2章:冷たくて、苦い
「何かしら?」
「……小原さんは、先週の取材で、初めて斑目に会ったんですよね?」
「ええ、そうよ」
僕は一呼吸置いてから、口を開く。
「どうして、斑目の飲み物の好みを知っていたんですか?」
「……どういうこと?」
店内の優しいBGMが、打って変わって不穏な雰囲気を醸し出す。
「あの日はとても暑かった。オフィスに到着した僕に、あなたはアイスコーヒーを淹れてくれました。それなのに斑目に対してはホットコーヒーを出しましたよね」
僕ははっきりと覚えている。斑目の手元にあるコーヒーから湯気が出ていたことを。彼が唇をすぼめて飲んでいたことを。
「斑目は自分でも寒がりって言っていたじゃない」
「それは取材が始まってからの発言です。せめて一言、ホットかアイスかを尋ねるべきだったんじゃないでしょうか」
「……そうだったわね。思い返せば、わたしも無意識に緊張していたのかも。これからは注意するわ」
「それだけじゃない。今ネットで出回っている動画もおかしなところだらけです。まるで僕や斑目に配慮しているかのような映し方、皮木や社名プレートの執拗なズームアップ。世間では暴行現場に偶然遭遇したかのように思われているみたいですが、周囲に建物もないあんな場所、関係者でなければ真夜中に近づきませんよ」
「つまり今回の一件は徹頭徹尾、わたしと斑目の共謀だと言いたいの?」
それが真実だとしたら、小原さんは正義の記者などではなく、ただの犯罪者に成り下がったことになる。
「その疑惑に関しては否定させてもらうわ。共謀なんかじゃない。わたしは、わたしのために……ううん、何でもない」
目じりが光っている。作り笑いも弱弱しい。
これは架空の話なんだけどね、と前置きして、小原さんは静かに語る。
「とある高校生の後輩に、母子家庭の子がいたのよ。彼女は吹奏楽部でサックスをやりたがっていたけれど、買うお金がなかったの。だから学校貸し出しの別の楽器をやろうとしていた。そこで先輩は『お下がりでも良ければ』って家にあるもう一本のサックスを譲ったの。そこから懐かれちゃって、部活以外でもしょっちゅう一緒にいて、後輩というより妹みたいな感覚だったわね」
懐かしむように、小原さんは「ふっ」と息を漏らす。
「先輩が大学生になって後輩が就職してからも、交流は続いていたわ。後輩は、先輩のキャンパスライフの話が大好きだったみたい。そのころにはお母さんが病気がちになっていたから、仕事以外では外出することもなかったのよ。
そのうち時短勤務のために飲食店に転職することになったって聞いて、それじゃあ落ち着いたら食べに行くねって先輩は楽しみにしていて……。それが最後のやり取りだった。メッセージを送っても返事がなくて、はじめは新しい仕事が忙しいのかなって遠慮してたけれど、まさかあんなことになっていたなんて……」
「……その先輩は、後輩のことが大切だったんですね」
「だからこそ、決意したのよ。死者を冒涜し、その母親をも自殺に追い込んだ皮木を、週刊リアリィを、絶対に許さないってね」
「先輩の怒りがひしひしと伝わってきますよ。これが作り話なら、小原さんは記者より小説家の方が向いているんじゃないですか」
「それもアリかもね。もう記者でいる必要もなくなったし」
何度か見た、ビジネス用のスマイルを浮かべている。
これ以上追及しても無駄だろう。小原さんを語り落とす役割に、僕は分不相応だ。それより問題なのは、この隠し事を突き止めている人間がもう一人いるであろうということ。
「僕が気づくくらいですから、向野さんだってとっくに気づいていると思います」
もっとも、僕も過去に向野さんに対し秘め事を持っていたからという経験を踏まえての推測だが。
「あなた、こないだも自分を卑下するような発言をしていたわね。何度でも訂正するけれど、あなたも優秀よ」
「だから僕は普通の……」
「偏差値七十の有名大学に通っておきながら、東大以外は全部ゴミだと本気で思ってるの? ご両親の教育があなたをそうさせたのなら同情するけれど、自分の意思で語っているなら軽蔑するわよ」
軽蔑という一言は、氷の矢となって僕の心臓を射抜いた。身体が内側からじわじわと冷えていく。
「ごめんね。おばさんの余計なお世話よね。でもキミはもっと、自分に自信を持つべきよ。そうじゃないと、守りたいものを守れない」
「さっき、麗央を守ってくれてありがとうって言ってたじゃないですか」
「キミが本当に守るべきなのはキミ自身よ」
「僕自身……」
「今度こそ、話はおしまい。それじゃあ元気でね」
小原さんは髪をたなびかせ、カフェを去っていった。
「どうして僕が負けた感じになってるんだろうな」
うまいことごまかされた気がする。これが大人のやり方というのなら、僕もまだまだ幼い子どものようだ。
とはいえ、小原さんの言葉には取り入れるべき部分もあった。
「自分を大事に、か」
向野さんはどうだろう。他人を助けるために何度も死ぬのは、自分を大事にしていると言えるのだろうか。自らのポリシーにさえ従っていれば、法律や倫理に背いていたとしても正しいのだろうか。
「ちゃんと生きるって、難しいんだな」
手元のアイスコーヒーを、今度は舌で転がしてじっくり味わってみる。
冷たくて、苦い。




