2章:強さとは
腕時計の針は深夜の〇時十五分を指している。
「『クラプラティオ』で美波さんが暴行を受けた時間ですね」
向野さんの声は憂いを帯びていた。殴られる痛みを、いたぶられる苦しみを、その身で体験したことがあるかのような、暗く重い声だった。
本来、キャバクラの営業時間は零時までと法律で定められている。しかし実際はクローズの時間をぼやかし、一時や二時まで営業している店舗も多い。
「あなたが、現行犯逮捕されるリスクを承知で『ユーフォリア』を犯行現場に選んだのは、林野に美波さんと同じ恐怖を味わわせたかったからですよね。徒手空拳にこだわったのも、湊の暴行になぞらえるためだった。今回も、美鈴さんの殺害現場であるリアリィ編集部を襲撃するつもりですか」
美鈴さんは自殺した。だが彼女をその行為にいたらしめた、いくつもの無責任な誹謗中傷記事はこの場所で生まれたのだ。
「わかっているならどいてくれよ。ボクはあいつを許すわけにはいかない。林野も湊も、ボクなりに折り合いをつけた。あとはあの記者……今は週刊リアリィの編集長、皮木想太をぶっ殺すだけだ」
織北区キャバ嬢殺害事件は、数々のメディアで報道されている。大半は美波さんに同情的な内容だったが、一方で大衆の好奇心や嗜虐心をあおるような記事を書く記者がいた。それが皮木だ。
初めて彼を見た時に抱いた嫌悪感の正体は、心の内側を勝手に覗かれている、粗探しをされていると感じるような不気味さだったのかもしれない。
「あなたがわざわざ私たちに情報を提供した理由について、ずっと考えていました。自分の悲痛を理解してほしかったとか、心のどこかで犯行を止めてほしかったとか、想像してみました。けれど、行き着いた答えは非常にシンプルでした」
「……聞かせてくれるかな」
「皮木をオフィスに一人にさせるため」
「へへ、大正解」
どこか嬉しそうに、斑目は口角を吊り上げた。
「こないだ小原さんが言っていました。ライターの多くは原稿の執筆を家やカフェで行うため、定時後はすぐに人がいなくなると。そんな中、皮木と小原さんの二人だけは『職場のほうが捗る』という理由で毎日遅くまで残業しているそうです。この事実はあなたも、下見の段階で気づいていたのでしょう。
美波さんの命日という計画の日付を最優先にする以上、何としても小原さんを社内から追い出す必要がある。だからこそ取材担当者にするために『インタビュアーは若手にやらせろ』という条件をつけた。あなたの目論み通り、彼女は次のターゲットが湊であると考え、今は青森にいます」
「だんだん怖くなってきたよ。取材では的外れな意見ばかりだったのに。君、本当にあの時の子?」
「話の流れでひとつ、謝罪させてください。実は私、リアリィの編集者ではなく、探偵なんです。隣にいる観崎束もカメラマンではなく、私のアシスタントです。騙してしまって申し訳ありません」
向野さんがその場で頭を下げる。犯罪者に対してここまで実直に向き合っているのは、斑目に一定の同情があるからだろう。
「なるほど。正体を隠すためにあえて無能なフリをしていたってわけか。一杯食わされたな、へへ」
それに関しては素です、と訂正したかったが、あえてこちらが不利になる情報を今は出すべきではない。
なぜならさっきから、斑目は両手をぶらぶらさせたり手首を回したりと、戦闘のウォーミングアップをしているからだ。
「だらだら話していると皮木が出てきちゃうからね。悪いけど、実力行使で行かせてもらうよ」
相変わらず笑みを浮かべたままだが、眼光は的を射抜くように鋭い。かつてアマチュアボクシングでフェザー級二位だったというのは本当らしい。柔和なおじさんから一人のボクサーの顔つきになっている。
だが斑目は知らない。向野さんはただの探偵じゃなく、不死身だということを。殴殺しようとしたって、何度でも生き返る。五十過ぎの男の体力は、そう長続きしないだろう。これは勝ち戦だ。
「……束さん?」
僕は向野さんの前に立ち、ファイティングポーズをとる。
「下がっていてください、向野さん」
だからどうした。
いくら不死身だからって、女の子が一方的に殴られるのを見ていられるはずがない。もちろん僕に勝てる見込みは一パーセントもないし、暴行を受け続ければやがて死ぬ。
それでも、向野さんは命を賭して事件をここまで解明したのだ。僕だって命を賭けて斑目を止めなければ、アシスタントとして立つ瀬がない。いや、それはただの言い訳だ。
僕は、向野さんを守りたい。
睨み合いは十秒も続かなかった。
構え方からして素人と見抜いたのだろう。斑目はずんずんと距離を縮めてきた。
鋭角で右フックが飛んでくる。僕は両手でクロスを作り、ぎりぎり正面から受け止めた。拳を浴びた箇所がビリビリと痺れている。
このガードは失敗だったらしい。がら空きになった脇腹に、左のジャブがめり込んだ。
「ぐっ!」
パンチにさほど力は入っていないのかもしれないが、筋肉の付きが弱い部分への一撃は僕の神経を激しく揺さぶった。
引いたら攻め込まれる。
懸命に拳を振るが、斑目はひょいと片足を後ろに退いて回避してしまう。黒いダウンジャケットが暗闇に溶け込んでいて、距離感がうまくつかめない。
避ける際に引いた足を軸に、斑目が踏み込みを入れる。
まずいと自覚した時には、再び僕の腹に拳が突き刺さっていた。
「が……はっ……」
追撃は止まらない。顔に、肩に、胸に、腹に、次々と攻撃を浴びせられる。よろめいていることが幸いし、不規則な動きとなってクリティカルな一撃からは逃れられているが、次にでかい一発を浴びたら意識が飛びそうだ。斑目の両腕を懸命に目で追い、次の動きを予測する。
一瞬、視界が真っ暗になった。
強い衝撃と同時に仰向けに倒れる最中、斑目の右脚が見えた。
ハイキックなんて、聞いてないよ。
「専門は殴る方だけど、蹴りも素人よりはうまいよ」
背中からコンクリートの地面に激突する。
「束さんっ!」
「……動かないで」
手で制し、ゾンビのような恰好で立ち上がる。
胃液が喉元までせり上がっているのがわかる。口の中が酸っぱくて、苦い。景色の輪郭がぶれている。斑目が近くと遠く、二人いるように見える。
「へぇ、根性あるね」
「根性しかないですよ」
本当は根性なしだ。今すぐにだって逃げ出したい。
「もう限界だろう。道を開けてくれないか」
「断る」
痛い。身体が悲鳴を上げている。立っているだけで辛い。
「どいてくれよ。弱者をいたぶる趣味はないんだ」
「……僕は、弱くなんかない」
「ん?」
嘘だ。僕は弱い。誰かを守るなんて分不相応な役割だ。
それでも。
「向野さんに手出しはさせない。僕はもう、誰かが傷つくことを当たり前だなんて諦めない。僕は……僕はっ! 強くありたいんだ! だから絶対に、引き下がるわけにはいかないんだ!」
「……ボクにも最初からそれくらいの覚悟があれば、美波たちを失わずに済んだのかもしれないね」
斑目は寂しそうに小さく息を吐き、拳を腕の高さまであげた。
「これ以上苦しまないように、次の一発で決めてあげるよ」
拳か、脚か。逆転の術があるとしたら、攻撃をかわした上でのカウンターしかない。見苦しいタックルでも禁じ手の金的でも、何でもいい。斑目を、止める。
「ボクは計画を完遂する!」
駐車場一帯に響き渡る鈍い音とともに、斑目が膝をついて倒れた。




