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3章:渦

 予約は夜の七時。待ち合わせはその十五分前に、焼肉店の最寄駅で。


 腕時計の針は六時を回ったばかりだ。


 楽しみにしすぎだろ、僕。


 いや、遅刻は言語道断だから、万が一電車遅延があっても遅れないよう早めに出発しただけで。日本の電車はあまりにも定刻通りだから早く家を出た分早く到着したに過ぎないのだ。オフィス街ゆえに時間を潰せそうな場所もないし。それに向野さんが早く着いていたら、何十分も待たせることになってしまう。人気(ひとけ)のない場所に女性を一人にさせられるものか。


 ズボンのポケットに入れたスマホが震える。振動の長さからしてメッセージではなく電話のようだ。遅刻連絡だろうか。急用が入ったとかでなければいいが。


 液晶に表示された名前を見て、僕はうんざりする。前もあったな、こんなこと。


「……はい」

「シュウ知ってる?」


 この必要最小限の問いに対し答えられるのは、世界中どこを探しても僕くらいだろう。それだけは自信を持って断言できる。


 電話を掛けてきたのは母さんだった。ならばここで言う「シュウ」とは、彼女の唯一の息子であり僕の弟、観崎収(かんざきしゅう)のことだ。


 収は僕よりひとつ年下の、優秀な弟だ。僕より勉強ができるのはもちろん、運動神経も抜群で、趣味でブレイクダンスをやっているらしい。ストリートの大会で個人賞をもらったこともあるとか。兄から見ても眉目秀麗で、過去に二人ほど付き合ったことがあるという。最後に会った時にはフリーだったと記憶しているが、それもあくまで弟が高校時代の話。第一志望の国立大学に受かって夢のキャンパスライフを送っている現在はガールフレンドの一人や二人はいるだろう。


 これを母さんにそのまま伝えたら、「ふざけるな」と怒鳴られるに違いない。


「シュウ知ってる?」という質問は、「シュウがどこにいるか知っているか」と読み解くのが正解である。とはいえ一人暮らしの僕が、実家暮らしの弟の所在を知るはずもない。


「……知らないよ。ウチの住所だって教えてないし」


 おそらく母さんは、収が僕の家に転がり込んでいると勘繰っているのだ。


「ケンカでもしたの?」

「最近帰りが遅いから注意したら、ふて腐れて出ていっただけよ」


 何でもない風を装っているが、内心は台風時の海原より大荒れに違いない。帰りが遅いって、どうせ八時とか九時とかだろう。女子高生じゃないんだから。それに注意というのも、一方的な叱りつけに決まっている。実家にいたころ二日に三回は、近隣まで響き渡るような大声で説教された。小テストくらい百点とれなくてどうするんだとか、休憩時間が長いとか、居眠りするなとか。


「わかったらすぐに教えなさいよ」


 返事をする間もなく、電話は切れた。


 収は昔からストレスをうまい具合に発散していた。ダンスを始めたのもその一環だろう。僕が家を出たことで母さんのプレッシャーを一身に浴びることになったのだとしたら、申し訳ない。大学が夏休みに入ったら、一度ウチに呼んで愚痴でも聞いてあげようか。


 僕はスマホをポケットに戻さず、そのまま通話機能を立ち上げる。母さんに居場所を告げ口するつもりは毛頭ないが、一応兄として無事を確認する権利くらいはあるだろう。収に電話するなんて初めてだからなんだか緊張する。


 五秒もしないうちにコールが切れる。スマホの向こうからかすかに吐息が聞こえた。




「観崎束さん……お兄さんですかぁ?」




 しかし声の持ち主は収ではなかった。寝起きのような、まどろんだ女のトーン。


「……えーと」

「良かったぁ! ちょうどこちらから連絡しようと思っていたところだったんですよ~。手間が省け……けほん、運命感じちゃいます!」


 アニメのキャラクターのようなわざとらしいふわふわ口調は、収が裏声を使っているとは到底思えない。そもそも僕たちはジョークを言い合うようなフランクな間柄でもなかった。


 つまるところ、この女性の正体は弟の恋人だ。おそらく隣、あるいは同じ部屋にいる収のスマホを勝手にとったのだろう。僕の正体を知っているのは、液晶に名前が表示されていたから。父でなく兄と判断したのは、一度や二度、話題に挙げたことがあるという理由だ。


 恋人の家に泊まっているのなら一安心だ。相変わらずモテ男だな。


「はじめまして、兄の束です。弟がお世話になってます」

「いえいえ、こっちが勝手にやってることですから。むしろあたしが迷惑かけちゃってるくらいです~」


 声色が、溌剌とした嫌味のないものに変わる。同級生だろうか。あるいはダンス関連の知り合いか。


「それで、僕に連絡しようと思っていたっていうのは?」

「そうそう! このあと束さんに招待メッセージを送るので、すぐに確認してくださいね。テキパキ進めたいので!」


 招待? テキパキ? サプライズパーティを企画しているわけでもあるまい。一体どういう意味だろう。


「あの、あなたは収の彼女ですよね?」

「違いますよ~。弟さんは全然タイプじゃないです。あたしは細マッチョよりゴリゴリの方が好みなんで。会ったのは今日が初めてですし、あなたが収さんのお兄さんと知っているのは前々から調べていた故です~」


 からからとした語り口とは対照的に、言葉にはねっとりとした不安を孕んでいる。スマホを通じて不安は喉を滑り落ち、体内でじんわりと広がっていく。


「あなたは……一体誰ですか?」


 形のない不穏因子に名前を付けようと、僕は質問を重ねる。




「あたしは、(うず)


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