待しない』
過去に負った傷が、再び疼き始める。
あるいは、わざと喋ったのか?
僕を貶めて、心の安定を保つために。自分の優位性を確かめるために。実紗さんを通して僕を攻撃するために。
「……兄さん?」
カメラの向こうにいる弟の輪郭が歪み、あの怪物たちと同じ姿になっていく。
「……見るな……」
「兄さん、しっかりして!」
「頼むから……」
「兄さんってば!」
「うるさい!」
僕が弟の劣化版であることなど、とっくに受け入れていたはずなのに。
改めて突きつけられると、全力で否定したくなる。
こんな事件さえ起きなければ、自分の本心とうまく付き合えていけたのに。
ぜんぶ、渦のせいだ。
巻き込まれて、吸い込まれて、飲み込まれて、ぐちゃぐちゃになる。
収と渦の顔が重なる。
「渦なんか――」
言いかけて、はっとする。
渦への暴言は、ワンペナとなる。間一髪だった。
いや、そうじゃない。
僕は今、何を考えていた?
渦への憎しみ? 違う。
NG行動にかこつけて、収を意図的に傷つけようとしたんだ。
「……ごめん、頭を冷やしてくる」
「兄さ……」
収の返事を聞く前に、僕は通信を遮断した。
ベンチで頭を抱える。
結局僕も、他の参加者と同類じゃないか。このままではいずれ収を傷つけてしまう。殺してしまう。助けたいはずなのに、勝手に別の気持ちが育っていく。伸びた蔓が神経を乗っ取っていく。細い枝が心臓を次々に貫く。落ちた葉が正義感を覆い隠す。熟れた果実が、心を腐らせる。
僕はもう、立ち上がれない。
「お時間はありますか?」
羽でもついているかのような、軽やかな声だった。
「軽くお茶でも飲みながら、あなたとお話がしたいんです」
カフェオレ色のショートヘアに、水晶玉のような透き通った瞳。
「……どうして、ここに……」
デニム地のキャミソールワンピース姿は今日も健在だった。いつもは薄い色を好んでいるのに、シャツが黒いのは焼肉のシミ対策だろうか。
「探偵・向野麗央、ただいま参上しました♪」
ワンピースの裾をつまみ、向野さんは悪戯っぽく笑ったのだった。




