3章:束と収
「ここから先はしばらくフリータイムとします~。あたしが戻ってくるまではご自由にコミュニケーションをとってください~。ただし警察はダメですよ~」
渦が画面から去り、僕たちは取り残された。他の三人はそれぞれの家族に励ましの言葉をかけているようだが、肩を刺された二人の反応は鈍い。負傷で返事ができないのではなく、自分を間接的に傷つけた相手に不信感を抱いていると表現した方が近いかもしれない。
僕も現状を正しく把握するため、椅子に拘束された収に呼びかける。
「収、怪我はないか?」
「やあ、兄さん。縛られている部分が少し痛いけれど、問題ないよ」
久々の兄弟の会話が安否確認になるとは、想像もしなかった。
「早速で悪いけど、一瞬ログアウトするからちょっと待っててくれるか? すぐに戻るから」
「うん、心配してくれてありがとう。兄さんも緊張状態が続いたろうから、リフレッシュしてきて」
アプリを終了し、腕時計を確認する。
六時四十八分。
僕は急いで待ち合わせ場所から離れ、近くの公園に身を潜めてから向野さんにメッセージを送った。
『すみません。急用ができてしまいました。焼肉は今度にさせてください。本当にごめんなさい』
事情説明のない一方的な断りに、向野さんは怒るだろうか。だがうまい言い訳を思いつく余裕はなかった。
この事件、絶対に向野さんを巻き込んではならない。
僕の弟が誘拐されたと知れば、必ずあの人は協力してくれるだろう。四人が同時に攫われ、かつ次々に殺されるリスクがある以上、連続殺人事件と言えなくもない。渦のルールに則るなら、警察関係者でない向野さんのアシストは違反にはならないはず。向野さんの力を借りれば、絶対に事件は解決できる。
それがまずいのだ。
僕は向野さんに、これ以上死んでほしくない。生き返るとわかっていても、大勢の命が救えるとしても、身内のためであっても、彼女を苦しめたくないのだ。
かつて向野さんは言った。『幸不幸も苦楽も、私自身が決める』と。だったら僕だって、大事なことは自分で決める。彼女の死は僕にとっての大いなる不幸だ。
スマホが震える。向野さんからの返信だ。
『かしこまりました。また今度一緒に焼肉行きましょう! その時は高級店でなくても構いませんので!』
きっともう電車に乗っていただろうに。不満を一切感じさせない文面に心の底から申し訳ない気持ちになる。もう一度謝罪のメッセージを送ってから、再度アプリにログインした。
「収、お待たせ」
「そんな急がなくても良かったのに。時間はあるんだから」
そういうわけにもいかない。釈放が約束されているとはいえ、既に怪我人が出ているのだ。一刻も早く救出しなければ、失血から死にいたる恐れもある。
「ざっくりとこっちの様子を共有するね。渦さんが言っていた通り、捕まっているのは確認できるだけで四人。面識のない、初めて顔を合わせた人たちだ。建物は廃工場っぽい雰囲気かな。カビ臭さはないから、割と最近まで使われていたのかも。設備はないけれど、大きな機械が置いてあったような跡が床に散見されるね。工場の中に入ったのは高校の社会科見学以来だけど、小さい方なのかな。アパートでいうなら三階建てワンフロア五部屋くらいの体積って感じ」
訊きたかった施設内の情報を的確に伝えてくれる。我が弟ながら、冷静な観察眼に賞賛を贈りたくなる。
「自力で脱出するのは難しそうか?」
「腕のロープは頑張れば外せないこともなさそうだけど、渦さんに止められているんだよね。俺たちに課せられたルールはふたつ。ひとつは、ここから逃げようとしてはいけない。もうひとつは、渦さんに逆らってはいけない。俺たち、カメラで監視されているみたいだから」
収が顎で斜め上を指す。こちらからは視認できないが、発言や行動は逐一見張られているらしい。
「渦の仲間は何人いる?」
共犯者がいる前提で質問をしたのは、こんな大がかりな誘拐事件を女性単独で起こせるはずがないと踏んでいるからだ。
「どうだろう……。少なくとも彼女以外は見てないし、スマホもパソコンも使っている気配はなかったよ」
「攫われた時の状況は覚えているか?」
「それがさっぱりなんだよね。一人で外を歩いていたら、突然背中に衝撃が走ったんだ。たぶんスタンガンとか押し付けられたんじゃないかな。目が覚めたらもうここにいたから、移動手段とか距離感とかもさっぱりなんだ。渦さんが現れる前に横の三人にも話を訊いてみたけれど、似たような感じみたい。攫うのは、業者に外注でもしたんじゃないかな」
収は頭の回転が速いやつだ。僕が知りたい情報は何でも先回りで調べてくれている。それこそ本気になれば、脱走くらい難しいことではない。しかし自分だけならまだしも、三人の同類を抱えている以上、この弟は一人で逃げ出そうとは考えないだろう。しかも仲間のうち二人は怪我人である。
ふと、収の左足に意識が向いた。黒のパンツと同色の靴との間に、真っ白な包帯が見えたのだ。
「それ、連れ去られた時に痛めたのか?」
「ううん、ちょっと階段から落ちちゃって。捻挫で全治三週間だってさ。おかげでダンスの練習もできないから、最近ヒマでヒマで」
収は大学に入ってからもブレイクダンスを続けているらしい。国立大学合格という夢を果たしたからか、多少は自由にやれているようで安心だ。僕は勉強以外、ほとんど母さんに禁止されていたから。
「そういえば母さんがさ」
こちらの心を読まれているのではないかとドキッとする。
「こないだ兄さんのベッドを処分しようとしていたんだよ。物置にしたいって。だから俺の部屋に移しておいたからね」
「ああ、一応連絡はあったけど」
「どうせ母さんが勝手に決めただけでしょ? 組み立て式で良かったよ。一度バラして、俺のクローゼットに入れてあるから。これは俺の持論だけど、寝床って居場所そのものだと思うんだよね。いくら日中は家族で楽しい時間を共有したって、一日の最後を迎えるところが客用の布団だったら寂しいもん」
こいつが弟じゃなかったら、聖人として崇めてしまいそうだ。もちろん感謝も尊敬もしているけど、油断すると心の弱い部分を委ねてしまいそうになる。
「楽しい時間なんて記憶にないけどな」
「父さんが言ってたよ。『束を飲みに誘いたい』って」
「……嘘だろ?」
あの感情死滅ロボットのような男が?
「嘘じゃないよ。俺と二人きりの時は割と素直だから。あの人たちの夢を俺が叶えたことで、少しは己の教育を振り返る余裕ができたんじゃないかな。『束には厳しくしすぎた』『束はいつ帰ってくるんだ』ってよく言ってるよ。母さんの前では無口だけど」
「エゴ満載な言い分だな」
「あの人も未完成の人間だからね。完璧から程遠い存在だってことは、俺たちがよく知ってるでしょ?」
「まぁな」
「そのうち連絡が行くだろうから、検討するだけしてみてよ」
ほんの一瞬だけ、僕は渦に感謝しそうになった。
この事件が起きなかったら、収と真正面から会話をする機会は訪れなかったかもしれない。父さんの気持ちを想像することもなかった。
「いい加減にしろよ!」




